幼き日、あの夏のラプソディ
夏──。
この暑さはいつまで続くのであろうか?
子供の頃──もう50年近くも前のこと──を思い出すと、ここまで暑くなかったように思う。その頃は毎年、夏休みが始まると盆明けぐらいまでの間、父方か母方の故郷に弟と共に送り付けられ、そちらで過ごしたものである。
父方の故郷であれば広島県の呉市から音戸大橋を渡り、まだまだ車を走らせねば辿り着けぬ、前は瀬戸内海、後ろは山と小川と畑の島。
母方の故郷であれば鹿児島県の鹿屋市からさらに南下した地域で、前は釣りができるほどの大きな河川、後ろは緑溢れる山。
どちらにせよ「ド」が付くほどの田舎なのである。
今回は母方の田舎での話──。
出発の前日になると毎回母に近所の本屋に連れて行かれ、弟と1冊ずつ本を買い与えられた。ある年、俺は何を選んだのかは忘れたが、弟が選んだのがハードカバーの水木しげる著「妖怪なんでも入門」だったように思う。
当日、伊丹空港から鹿児島へ向かう飛行機に、子供2人だけで放り込まれ直送された。
鹿児島には3人の叔父と1人の叔母がいるのだが、毎回その中の誰かが迎えに来てくれていた。
その年は叔母が迎えに来てくれた。
向かうは肝属郡高山町──2005年に合併で「肝付町高山」になったらしい──の祖母の家。
数年前に祖母の葬式の為に鹿屋市まで向かう時には、路線バスで2時間ほどかかった。そこから高山町まで車でさらに20分ほど。叔母の車はひたすら下道を走っているはずだったが、ワイルドな運転のおかげで1時間30分かからずに到着した。
祖母の元へ到着した俺と弟は、嘔吐寸前であった……。
襖で仕切れる12畳ほどの広間が2つ、台所というより炊事場という表現がぴったりなキッチン、端に大型の手動機織り機とテレビが置かれた茶の間、1番下の叔父が結婚するまで住んでいた4畳半の小部屋、個人宅にしては大きな風呂、雪隠や厠などという表現が似合わぬ離れ便所。
そんな家に祖母は1人で住んでいた──。
祖母はとても優しい人で、俺たち兄弟は滞在中とても世話になった──というより溺愛された、ひたすら甘やかされた。祖母の近所に住む同年代の従姉弟たちが羨むほどに。
従姉弟たちは言った。「あんな優しいばあちゃん、見たこっなか!」
弟はどう思っていたか知らぬが、俺はちょっとした優越感に浸っていた。
幼い頃から割と小物、それが俺である。
起床して朝食、昼まで河川敷でバッタやカマキリを追いかけ、昼食の後は河川で水を浴び、夕食を食べながら少ないチャンネルのテレビを観て、21時には就寝という、それはそれは健全という文字を生活にしたような毎日だった。
そんなある日、機織り機で布を織っている祖母に言われた。
「絶対に犬を触りに行っちゃいけんよ」
祖母は縁の下で雑種犬を飼っていた。外犬というヤツである。
田舎の昭和50年代ということもあり、なかなか劣悪な環境で飼われていた。当時では当たり前ではあったものの、今思えばかわいそうなことである……。
その犬はかなりの猛犬で祖母以外には決して懐かず、叔父叔母従姉弟ですら近付くこともできぬほど、人を見ただけで吠え散らかすのである。
しかし、そんなところに誘惑というものは潜んでいるのだ。
俺、弟、従姉弟の4人は祖母の家の周りで遊んでいた。
縁の下に無数のアリジゴクがすり鉢状の巣を作っていたので、そこへひたすらアリを放り込むという碌でもない残酷遊戯、碌でもない子供たち……。
そんな子供たちの1人に、神は鉄槌を降す──。
それぞれがしゃがんでアリ捕まえていると、俺の右の方で怒号が聞こえた!
グルルァッ! ワンッ! ワンッ!
その方向を見ると、弟の右袖に犬が噛み付いてブンブンと振り回している。その場にいる全員がパニックになって硬直した。
ヤバイ! ヤバイ! ヤバイ! ヤバイ!
我に返った俺は震える足で祖母の元へ走った!
「ばあちゃん! 犬が! 犬が!」
そう言う俺を見た祖母は只事ではないと悟り、犬のいる場所へ走った。
俺は見ることはなかったが、後に従姉弟は「ばあちゃんがあんな怖い顔してるの見たことない」と言っていた。俺が遅れて祖母のところに辿り着いた時、祖母は弟を抱きしめ、犬は縁の下で尻尾を巻きブルブルと震えていた。
その時、俺は誰にも何も聞けなかった──。
幸い弟は腕に噛みつかれたのではなく、シャツの袖だけを噛まれただけで怪我はなかった。もしかすると犬は威嚇のために袖だけを狙ったのか?
それは知らぬ人間へ怯えながらも示した優しさだったのかもしれない──。
その夜はいつも通り21時には布団に入っていたが、昼間の出来事から興奮していたのかなかなか寝付けず、鹿児島へ来る前に買ってもらっていた本を読んでいた。
しばらくすると弟が俺に「にいちゃん……これ……」と、とあるページを見せてきた。
一反木綿(いったんもめん)
白い布の姿をした一反(約10m)の妖怪。
出没地 鹿児島県肝属郡高山町
おい! おい! おい! おい!
今ここやんっ! 怖いって!
ってか、俺を恐怖の渦に巻き込むなやっ!
俺は布団を被った。
そして、いつの間にか眠りに落ちていた──。
ちゃん……にいちゃん……
弟の声に呼びかけられ俺は目が覚めた、が。
目を開けたはずなのに視界が漆黒。あ、まだ真夜中……?
やっと目が慣れた時、弟が布団の外で座っていた。
「にいちゃん、トイレ行きたい……」
俺を起こすなっ! そう思いながら言った。
「ばあちゃんについてってもらえよ……」
「じゃあ、ばあちゃんのところまでついてきて……」
仕方なく祖母が眠る布団までついていき、祖母を起こして事情を説明した。
祖母が弟を連れて離れ便所へ向かった後、俺は自分の布団へ戻ろうとした時にあるものが視界に入った。
機織り機──。
暗闇に浮かぶとなぜか昼間より異様に見えるそれと、一反木綿というワードが脳内で手と手を取り合い、優雅なワルツを踊り出した。
ズンタッタ〜♪ ズンタッタ〜♪
怖いねんお前ら!
消えろ! 消えろ! 消えろ!
必死に心中で叫びながら競歩の選手さながら布団へ向かい、潜り込み、身体を丸めた。
布団の上で一反木綿がふわふわと輪を描いて飛んでいる、そんな気がした。
弟が戻って来るまでそんな妄想が続いた上に、その夜は眠ることができなかった……。
結局一反木綿にビビったのは、弟よりも俺だった……。
そんな幼き日の夏だった──。
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正直、おっさんが舞い上がります。
