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レッドヘリング |短編

出納簿の印刷をクリックした。複合機が動く音がした。コーヒーを一口啜った。さて、と。

郵便振替台帳やクリアファイル、光熱水費計算書などの入った、一番下の重い引き出しは、作業中いつも開けっぱなしだ。後ろが壁だからできる。そうしてこの日も、引き出しを開けたまま、印刷したものを取りに行こうと、立ち上がり、右脛の骨ばった面に引き出しの角が当たった。あまりの衝撃に、一瞬何が起こったのか混乱した。遅れて激しい脛の痛みと火照りが広がる。息が勝手にせり上がり、喉の奥で潰れた。

「主任、大丈夫ですか」

周囲で声が上がる。

「大丈夫大丈夫」

笑って応じた。ちっとも大丈夫じゃない。生まれたての子鹿のように、おどけた足取りになったが、生まれたての子鹿は知らないだろう恥をこちらは引き連れながら複合機に吐き出されていた印刷物を取る。ああ、こんなもののために――と一瞬思ってしまう。いや、大事なものだろうが。

一時間ほどすると、布地が触れるたび違和感が出てきた。不安になって机の下で裾をめくると、おっさんらしくない白い皮膚の上に、ボクシングチャンピオンのほおみたいな青い膨らみと、血の滲む筋があった。真ん中には、鈍く光る血の粒がかすれていた。思ったよりやっちまったらしい。明日の朝、靴下を上げるだけでも面倒なことになりそうだった。

帰ったら言おうか、と思った。足、ぶつけてさ。心配してくれるだろうか。湿布いる? 痛そうね、と言ってくれるだろうか。あるいは、また?本当にドジなんだから、と流し目をされるだろうか。

モニタには決算書。¥3,450,500- の赤い符号が並ぶ。▲。この小さな記号は、経理の人間にとっては失格のステイグマのように迫ってくる。見ていると、数字の赤と▲が一緒に滲んできて、妻が「ドジね」と言うときのあの顔も重なった。

▲は、ただの誤差だ。そう自分に言い聞かせる。

会社がこれほどの赤を出しても傾かないのは、もっと大きな流れがあるからだ。妻の言葉も、きっとそうだ。ドジね、とほくそ笑むように見えるあれ。あれは照れ屋で素直じゃない彼女なりの不器用な心配なのだ。ーーたぶん。ーーおそらく。ーーねがわくは。口の中が酸っぱくなった。

いや、そうに決まっている。あれは愛情だ。

そんなことを思い巡らしていたら、よほど魂が抜けた顔に見えたのだろうか。上司に呼ばれ、理由を問われた。一瞬、脛は痛くありません、と言おうとしたが、上司の顔つきを見て、脛よりも今求められていることを悟った。これでも経理主任だ、口を動かせばもっともらしい▲の説明がいくらでも出てくる。

言葉を並べながら、ふと思う。俺が必死に合わせているこの数字は、本当に正しいのだろうか。会社には俺が知らない金脈がどこかに眠っている、あるいは運用されているからこそ、帳簿上は▲でも、月末の俺の口座には入金があるのだ。とすれば、帳簿の隅で帳尻を合わせるだけの俺は、誰の運命も握っていない、お小遣い帳レベルの誤魔化し担当ではないのか。妻の感情も、同じではないのか。

そんなことを思いながらの俺の説明に身が入っていたとは思えないのだが、上司は満足げにうなずいて、あとは監査に任せようと言った。俺の言葉ではなく、俺が差し出した「整った数字」に満足しているようだった。やはりお小遣い帳だ、マイナスを出しても、補填してくれる存在がいるのだから。

タイムカードを押して退勤する。うちの会社はいまだに、差し込み式のタイムカードだ。いつになったらデジタル化するのだろうと思うが、そうなったら経理主任の俺など真っ先にいらなくなるのかもしれない。

外へ出ると、花粉シーズンが収まった春の夕暮れは、空気が落ち着いていた。ようやく会社を出ても明るい季節になって、駅へ向かう足取りが軽くなった。ふと首筋がかゆくなったので、首筋を掻きながら駅に向かった。

尿意を催したので、改札内の駅のトイレに入った。鏡を覗くと、首に浅い筋が三本走っていた。無意識に掻いたのだろう。手を見た。爪が若干伸びていた。鏡をもう一度確認すると、引っ掻き傷の縁が白く起き、中心はまだ湿って赤い。

——これは、使えるかもしれない。

小さな考えが胸の裏で弾けた。あの「ドジね」の声が、少しでも動くかもしれない。

最寄り駅の改札を出たところで、不二家のショーウィンドウが目に入った。

ケーキが並んでいた。妻はチョコケーキが好きだ。2種類ある、どっちだ? 値札を見た。牛丼が食える。店員と目が合った。

「おとりしましょうか?」

「あ、そうですね——」

指さそうとしたが、指が値札に照準を合わせるのをどうしても拒否した。意味のないお辞儀をしてそこを去り、踵を返して、すぐ近くの成城石井に入った。

普段あまり来ないので、棚の前で少し立ち止まった。チョコケーキが好きなのは知っていたが、ここで買えるもので、妻が何を喜ぶだろう。いつもイオンで買い物をする人間が、成城石井で何を喜ぶのかはわからなかった。

レジ前に積まれていた「早春いちごラスクセット」を手に取った。A5サイズぐらいの小さな紙袋に最初から入っていた。季節限定、と書いてあった。

「申し訳ございません、当店、電子マネーはお使いいただけなくて」

慌てて財布を出した。

バスは混んでいた。ラスクの紙袋は到底ビジネスバッグに入らないため、両手で吊革を掴みながら、指先で紙袋を下げた。目の高さでイチゴ模様が揺れた。

バスを降りると、脛が軽く疼いた。駅前を彷徨っていたあいだは忘れていたくせに、自宅まで数十メートルというところで、傷が思い出したように疼き出した。地面を蹴るたび違和感が走った。自然と、怪我人の足取りになった。自宅までの三分が、少し長かった。こうして良い具合に不具合のある人間として出来上がって俺は玄関の鍵を開けた。

「ただいま」

玄関ドアを開けると、まっすぐに廊下がある。「おかえりなさい。早かったのね」奥から妻の声が飛んでくる。まな板に当たる包丁の音。

俺がリビングに行くと、続きのキッチンで妻が背を向けている。

「足、ちょっとぶつけてさ」

トントントン。きゅうりか?

「そうなんだー。冷やす?」

トントントントン。包丁の音のリズムは安定していた。

妻は刻んだきゅうりを両手に振り返り、テーブルに置いてあったボウルにそれをいれて、混ぜ始めた。

「あー、疲れた」

俺は、ラスクの紙袋をテーブルの上に置いてから、わざと音を立ててシャツを脱いで椅子にかけた。妻の手が、一拍止まる。

「お? どうかした?」

「いえ、なんでもないわ。今日はしめ鯖よ。暑かったから。酢は強めにしておいた」

「しめ鯖ときゅうり?」

「きゅうりはサラダ」

「冷たいものばっかだね」

「暑かったからね。手が空いてるなら悪いけど、しめ鯖を冷蔵庫から出してもらえる?」

命じられて俺は大人しく、冷蔵庫を開けた。皿に盛られたしめ鯖にラップがかかっている。それでも、鼻腔の奥を刺す酢が臭った。皿はとても冷えていた。

妻は、いや、妻も冷たい。

拍子抜け、という語が舌の裏に転がりながら、しめ鯖の皿を、テーブルの端に置いた。ありがとう、といって妻は、また向こうを向いて水道で手を洗い始めた。

つまらないな、と思って視線を逸らしかけたとき、妻のうなじが目に入った。

後れ毛の下に、赤いものがあった。円く、滲みを含んだ血の色。いや、あれは血の色か? 違う。血ではない。怪我じゃない。表に出ていない。むしろ、内側にーー

その滲みが、大きくなる。次の瞬間にはただの肌色に戻った、と思った。ホッとした瞬間、また血色に戻った。俺は目をしばたいた。あれは、なんなのだ。

「そのしめ鯖ね、いつものじゃないの。めずらしく、とても生きのいい鯖が手に入ったから。今日は特別なのよ」

振り返った妻は、なぜか、すがるような顔をしていた。こんなふうな妻を見たのはいつ以来だろう。あれは確か、5年前ーー

あの時はーー夏で。そばに麦茶が。

えらく大きなしめ鯖だった。




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