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不 |短編小説

エレベーターは、古いホテルに似合わず静かだった。扉が閉まるたび、箱の中の空気だけが少し濃くなる気がした。

男は壁の鏡に映る自分の顔を見た。額の二文字は、蛍光灯の白さの下で、濡れた紙片のように張り付いていた。

誠実。

昨夜から一度も眠っていない目の下だけが、その文字に似合わず黒かった。
隣に立つ女は、口紅を引き直していた。小さな鏡をのぞき込み、唇を合わせ、満足したように笑う。額には、従順。髪を耳にかけるたび、その二文字がきれいに見えた。

「送るよ」

男は言った。

「大丈夫、すぐだから」
「駅まで」
「駅まで行ったら、その先も行きたくなるでしょう」

女は鏡を閉じた。

「あなた、そういうところ、本当に誠実だよね」

男は階数表示を見上げた。数字はまだ三階だった。一階に着く前に、エレベーターは途中階で止まった。

扉が開き、老夫婦が乗ってきた。夫は薄いグレーのジャケットを着ていた。妻は紺のワンピースに細い真珠の首飾りをしていた。二人とも声を立てず、互いの肩が触れないだけの距離で箱の隅に立った。

夫の額には、自制。
妻の額には、見慣れない二文字があった。
男は一度、読み違えたのかと思った。もう一度見た。やはり意味が取れなかった。

妻は男の視線に気づかなかった。夫の持つ紙袋の持ち手が、指に少し食い込んでいた。妻はそれを見て、手を添えた。夫は、ほんの少し妻の方へ顔を向けて、そして目を細めた。妻は手を戻した。袋の底が、二人のあいだで静かに揺れた。

一階で扉が開いた。女が先に降りた。男も続こうとしたが、女はロビーの途中で振り返った。

「ここでいい」

「送るって」

「大丈夫、すぐだし、あなたも急ぐでしょ。だから、またね、今日はありがと」

女はガラス扉の向こうへ出ていった。白いブラウスの背中が朝の光に溶ける前に、一度だけこちらを見た。呼べば戻ってくる顔だった。

男は口を開かなかった。

閉まりかけた扉の隙間から、老夫婦の姿がまだ見えた。夫は前を向いたまま、妻の歩幅に合わせていた。妻の額の二文字だけが、光の角度で一瞬消え、また浮かんだ。


電車の窓に映る自分の顔は、ホテルの鏡よりも老けて見えた。

誠実。

この二文字を選んだのは二十歳のときだった。父はうなずいた。母は台所から茶を運んできて、湯呑みを男の前に置いた。区役所の三階のラベル配布課は混んでいて、かなり待たされた。

就職の面接では、面接官が最初に額を見た。結婚の挨拶の日、妻の父も、名刺より先にそこを見た。人は額を見てから、目を見る。男はそれを早く覚えた。帰宅して靴を脱ぐ前に、男はいつも一度、鞄の持ち手を握り直した。妻が玄関まで出てくる夜もあった。男はネクタイをゆるめながら、洗面所へ行った。手を洗い、石鹸の匂いを指に残してから、食卓についた。

「大変だったのね」妻がそう言うと、男は湯気の立つ味噌汁を見て、うなずいた。そのころから、嘘は、短いほどよかった。短い嘘は、食卓の上で長く残らなかった。


家の玄関を開けると、磨いた床の匂いがした。

妻はダイニングで花の水を替えていた。細いガラスの花瓶に、白い花が三本だけ挿してある。額には、自律。結婚してから二十年、その二文字は同じ位置にあった。

「朝だね」

妻は時計を見て言った。

「そうなるな」

男は靴を脱いだ。

「食べるものある?」

「ある」

妻は花瓶の位置を少し直した。台拭きでテーブルの端を拭き、布巾を四つに畳んだ。
男は洗面所へ行き、手を洗った。鏡の横に、見覚えのある封筒が立てかけてあった。丸い字で自分の名前が書かれている。切手の位置まで几帳面だった。
封はすでに切られていた。男は封筒を裏返し、また戻した。洗面台の水滴が一つ、排水口へ流れていった。

食卓には、焼いた魚と味噌汁が並んでいた。妻は向かいに座り、箸を持った。

「手紙、来てたよ、また」

男は魚の皮を箸で押さえた。

「見たよ、なぜ洗面所に?」

「知りたいかなと思って」

「そうか、ありがとう」

「どういたしまして。もし見たくなかったら、本人にそう伝えればいいじゃん……あなたならできるでしょ」

妻は味噌汁を一口飲んだ。椀を置く音が、乾いて聞こえた。

「ずいぶん長いね」

男は顔を上げた。

「何が」

「続いてるのが」

妻は魚の小骨を、皿の端に一本置いた。それから二本目を、その隣に並べた。

「終わってるよ」

「そう」

「とっくに」

「終わってるのに、今日も会って、手紙も来るのね」

妻は三本目の小骨を並べた。きれいな列だった。
それ以上、妻は言わなかった。味噌汁の表面に浮いた葱が、箸の先で揺れた。

食後、妻は皿を洗った。洗濯機を回し、明日のゴミをまとめ、新聞を紐で縛った。紐の結び目は小さく、固かった。
男は居間のソファに座り、テーブルの上のスマートフォンを見ていた。画面は明るくならなかった。

最初の手紙には、季節のことが書いてあった。桜が早いとか、風邪を引いていないかとか、そういうことだった。ある手紙に、妻の傘の色が書かれていた。妻の傘の色が、なぜ手紙に書かれているのか、男にはわかった。わかったから、それ以上考えなかった。

封筒には、いつも男の名前だけがあった。差出人の名前はなかった。丸い字だけは変わらなかった。

住所を変えても届いた。職場を移っても届いた。駅の改札の向こうに、女が立っていたことがあった。雨の夜、家の前の電柱の陰にいたこともあった。
女は泣かなかった。声を荒らげることもなかった。男が近づくと、少し笑った。

「待ってた」

いつも、それだけだった。

男は警察署の前まで行ったことがある。自動ドアの内側で、制服の警官が誰かに道を説明していた。男はポケットの中で封筒を折った。折り目が爪に当たった。
誠実。
ガラスに映った自分の額を見て、男はそのまま通り過ぎた。


夜、風呂場の換気扇の音だけが家の中に残った。
男は寝室の鏡台の前に座った。昼間、エレベーターで見た老婦人の額が、また浮かんだ。

意味の取れない二文字。
夫は自制。妻は、男には読めない何か。
紙袋を持つ夫の手に添えられた手。微笑む夫。
男は自分の額を見た。

誠実。

若いころ、その二文字はよく馴染んだ。面接室でも、式場でも、義父の前でも、得意先の応接室でも、男より先に部屋へ入っていくような文字だった。

今は違った。皮膚の上に貼りついた札のように見えた。剥がそうとすれば、肉まで持っていかれそうだった。

鏡台の引き出しに、油性の細いペンがあった。妻が保存容器のラベルを書くときに使うものだった。
砂糖。塩。片栗粉。日付。
どの文字も細く、まっすぐだった。

男はペンを取り出し、しばらく指のあいだで転がした。廊下で、妻の足音がした。一定の速さで近づき、寝室の前を通り過ぎ、また遠ざかった。

男はキャップを外した。アルコールの匂いがした。

誠実。

鏡の中の二文字は、実物より少し暗く見えた。男はペン先を額に当てようとして、やめた。かわりに、鏡の表面へ近づけた。

鏡の中の額に、指先で位置を合わせる。誠実の左。そこに書くには、手を少し右へ動かさなければならなかった。

最初の一画が震えた。ガラスの上で、黒い線が濡れて光った。

男はペンを置いた。
鏡の中でだけ、額の文字は不誠実になっていた。

少し首を動かすと、不は額から外れた。
戻すと、また誠実の左に重なった。

廊下の向こうで、妻が最後の電気を消した。家の輪郭がやわらかく沈んだ。
どこかで電話が鳴る気がした。鳴らなかった。

男は鏡の前から動かなかった。
黒い一画だけが、ガラスの上で新しかった。



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