1000文字掌編「夕方と影」
呼び鈴を押す前に、ドアが開いた。
「パパーっ」
子供は靴下のまま出てきた。その後ろに、妻がいた。薄い上着を着て、鞄を提げていた。
「六時に戻るから」
秀樹に、というより、子供に言った。妻は踵の低い靴に足を入れた。秀樹は横へ寄った。妻が出て、ドアが閉まった。ドアの閉じたあとに、柑橘に似た匂いが残った。
三和土に、白い運動靴が残っていた。秀樹は紙袋を持ち上げた。
「プリン、買ってきた」
子供は袋を受け取り、奥へ走った。秀樹は靴を脱ぎ、端に揃えた。
子供のあとを歩いた。左手の戸が半分開いていた。奥にベッドがあった。低い枠に、生成り色の掛け布団。秀樹は前へ向き直った。
リビングの戸口に薄い灰色ののれんが下がっていた。子供が先にくぐった。秀樹は布を分け、頭を通した。指の先が裾に触れた。縫い目が細かかった。
窓際に間接照明が点いていた。まだ外は明るかった。壁ぎわのワゴンに、ホットサンドメーカーとコーヒーメーカーが並んでいた。秀樹はコーヒーメーカーを見た。ガラスのポットに湯垢がなかった。横にホットプレートの箱が積んであった。角の潰れていない箱だった。
「それでね、最近ホットサンドも作るんだよ」
子供が言った。
「そうか」
「ママ、もう飽きたみたいだけど」
子供は笑った。窓側のこたつに入り、プリンの蓋を剥がした。反対側にリラックスソファがあり、ベージュ色の毛布が掛かっていた。
「手、洗ってくる」
秀樹は洗面所へ行った。鏡の下のコップに、電動歯ブラシが二本立っていた。柄に白いテープが巻いてあった。母、と書いてあった。もう一本には、蓮、と書いてあった。秀樹は手を洗った。かけてあったタオルで拭いた。うすい黄色の、端の綻びかけたタオルだった。これは前からあった。
居間に戻ると、子供が紙を広げていた。家が描かれていた。屋根の下に人が二人、庭に緑色の木があった。
「学校で描いた」
秀樹はこたつに膝を入れ、紙の端を押さえた。脇のワゴンに、調味料の瓶が並んでいた。透明な、背の高い瓶が二つあった。片方に岩塩、片方に粒の胡椒が入っていた。
子供は最後の一口を食べ、スプーンを容器に戻した。
隣は和室だった。襖が開いていた。畳に鉢がいくつも並んでいた。小さいものは新しい鉢に入り、値札の輪ゴムが幹に残っていた。
窓際の一つだけが大きかった。幹が三本、天井の近くまで伸び、葉がガラスに触れていた。鉢は素焼きで、縁が白く粉を吹いていた。
秀樹はその鉢を見た。
「それ、立派になったでしょ」
子供が横に来ていた。
「ほんとだ」
西日が入った。見慣れた角度だった。畳の中央に、その鉢の影が落ちた。風が入るたび、葉の影が揺れた。影の先が動いた。
紙の上を移り、緑の木を通り、屋根を越え、秀樹の指に重なった。
玄関で、鍵の回る音がした。
1000字掌編30日チャレンジ、28日目。
AIに、30日分のタイトルを作ってもらいました。一時間以内に制作という自主条件で、挑戦中です。
今回は『夕方と影』というお題でしたので、影って世界にかぶさる瘡蓋みたいだなと思って書きました。
1日目「鍵の行方」
2日目「氷の入ったコップ」
3日目「母の字」
4日目「朝の電車」
5日目「塩の量」
6日目「隣の声」
7日目「写真の整理」
8日目「友人の幸福」
9日目「傘の骨」
10日目「時間の貸し借り」
11日目「声の高さ」
12日目「週末の約束」
13日目「名前を呼ぶ練習」
14日目「コーヒーカップの欠け」
15日目「雨の夜の帰宅」
16日目「窓の外の木」
17日目「忘れた約束」
18日目「口紅の蓋」
19日目「二つの傘立て」
20日目「返事の遅さ」
21日目「砂糖の位置」
22日目「走る練習」
23日目「先に寝る」
24日目「知らない町の地図」
25日目「誕生日の電話」
26日目「夏の嘘」
27日目「図書館の予約」
🌆28日目「夕方と影」
29日目「手紙の封」
30日目「ぬるいお茶」
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