僧衣に兵杖を帯びた異形の集団『僧兵』、どこの誰、どこへ消えた?
先日、こちらの記事(⇒平安時代⇒鎌倉時代...極東島国に住んでいた海賊たちの『霊性』が目覚めたとき )を投稿しました。😀
鈴木大拙(すずき だいせつ)先生は『宗教』を、
「親しく大地の上に起臥する人間--即ち農民の中から出るときに、最も真実性を持つ」と、そして、
「鎌倉時代になって、日本人は本当に宗教、即ち霊性の生活に目覚めたと言える。平安時代の初めに伝教大師や弘法大師によりて据え付けられたものが、大地に落ち着いて、それから芽を出した」と言ってました。
優雅・風流の『平安時代』⇒ 大地の文化の『鎌倉時代』へ。
そもそも、なぜこの『交代』が?といえば、⇩
平安の時代はずいぶん長い。…京都には政治があり文芸があり、美術・宗教・学問など、文化の各方面は華やかに展開していった。…
享楽主義が現実に肯定せられる世界には、宗教はない。…都の文化教育者はあまりに現世的であった。…
…(平安時代の)中に見られる如き憂愁・無常・物のあわれなどというものは、いずれも淡いものである。人間の魂の奥から出るような叫びは、どこにも聞こえぬ。
…都の貴族たち、その後にぶら下がる僧侶たちは、大地と没交渉の生活を送り続けた。...(弘法大師、伝教大師の如き新興)仏教は、南都の仏教に対して一時は清新な溌剌なものであったが、時を経るに従い、他の文化形式と同じく形式化・儀礼化・審美化・技巧化の一路をたどって、仏教本来の意味から離れるようになった。大陸からの刺激を受けず、島国に閉じ籠り、京都の山々に囲まれ、地方からの経済的支援で生活した貴族たちは、風雅な遊びで一生を暮らすほか、権力筋へ何かで渡りをつけて「栄位」につくことを、「一門の誇り」としたものであった。その跡を逐う僧侶たちは、出世間の人として彼らを導くことの代わりに、彼らにひきずられていった。…
。。。と、ここで、、、気になりませんか。。?
僧侶が貴族にひきずられて行った先と、それで一体どうなったのか。(笑)(←変でしょうか。😅😅)
歴史をぐるっと見回すと、どうも僧侶が金・名誉・栄誉・栄位にひきずられて行った先が、多分コレ。⇩
僧衣に兵杖を帯びた異形の集団、すなわち僧兵の存在は、わが国の歴史にとって不思議なものの一つである。
彼等は、その横暴をもって、時に帝王からは違勅の罪を問われ、武門からはまともに剣戟の洗礼を受け、貴顕からは指弾の的にされた。
時代はあげてその驕慢をにくみ嫌い、仏教の世界はこれを、世間にはばかる畸形児の出生として呪い悲しんだ。
こうした怒りや、にくしみや、呪いや、嘆きの中に在って、彼等は、悠々と七百年の足跡を残したのである。
彼等を生んだものは、もちろん仏教であるが、これを生ませたものは、まさしくその時代であり、これを育てたものはその両者である。…
これ⇧は勝野隆信(かつの たかのぶ)東京大学助教授(当時)のご著書『僧兵』(日本歴史新書、昭和30年発行)の『はしがき』の冒頭文です。
本来仏教自体が徹底的な殺生禁断であるのに、これを奉ずる僧侶が、集団的に武器をとるなどとは、到底考えられないわけであるが、…
まあ、そうですよね、、これぞ本末転倒の『異形の集団』。
しかしです、この根っこは案外古い。⇩
…その歴史は極めて古く、五世紀の中頃、北魏の世祖が西伐して長安に至り、寺院内に兵器を蔵するを見、叛臣に通牒するものとして大いに怒り、遂に長安の沙門を誅し、仏書・仏像を焚焼破壊して仏教に大弾圧を加えたという。(魏書)
(中略)
又支那成立と云われて、大乗戒律の基本とされる梵網経(ぼんもうきょう)の中に、一切の刀杖・弓箭・鉾斧闘戦の具、及び悪網羅殺生の器を畜うることを得ざれ、...、無量の衆生を殺すことを得ざれ、等と厳重に制しているのは、当時の僧風を端緒に指摘しているものと見るべきである。
この仏教が日本に伝来したのは、六世紀の中頃であるから、これを伝えた大陸の仏教に、すでに日本で発達した僧兵の素質を持っていた事も忌み難く、わが国最初の法令において、僧兵の兵事に関すること一切を禁止していることは、当時の日本の僧尼を対照として制定されたというよりも、大陸仏教の経験を日本に移したと見るべきであろう。
また一般に仏像と称せられるものの中に、剣を執って忿怒の行相を現したものや、刀杖を振るって戦闘の体勢を示しているものなど、…平安仏教の中枢をなす密教独特のものである所に、日本僧兵の育成が暗示されているようである。
お隣中国から輸入した鉢植えに、グリコのオマケでこんな⇧『萌芽』もちゃんと土中に入ってた、そういうことでしょうか。。😅
ならば、『日本的霊性』や『武士道』も同じ仏教(と禅)伝来から発展したことを考えると、実に興味深いですね。物事には何でも『陰』と『陽』があるとは正にこのことか。
しかも、その『陰』の萌芽が、極東島国の土壌で培養され、やがて「怒りや、にくしみや、呪いや、嘆きの中」で『モンスター集団』へと成長し、なんとビックリ平安時代から戦国時代までの700年もの長い期間、人事介入、訴訟、おねだり、ゴリ押しの度に集団で『嗷訴』、『放氏』を繰り返して日本の政治・社会を揺さぶり続けた、嘘のような本当の話。
わが国も平安期になると律令の無力化と社会情勢の変化に伴って、仏教寺院も著しく相貌を変えて来た。その一は経済力の増大であり、他の一は、其処に住する僧侶の素質の低下である。…
これと同時に、僧尼令の規定も全く崩れて、官許に依らない得度、すなわち私度がみだりに行われ、従ってその資格についても、規定された厳重な条件が無視され、(中略)
但し同じく僧兵の名で呼ばれているが、その発生の当初は僧ではなく、寺の奴であり、或いは雑人であり、或いは沙弥である者が兵杖を執っているのである。…
そして又諸大寺のいずれにも、学業を専らにする者と、寺の作業に従事する者との二種の分れがあった。…学業を主とする者は、殆ど良家の子弟で、僧侶としての栄達の道も開かれていたのに対し、然らざる者は僧位・僧官はもとより望むべくもなく、学生や学侶に対しても多分に劣等感を持っていたわけである。そして各寺の僧兵として常に武器を取り、横暴の名をほしいままにしたのはこの者共である。
わー、、💦💦 ( ̄﹏ ̄;)。。。
なんというか、、現代社会と全く同じ相似像。。
落ちこぼれの不良が、『モンスター集団』へ。なんとなく、 TVドラマ『スクール・ウォーズ』を思い出しマス。(←昭和生まれ😅)
しかしながら、、大企業の株が総会屋に乗っ取られる経緯と同様😅、彼らの変身も、何か大きな弾み・キッカケがあったハズですよね、
例えば、比叡山延暦寺の場合、⇩
叡山の僧兵は、慈恵大師良源が天台座主在任中(966-984)に創始したというのが、古来の定説とされる。(中略)
…もってすれば、さきに挙げた山家要記浅略や慈恵大師伝の、僧兵の養成者を良源とするの誤りなることはおのずから明らかである。
しかし、…叡山の僧兵が彼(良源)の時代から著しく活動しはじめたことは事実である。…彼の座主在任の時代に起きた二つの事件…、
その第一は、天延二(974)年5月7日に、祇園の感神院が延暦寺別院となった事件である。(日本記略)
「祇園の東に蓮花寺という叡山の末寺があり、…祇園の別当良算が…一枝折らせようとした。…一方蓮花寺では、…座主良源に報告が及ぶと、良源は怒って良算を召し寄せようとしたが、良算は、自分は興福寺の末寺の司である、…と云ってこれに応じなかった。そこで良源は、…祇園の神人等に…祇園を叡山に寄進するという状に署判せしめ、…速に別当良算を追放せよと命ずると、良算は平致頼等の郎党を雇い入れ、…良源は叡山西塔の平南房に住する賓荷という武芸第一の僧を遣わし、ついに良算を追い出して…」
その第二は、天元四年(981)12月に、智証大師門派の余慶が法性寺座主に補せられた時、慈覚大師門派のものが之に不服を唱え、二百余人の同勢で入京し、関白頼忠の邸に至って乱暴を働いた事件…
永延二年(988)6月2日の太政官府に依れば、近年僧徒が次第に奢侈僭越に流れ、従者を2,30人も従え、その多きを楽しみ、少なきをもって恥となし、甚だしきは好んで奇服を着し、しばしば兵器を携えて威武を輝かし、ややもすれば闘乱を致すに依って、その従者の数を定めて…、…、…、これに超ゆる者を厳重に取り締まるべきことを命令していることから考えれば、...叡山中興の英主、…をもってしても、時代の流れを押し切ることは出来なかったのである。
。。。要するに、、
時代の風潮に流され、見栄とかプライドの為に、ちょっと無頼人(ヤ〇ザ)頼んだのが運の尽 ⇒『僧兵』爆誕へ。。。😅😅
ですが、そもそも、何故にこんな感じ⇩の人々😅が、この時期どーっとお寺さんに集まって来てたのか??
延喜14年(914)4月28日、従四位上式部大輔三善清行は、政治一般について十二ヵ条の意見を上表した。…その分に云う。
「諸寺の得度のものは一年に2,3百人に及ぶが、その半分以上は皆これ邪濫の輩である。又諸国の百姓で、課役や祖調を逃れるために、私に髪を下ろし、みだりに法服をつけるものは年と共に多く、恐らく今天下の民三分の二は皆この輩である。彼等は皆家に妻子を蓄え、口になまぐさを食い、僧に似ているが、心は屠殺を業とする者の如く、その甚だしきは、集まって群盗となり、ひそかに銭貨を鋳る。国法を恐れず、戒律をかえり見ず。もし国司がこれを糾明しようとすれば、霧の如く合い、雲の如く集まり、競って暴逆を事とする。」
多くは元々普通の人々、が、社会変化に付いて行けず『海賊化』、或いは『山賊(=海賊)化』、『僧兵化』した、それが彼等の正体か。😅😅⇩
大宝令が布かれ諸国の貢祖が中央に輸入されるようになると、内海航路は国家経済の大動脈とならざるを得なくなり、従来の内海航路のもつ意義が著しく変わる。
(中略)
瀬戸内海の重要性がますにつれ、中世から航路に沿って関所が設けられた。同じ道理で海賊は早くから内海に横行し始める。…
聖武天皇の天平二年(730)詔して「京及び諸国に多く盗賊あり、或いは人家に捉って劫掠し、或いは海中に在って侵奪す。百姓を蟲害することこれより甚だしきは無し」云々とあり、特に瀬戸内海の海賊という名目は見えないが、被害の多かったのは内海殊に山陽道筋であった。
(中略)
…仁明天皇の承和五年(839)山陽南海二道の諸国司に令して、海賊を捕糾せしめた。清和天皇の貞観四年(862)備前国からの上申によれば、官米80石を一艘に積み、綱丁(運送する使丁)を差わして進上した。而るに海賊に遭って悉く侵奪された百姓11人に達した。かく海賊が往々群れを成し、往還の諸人を殺害し、公私の雑物を掠奪するので、朝廷は播磨、三備、安芸、周防、長門、紀伊、淡路、阿波、讃岐、伊予、土佐に下知し、人夫を差発して海賊を追補させた。貞観九年(867)は不作にして飢饉が起こり、畿内が殊に甚しく、為めに群盗起こって道を遮り、家を窺い、放火掠奪を恣まにする。
(中略)
…元慶七年(883)に備前国司が上申して曰く、国内の海畔や別れ島は是れ奸賊の聚る所、公私につけて之れが制御ができず、常に人民を殺略し、財物を掠奪し、侵害される者衆し、是れに由て浪人の勇敢なるもの224人を択び、要害の処に宿舎を作り、兵器船楫を給して非常を守禦させたい云々。
(中略)
清和天皇の貞観の頃(859-867)、藤原保則が(備中)介となって調べると、…住民の多くが戸籍を脱し、貢祖の義務を免れて自らの生活を維持する者が甚しく多くなったことを如実に物語るものである。之れ等の浪人は里にいて賊化し、山に入って山賊となり、海にあって海賊となる、…。しかしこれは海にのみ起こった現象ではない。前記(三善)清行の意見封書の第11条に諸国の僧徒の濫悪及び宿衛舎人の凶暴を禁ずることを論じてある。中に百姓の課役を逃れ、祖調を遁れんとするものが、勝手に落髪し、猥りに法服を着るの輩、今や天下三分の二であると云ってある。彼等の多くは寺社の荘園に集まるのを便宜とする。当時地方の諸大寺にして、南都北嶺の支配寺の如くになって、おのずから荘園視せられるようになったものが多い。北嶺(比叡山延暦寺)にはこの風殊に甚しく、天台別院と号するもの諸国に起こり、天下三分の二の悪徒法師等は好んで之れ等の寺々に集まり、本末の関係をたどって更に北嶺に集まる。それが僧兵となった。延暦寺が僧兵を製造したのでも、徴集したのでもない。地方の禿首の百姓が山に集ったのであり、割拠したのであり、山が之れを利用するのである。…政治の退廃、可斂誅求にもよるが、庶民の文化一般が低劣であったからである。海賊と山法師と其の名に於いて海山の相違があるけれども、其の起源其の本質に於いては親類であり縁類である。
いつもの海が道が、、或る日から、ここは通行許可証が必要だと言われ、通行料も払えと。そして、法律作ったから今日からこの税金(祖調)払いなさい、不作?関係ない!。。。何も知らない田舎の人間は、、、もう払えないよと離脱して賊徒化し、他者を略奪し、略奪された者も泣く泣く離脱して結局賊徒の仲間入り。
この、悪循環を起こさしていた最低最悪の元凶が、実はコレ⇩。
…清和天皇の元慶五年(881)に肥前介笠宗雄が上申して曰く…、即ち任期満了の国吏や、王臣の子孫、即ち中央の権門勢家の子孫が党を結んで群居し、同悪相済けて以て百姓を陵轢し、佃粮を奪い、私利を以て公事を妨げ、国税の欠負の源はここにある。
政治権力闘争に敗れて都落ちした特権階級の子弟らが地方で土着化。ここに、地方赴任に味をしめて居座った悪官僚崩れが居た。。がっちりと手を組んだ『同悪相』達が、、、田舎の善良な農民らをあまりに虐めてカツアゲするから。。。 ⇒『納税者』が消えるんです。(笑)
(〜 ̄▽ ̄)〜(〜 ̄▽ ̄)〜(〜 ̄▽ ̄)〜
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えー、上記に書いたこの部分ですが、⇩
「国内の海畔や別れ島は是れ奸賊の聚る所、公私につけて之れが制御ができず、常に人民を殺略し、財物を掠奪し、侵害される者衆し、是れに由て浪人の勇敢なるもの224人を択び、要害の処に宿舎を作り、兵器船楫を給して非常を守禦させたい云々。」
この文章を、長沼賢海(ながぬま けんかい)先生はこう続けています。⇩
…ここに勇敢な浪人というのは勿論海上の勇士でなければ、海上の備えにはならない。海上の浪人勇士はまさしく海賊であらなければならぬ。海上往来の船が海賊を雇って同船させて、海賊に備えることは普通船乗りのすることであった。
目には目を、海賊退治には海賊を。
強暴な大海賊に、都から派遣された官軍は全く歯が立たない。
海賊の実力と機動力を能く知り、海を能く知る者こそが海賊を征伐できた。この時、官を助けて残虐海賊を征伐した正義の海賊たちが、後々地方で武士化していったと考えると、実は実は、『武士道』の起源も『日本の海賊』⇒この推察も成り立つか。。。😀??
えー、纏めます。
勝野隆信(かつの たかのぶ)先生が、「怒りや、にくしみや、呪いや、嘆きの中に在って、彼等は、悠々と七百年の足跡を残した」と云うように、先生の『僧兵年表』は、
*天平宝字8年(764):「恵美押勝の乱に、近江の僧・沙弥及び諸寺の奴等官軍を助く、」で始まり、
*天正13年(1585):「秀吉、高野山の兵器を納るを褒す。」で終了です。
以後、日本史上から忽然と姿を消した『僧兵』の皆サマ。。
次は一体、どこへ行った??😅😅
気になりますね。。。(←変な人。😅)
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*上の画像『大山寺縁起』の中の『伯耆大山寺衆徒、神輿を奉じて上洛す』。😀😀
