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無実とも言えない |短編

電気をつけない部屋には、うっすらと自分の体温だけが漂っている。
葵はその匂いを、自己愛の澱のようだと思いながらも、指をスイッチへ伸ばすことはしなかった。

灯っているのは、チェストの上の人参型ライトと、壁を這うテープライトだけ。
螺旋を描く淡い光が、部屋の輪郭をかろうじて示している。
その曖昧さが、今の自分にはちょうどよかった。

シャワーも浴びずにベッドへ倒れ込む。
壁を向いたり、チェストを向いたりする。

スマホの裏のリングに指を引っかけ、くいっ、と起こす。倒す。
くいっ、と起こす。倒す。

起こして、倒して、起こして、倒して――
指がスマホケースの裏を小突く。ぽん。ぽん。指だけが、ひとりで動き続けている。

スマホを起動すると、目の奥がきゅっと縮むほどの白い光が顔の下半分を照らした。
一瞬、待ち受けが見えた。光太郎と二人で笑っている。

すぐにインスタを開いた。

検索窓に「正」と打ち込んだだけで、候補が出た。
何度も打ったことのある指が、名前を覚えていた。

会いたかったわけではない。
ただ、その名前が指先に残っていただけだ。

画面の向こうで、正樹は笑っていた。
居酒屋のざわめき。ジョッキ。赤い顔の友人たち。
壁に貼られた「本日ハイボール190円」の短冊。

元気そうじゃないか。

そう思った瞬間、指が画面を二度叩いていた。
赤いハートが、ぽん、と浮かぶ。

画面がまだ明るいうちに、LINEの通知が点いた。
ビクッとして、スマホを伏せる。

でも伏せた手のひらの中で、もう二度目の振動が来ていた。

開かなければいい、と思いながら、表にした。
正樹の名前。指が通知の上にあった。

迷っているうちに、押していた。
既読、が灯る。

「どした?なんかあったか?」

葵は息を止めた。

「なんでもない!元気そうでよかった!」

笑顔の絵文字をつける。
笑っている。黄色い顔が、こちらを向いている。

すぐに着信画面へ切り替わった。

正樹。
ただ名前が表示されただけなのに、胸の奥で古い引き出しがひとつ、きい、と開く音がした。

「もしもし」

『お前がなんでもないって言うときは、だいたいなんでもあるんだよ』

少し乱暴な声だった。

『どこ。今すぐ行く』

「来なくていい」

『どこ』

「ほんとに、何でもない」

『だから、どこ』

葵は黙った。
沈黙は、正樹にだけは住所のように伝わってしまう。

駅前のマツモトキヨシの黄色い看板が、湿った夜気の中に浮かんでいた。
黄色い。明るい。薬の色。

正樹は二十五分で来た。
少し息を切らし、髪も整っていない。上着のファスナーは半分だけ上がり、その雑さが葵の胸を妙に痛くした。ユニクロのパンツ。前と同じ。

「……よ」

「ごめん。本当に何でもなかったんだけど」

「いいから。腹減った」

正樹は葵の言い訳を拾わなかった。二人はそのままガストへ入った。


深夜のガストは、思いのほか混んでいた。
勉強する学生。黙ってパフェを食べる女の子たち。
スーツ姿の男。水だけが入ったグラス。氷が減っていく音。

正樹はハンバーグを、葵はポテトとドリンクバーを頼んだ。

「ちゃんと食えよ」

「食べてる」

「ポテトは食事じゃねえだろ」

「国によっては主食」

「ここ日本」

立派な言葉ではなく、ポテト。
とりあえずのケチャップ。
愛ではなく、ドリンクバーの氷。

ステンレスのフォークが皿に当たる。
カチャン。

その金属音で、白い廊下が戻ってきた。

病院。
目が痛くなるほど白い廊下。消毒液。スリッパの底が床に貼りつく音。

光太郎の従姉妹は、酸素マスクをつけたまま笑っていた。はにかんだ光太郎が言った。
「彼女は葵。……そういうことなんだ」

彼女は、紙のような白い顔で、ニコッと笑った。うん、うん、と頷く。

葵が持ってきた花束のセロファンが、ぱり、と鳴った。好きな花がわからず、カラフルなガーベラにしたのだが、かえって従姉妹の痩けた顔色をさらに褪せさせたように思えた。

ぱり。ぱり。ぱり。皺になるのに、手の力が抜けない。

光太郎が医師と話すために出ていく。
行く前に、一瞬だけ葵の手首に触れた。それだけだった。

部屋が、静かになった。シーツの上で、白い手が動いた。指が、ゆっくりとマスクのゴムにかかった。

「だめだよ」

葵の声は、思ったより小さく出た。

従姉妹がこちらを向いた。ゴムを外す手が、止まらなかった。
マスクの上の目が、涙で光っていた。

睨んでいた。
マスクがずれた。唇が動く。

「取らないで……私には、光ちゃんだけなのに」

葵は、セロファンを握ったまま、動けなかった。

従姉妹の体が、ベッドへ沈んだ。
のけぞるように。

アラートが、鳴った。

看護師が飛び込んでくる。「処置しますから外に出てください」
押される肩。
駆け戻ってくる光太郎。

家族じゃない。

やがて病室から出てきた光太郎は、困ったように笑った。

「葵、気にするなよ」

こういう場の経験を重ねた顔だ。

「トイレ。我慢してたの!行ってくる!」

小走りに廊下を行く。角を曲がる。口を押さえる。叫びを殺す。
病人がたくさんいる場所――
苦しいのは私じゃない。


「ちょっと、ごめん」

喧騒の店内で、葵は立ち上がった。

トイレの個室に入り、鍵を閉める。便座に座り、奥歯を噛みしめる。深夜のポテトはやっぱりきつかった。明朝のことを考えると、気が滅入る。尿の出方まで遅い気がする。

個室を出て手を洗う。ハンドドライヤーはない。

両手を振ると、水が頬に跳ねた。目に入らなくてホッとした。
鏡を見た。指先で、水滴を目から頬へ引いた。

泣きたいわけではなかった。
泣く資格なんてない。理由もない。

寂しかった。悔しかった。置いていかれた。

でも、それらは全部、贅沢だ。嗜好品だ。
少なくとも、命がけじゃない。

命が掛かっていないのに――
明日も、明後日も、私の命は続くのに。

洗面台に手をかざすと、センサーが水を出した。

ソープのポンプを乱暴に押す。手のひらを擦り合わせる。指の股も、手の甲も、手首も擦った。気づけば掌が熱くなっていた。
センサーの下へ手を翳す。冷たい水が出た。背筋が粟立った。泡を流した。
洗面台がビチャビチャになっていた。また手を振る。

半乾きのまま席へ戻る。テーブルに手をついた瞬間、濡れた跡がじわっと広がった。指の腹が表面に吸いつく。

葵はそのまま手を動かさなかった。
ポテトは冷めていた。
葵が座った途端、涙が落ちた。
ぽた、と。

正樹はそれを見た。
見たのに、何も聞かなかった。

「あー、食ったら眠くなった」

正樹は大きく伸びをした。

「ちょっとだけ寝ていい?」

「……いいよ」

正樹は腕を組んで突っ伏した。

葵も少し迷ってから、同じように突っ伏した。

テーブルは冷たかった。冷たくて、ありがたかった。人肌ではないものだけが、今は信用できた。

目の前で、正樹の呼吸が静かに続いている。寝ているのか、寝たふりなのか、わからない。わからないままでよかった。

ファミレスの窓の外で、空の端が少しずつ白んでいく。朝は、勝手に来る。無神経に来る。

伝票を取ったのは、二人同時だった。

「俺が出す」

「いい。来てもらったから、私が出す」

「じゃあ俺の分は俺」

「うん」

結局、葵は自分のポテトとドリンクバーだけを払った。レジの機械が短い音を立てる。レシートが白く吐き出される。大して頼んでいないのに、レシートはどうしてこんなに長いのだろう。

店を出ると、早朝の空気が少し尖っていた。世界が動き出す前だけに残された静謐な空気。浄化されたような気がした途端、頭上でカラスが鳴いた。

「じゃ」
「うん」

正樹は一度も振り返らなかった。葵は少しだけその背中を見送り、逆方向へ歩き出した。

鞄を右から左へ掛け替える。その拍子に、レシートの白が覗いた。さっきレジで受け取って、無造作に突っ込んだものだ。

歩きながら、広げてみた。

ポテト。ドリンクバー。深夜料金。消費税。合計。累計ポイント、6,014。

葵はレシートを鞄に押し込んだ。

ぱりぱり、と鳴った。




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