専門領域 |短編小説
窓の外で、雨が降り始めていた。まだ強くはない。窓ガラスを水滴が流れる。
上司のSは、私より三つ年上である。中途で組織に入ってきたはずの彼は、気づけばこの部署の長として私の前に立っていた。
「Kさん、次のXイベント、お願いできませんか。あれは、あなたの専門領域ですし」
呼ばれた瞬間、指先が机の縁から離れた。置き直す。今度は爪の先で木目をなぞる。
ボールペンを持ち上げる。回すでもなく、ただ軸を転がす。継ぎ目に指が引っかかる。そのわずかな段差に、意識が過剰に留まる。引っかかったまま、動かなくなる。
専門領域。
褒め言葉の形をしているはずなのに、背の内側だけが静かに冷えた。そこだと決められた気がした。そこから退く余地を、先に塞がれる感じがした。
唇を引き結ぶ。力を逃がさないように閉じる。そのせいで、端の形だけがわずかに崩れる。
「別に、得意というわけじゃないんですけどね。いつも、みんなにそう言われるので、それがちょっとあんまり……」
そこで止めた。Sの顔を伺うと、Sは一度だけまばたきをした。戸惑いを隠しきらない、短い間があった。それからまた、あの目に戻る。均等に明るい、曇ったことのない目に。
「ああ、ごめんなさい。断定的な言い方しちゃったかな」
そう言って、彼はわずかに身を乗り出す。距離が半歩ぶん近づく。私は背を椅子に預ける。
「でも、Kさんが一番適任だと私は思いました。経験も、知識もKさんはすごいし。ぜひやってもらえませんか」
すごい、という言葉だけが残る。
「いやいや、僕なんか……ほら、Tさんの方が、適任ですよ。先方もTさんの方がお好みでしょうし」
ペンを置く。クリップの部分を押す。鳴る直前まで力をかけて、止める。
TにXの場をコントロールできるか、という思いが喉のあたりまで来て、止まる。
Sは小さく笑った。
「確かにTさんもすばらしいですよね。でも、今回はKさんに是非ともお願いしたいんです。なんとかお願いできませんか」
今回は、という語だけが耳に残る。
「負担も大きいとは思う。何かあればバックアップは惜しみませんから。なんでも言ってください」
その言葉は、疑いなく口にされていた。
私は唇の内側を噛む。すぐに離す。あとから鈍い味が残る。
「……じゃあ、ひとまず考えてみます」
Sは安堵したように笑った。乾きのない明るさだった。私は視線を落とし、机の木目を見る。均一なはずの模様が、ところどころ濃く沈んでいる。
駅の改札を抜けてすぐ、右に折れた。
ビックカメラの入口は自動ドアで、冷えた空気が顔に当たった。
パソコンのフロアへ上がる。エスカレーターの手すりに触れる。ゆっくり動くものに手を預けると、指の力が少しだけ抜けた。抜けた分がどこへ行ったのか、わからなかった。
薄型のノートパソコンが、一列に並んでいた。一台を開く。蝶番の重さが、ちょうどよかった。ちょうどよかった、という感触だけが、指の腹に残った。
キーボードを叩く。音はしなかった。もう一度叩く。やはり音はしない。叩いた力がどこへ行くのか見えないまま、また叩く。値札には二十四万とある。
二十四万円。
次の外来。検査。来月——
閉じる。
蝶番が、行きと同じ重さで戻った。行きと同じ、ということだけが、しばらく頭の中にあった。開ける時と閉める時で、重さが変わらない。どちらへ動かしても同じ重さで返ってくる。そういう設計になっている。
隣の機種を開く。
スペックを読む。読んでいる間だけ、さっきの数字が遠のく。それだけのために読んでいる、と途中で思う。思っても、読み続ける。読み終わると、また数字が戻ってくる。隣の機種を開く。
タブレットのコーナーへ移った。
ペンタブレットを手に取る。思ったより軽かった。表面を親指でなぞる。指紋が残らなかった。もう一度なぞる。やはり残らない。押してみる。沈まない。力をかけても、沈まない。かけた力が、そのまま返ってくる。返ってきた力の行き場が、指の中にしばらく留まる。
棚に戻す。
スマートウォッチを持ち上げる。重さを確認する。確認した重さを、もう一度確かめるように、持ち直す。戻す。
イヤーカフ型のイヤホンを手に取る。片方だけ耳に当ててみる。何も聞こえない。展示品だから、音は出ない。それはわかっていた。わかっていたのに、もう片方も耳に当てる。やはり何も聞こえない。
戻す。
近くに静かな喫茶店がある。知っている。
フロアを一周した。気づくと三十分が経っていた。何も買っていない。
エスカレーターで下りる。手すりに触れる。上りと同じ速さで動いている。上りと同じ、という感触だけが、しばらく指の腹に残った。
外に出ると、さっきより空気が冷えていた。
玄関を開けると、家の中の空気が澱んでいた。
廊下を進む。リビングの続き間、和室の奥で、気配が動いた。
「あ、お帰りなさい」
起こしてしまった。「起きなくていいから」と言いながら、椅子に鞄を置く。持ち手を、必要以上に整える。
「いえいえ……あなたが帰ってきたのに。ごめんなさい、寝てばっかりで」
妻のそばへ行く。肩に手をかける。
「いいから、寝てて」
妻がまっすぐに顔を上げた。目が合う。彼女の手が、私の手に重なる。
「今日はどんなお仕事を」
さっと手を引く。立ち上がろうとする。
「あ、ごめんなさい、あの、」
その手が、逃げようとした私の袖口を掴む。
「なんの用」
「別に……あの、いつもありがとう、迷惑かけてごめんね」
怯えたようなその微笑み。わりと美しいと、かつては思った。私は頭を抱えた。指の間から妻を見ると、彼女は私を凝視していた。
長い嘆息が私の口から漏れた。
私は、妻の肩に手を伸ばす。布団越しでも骨の位置がわかる。
「え、あ。あの、まだ明るい……」
手が止まる。止まった手の行き先がなくなる。
「じゃあ、もういいから、寝てろよ、いつまでも」
体を背けようとした瞬間、背中に重みがかかった。両腕が後ろから回ってくる。
「違うの。拒絶したわけじゃなくて。突然だったから……嫌じゃないの」
背中をホールドされた形のまま、動けない。
その時、スマートフォンが鳴った。
乾いた音が、湿った部屋の中で小さく弾ける。
「通知来たから」
妻の腕を、指で外す。一本ずつ。
画面を開く。妻に背を向けたまま。後輩からのメッセージだった。
『Kさん、ちょっと困ったことがあって。明日お時間あります?』
唇を引き結ぶ。同じように閉じたはずなのに、端がわずかに持ち上がる。
「なに?」
「仕事の連絡」
画面を消す。暗い表面に、輪郭だけがぼんやり映る。端末の角を強く握る。そこにだけ、力を集める。
また沈黙が戻る。
明日になれば、私はまた職場へ行くのだろう。何かの形を保ったまま、あの明るい場所に立つのだろう。
窓の外で雨がまだ降っている。ずっとずっと降っている。
窓ガラスがガタガタ鳴った。
いいなと思ったら応援しよう!
よろしければ応援お願いします。いただいたチップは、創作時のコーヒー豆のグレードアップに使わせていただきます。