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夏目漱石の命盤をよむ

パルです。

AIに作家で生年月日と出生時間のわかる人をおしえてくれいとお願いしたところ、夏目漱石と他三名ほどの情報提示がありました。

漱石ほどの大文豪となると、評論や回顧録など為人(ひととなり)を示す文章はたんと残っていて、その人生の詳細な分析もなされているわけですから、わざわざ占いでどうのこうのいう必要もないわけですが、命盤にはこんな風に出ているんですよ的な感じで書いてみたいので、軽い気持ちで読んでいただけるとうれしいです。妄想も含む内容となっております^^


昭和十年より岩波書店から出版された「漱石全集」月報
第十六号によると
二種類の漱石の写真が有料で販売されています。これはそのうちの一枚。当時の漱石の人気の高さはアイドル並みといえるでしょう^^

夏目漱石

1867年2月9日 申の刻(15時から17時)
東京生まれ


夏目漱石の命盤


漱石は常にとりまきに囲まれている人という印象があります。一週間に一度の木曜日に、弟子達が漱石とともに時を過ごす「木曜会」は有名です。数多くの文人と交わり、漱石を慕う者達はその一言一句を聞き逃すまいと緊張しながらも、この大作家とともに時を過ごせる喜びと優越に心満たされていたことと思います。多くの才能を引き寄せた漱石は、それほどまでに大人物であったといえるでしょう。

生年四化と漱石の性格・性質

命宮に天梁がはいります。親分肌で義理人情に厚く目下や友人など慕ってくる人の面倒をよくみます。周りに人が集まり、グループのリーダーになる人です。気性はさっぱりとしていますが、義侠心が強い分、ワンマンで自分の面子を傷つけられることを嫌います。

命盤を大きくみていきますと、社会的な成功に関与する、命宮の三合宮の財帛宮に生年化禄、生年化科が、官禄宮に生年化権がはいります。社会の中で才能を発揮して、経済的にも恵まれやすい方だといえます。命宮に生年四化は入りませんが、財帛宮や官禄宮にはいる生年四化は漱石の性格に大きく影響します。
社会の中で活動するとき、特にお金を稼ぐ上で他者と良い縁ができやすく、お金を得ることが有利な方です。人との関係を大切にし、慈悲の心を持ってお金を使います。また、お金に関して人と争いをせず、どちらかといえば自分が先に譲歩しがちです。お金は好きだけれど金儲けという言葉には抵抗感を持ちやすく、お金に対してきれいであろうとします。
財帛宮に生年四化が入ると、その対宮の精神をみる宮である福徳宮に影響を及ぼします。ここに漱石は主星がないので、ダイレクトに星の影響を受け、純粋に人のために尽くすようなよき人であり、人に気遣いすることが多く、疲れてしまうところがあるかもしれません。

一方、官禄宮に生年化権が入るので仕事や何か活動をするときに主導的でありたい、成果をもとめたい、人よりも優位にたちたいという気持ちがありますが自化忌があるので、その感情がトラブルを引き起こす暗示があります。自分の主張をスムーズに通せない状態になりがちです。その原因はなにか。原因は夫妻宮の生年化忌にあります。
夫妻宮に生年化忌がはいると、常に配偶者のことが頭から離れない、放っておけない、いろいろ世話をしたり一生懸命つくし、それに対して感謝が無いと腹だたしく思ったりします。近づきすぎると疲れるので、一定の距離を置いたりもします。また、生年化忌には「獲得」の意味があり、最後まで尽くすことで大きなものが得られたりもします。

漱石は鏡子との関係に苦労したようです。二人の意志疎通が容易ではないことが漱石の本を読むと感じられます。夫婦ですからお互い様なのでしょうが、貴族院書記官長中根重一の長女であり、もともと気位が高くヒステリー気質である鏡子と、圧倒的な知識量をもち、多くの弟子や知人と交わるほかは書斎の中にこもるばかりで、かつ精神的な不安定さを抱える漱石とでは温和な家庭を築けるのかといえばそもそも難しいのかもしれません。

漱石には田宅宮に主星がなく、家庭のことや家族の気持ちに対してどうしても意識が薄くなりがちです。家族への思いが沸き起こってこない感じです。対宮の子女宮にも自化忌があるので、妻との諍いがおこると同時に子どもに対しても不満やトラブル感情を抱きやすい傾向にあります。子女宮は精神をみる宮である福徳宮の疾厄宮にあたります。つまり精神の健康状態をみる宮です。ここがよくないと、精神的な面で問題を抱えやすくなります。

漱石とお金


漱石に関連した本は多く、面白いことに夏目家の収支に関する本も出ており、そこには同時代の作家に比べて漱石の収入の多さが明らかにされています。漱石の長女の夫である松岡譲著『漱石の印税帖』(文春文庫)によると、明治39年12月の出版社からの覚書によると「坊ちゃん」などをいれた小説集の六版以後の印税は3割、後に第四版以後3割が漱石の取り分となっているようで、他の作家諸氏はとりすぎだと憤慨していたそうです。
「とにかく絶えず版を重ねる事と、たとえそれによる直接の利益は少なくても、彼の著書が店の看板になるので文句は言えなかったものだろう」とその理由を述べています。
また、山本芳明著『漱石の家計簿』(教育評論社)によると、漱石は出版社から破格の扱いを受けていたことで、かなり贅沢な暮らしをしていたそうです。相手ともめることもなく、お金に関しては自分の意志を通してもさして問題になっていない、お金に良い縁ができやすい生年化禄があるとそのあたりいいですよね。『漱石の家計簿』には、漱石が妻である「鏡子とのコミュニケーション不足」から鏡子の家計運用を信用できず、しばらくの間自分で家計簿をつけていたと書かれており、八百屋・卵屋などの生活費から衣料費、雑費まで詳細に記入した帳簿が掲載されており、漱石の几帳面さがうかがえます。
しかしこれは、お金に関してせこせこしていたわけではなく、単純にお金の流れをつかみたいという思いからの帳簿つけだったのではないでしょうか。
印税や定期的な収入以外に、漱石は早い時期から株式投資をはじめていたようで、そちらの収入もあったのでしょうね。そういうことからも、お金に対して明るいというかポジティブな見方をしていることがわかります。

漱石の場合は株式投資は経験として、知り合いに頼んで確実なところを買ってやってみるというところがあったのかもしれませんが、妻鏡子は株のうまみを知り、漱石の知らぬところで徐々にのめりこんでいきます。

漱石は基本的にお金は大切だけど、お金にはきれいでありたいという心情の人です。だから、当時興隆を極めていた財閥に対する批判や権力者に対して決しておもねらない姿勢が、より一層多くの若い弟子の気持ちを惹きつけていたのでしょう。

1915年に書かれた自伝的な小説『道草』では、ある日突然二歳から八歳まで自分を育てた養父が訪ねてきて徐々に距離を詰めながら、お金を無心する様が描かれています。小説では、質素な暮らしであるように書かれていますが、当時の夏目家は裕福な部類のうちであり、要求される金額も相当だったと思います。漱石は拒否もせず、毎回応対し、相手の要求に応じていたようです。その他に、実の兄や姉にも毎月のようにお金を渡しており、さらに投機に失敗し生活に困窮する妻の実家の中根家の援助もしていたわけで、先の『漱石の家計簿』によると兄姉への援助は「年間五四六円にも及んでいる」と書かれています。今のお金に換算すると、当時の大卒者の初任給が40円くらいなので、およそ300万円という大金であり、特に兄などは漱石に養われていたといってもいいくらいでしょう。
経済的に困ったことがあると親族は「うちでの小槌」のように漱石を頼り、お金にきれいでありたいと願う漱石はずるずると援助し続けたのだと思います。生年化科にはゆるゆるだらだらという意味も含むので、お金に関してはそのような側面もあったかもしれません。

漱石の病

漱石の神経衰弱はロンドン留学時の様子から世間に知られることになりましたが、その病の大元の原因は、幼少期にあったのではないでしょうか。生まれてまもなく、高齢で出産したことを恥じた実母は漱石を里子に出しますが、夜中まで外で眠っている漱石を姉が連れ戻したといわれています。その後、夏目家で働いていた塩原昌之助の家に養子としてひきとられます。
『道草』によると、塩原夫妻は吝嗇家にも関わらず、養子である漱石に新しい着物をあつらえ、おもちゃを買い与え、少々のやんちゃにも目をつぶります。そして、夜になると長火鉢を囲んで、「お前の御父ッさんは誰だい」「じゃお前の御母さんは」そして期待どおりの返事をすると、「じゃ御前の本当の御父さんと御母さんは」「お前は誰の子なの、隠さず御云い」など毎夜のように聞かれたそうです。

漱石の10年毎の大運をみると第1運は11歳までですが、このときの精神状態はすこぶる悪いです。精神的に追い詰められるような運気です。周囲の人間に虐められ、憂鬱になっているような印象をうけます。幼少期、養父母にも実の両親にも本当に心安らげるような愛情を注がれなかったのではないでしょうか。賢い漱石は塩原夫婦が実の父母ではないことを本能的に知っていたのだと思います。ただただ、その辺の大人たち、その人たちからいじわるをされるような、そんな印象を持っていたのではないでしょうか。そのような追い詰められるような質問を毎晩問われることで、幼い漱石のこころはゆっくりと傷を深めていったのだと思います。

現代日本文学大系『夏目漱石集一』(筑摩書房)の巻末に精神病理学者である千谷七郎の「漱石の病跡」という論文が掲載されています。
学生時代、千谷は教室にあった明治・大正時代の傑出人のホルマリン漬けの脳をみているうちに前頭葉の非常に発達したある一つの脳に引き寄せられます。漱石の脳はそれほど立派だったそうです。立派すぎる脳を持つが故に苦しんだのかもしれません。千谷は「漱石の作品は『行人』以前と『行人』以後にわかれてており、『行人』を読むことで、漱石の病である内因性鬱病がどういうものか、理解できる」と述べています。
『行人』の中でも漱石は、心から打ち解けあえない主人公の兄とその妻の関係を描いており、兄の危うい精神状態を友人が主人公である弟に手紙でつぶさに書きしるすというシーンがあるのですが、最後に友人はこのように手紙を終えています。

 私が此手紙を書き始めた時、兄さんはぐうぐう寝ていました。此手紙を書き終る今も亦ぐうぐう寝ています。私は偶然兄さんの寝ている時に書き出して、偶然兄さんの寝ている時に書き終る私を妙に考えます。兄さんが此眠りから永久覚めなかったら嘸幸福だろうという気が何処かでします。同時にもし此眠りから永久覚めなかったら嘸悲しいだろうという気も何処かでします。

『行人』 定本漱石全集第八巻 岩波書店

「兄さん」にはやがて悲劇が待っているようにも思える終わり方ですが、漱石は「兄さん」の友人に、彼がどのような苦しい精神状態であるか、そして「兄さん」の独特な高い倫理性に基く考え方を語らせます。

『行人』が執筆されたのは1912年の年末からで、1913年の7月に友人宛てに
次のような手紙を書いています。

「……実は先達より何人にも没交渉にて、しかも小生には大いに必要な事のために頭を使い居夫がため人のためには一切何事もなすの勇気も余裕も無之……。行人の原稿などは人の事にあらず自分の義務としてもまづ第一に何とか片付べきを矢張りまだ書き終わらざるにても、しか御承知願上度候
勿論社会とも家族とも誰とも直接には関係なき事柄故他人から見れば、馬鹿もしくは気狂に候えども小生の生活には是非必要に候。……

「漱石の病跡」千谷七郎 夏目漱石集(一)現代日本文学大系17 筑摩書房

1908年からの第5運の大運は、身も心も苦しい10年であり正直なんども死んでしまいたいと思うような年月だったのではないでしょうか。しかしながら、官禄宮に生年化禄と生年化科がはいり、仕事の成果が出やすい運気となります。その成果の一つが、誰のせいでもなく自分の精神状態を病気として認識し、内観することで書かれた『行人』だったのではないかと思います。
その後、『こころ』、『硝子戸の中』、『道草』、『明暗』(未完)と次々と作品を発表しました。
その間、糖尿病の治療を受け、また長年患っていた胃潰瘍に苦しみながらも最後の最後まで書き続け、1916年12月10日に亡くなります。1916年は辰年であり、やはり夫妻宮と官禄宮のある辰年と戌年は漱石にとっては注意すべき干支の年だといえます。

漱石と妻鏡子

漱石の生年化忌は夫妻宮にあります。その宮についてこだわりや執着、妥協を許さないという姿勢になりがちです。配偶者のことを疎んじながらも放っておけず、面倒を看ることになったりもします。

鏡子は夜はいつまでも起きていて、朝起きられないという性質であり、漱石が早く寝るようにと促しても実行にうつすことはありませんでした。何よりも漱石が恐れたのは鏡子がヒステリーを起こして精神不安定になることであり、鏡子が寝込んだりすると、息をしているかどうか確かめたりもしました。

『道草』では生活費が足りなくなり、妻が自分の着物と帯を質屋にいれたことを知った主人公健三が、もう少し働こうと決意し、すぐにお金として形になり封筒のまま畳の上へ放り出すという場面があります。

 その時細君は別に嬉しい顔もしなかった。然し若し夫が優しい言葉に添えて、それを渡して呉れたなら、屹度嬉しい顔をする事が出来たろうにと思った。健三は又若し細君が嬉しそうにそれを受け取ってくれたら優しい言葉も掛けられたろうにと考えた。

『道草』新潮文庫

一事が万事こんな風で、打ち解け合わない二人は最後までこの調子で生活するのですが、漱石にとって鏡子が大切な人であることは間違いなかったと思います。死に物狂いに血を吐きながらも書斎にこもり小説を書き続けたのは、鏡子や六人の子どもの生活のためであり、そのことに対して感謝の気持ちのないことに不満を募らせていたのだと思います。
子どもたちにとっては毎度不機嫌な表情の漱石をみて、親しみの情を抱くことは難しかったことでしょう。一番の末っ子の伸六は「父に対して殆ど愛情らしい愛情も抱いていなかった─今も同様依然として抱いていない」と書き残しています。漱石の死後、作品を読むことで親しみを抱くようになったとも。

晩年、恐らく死の誘惑すらあった漱石をこの世にとどめたものは、妻であり子どもたちの存在だったと思います。漱石は最後まで家族の生活を守るためにできるだけのことをしました。生年化忌は「獲得」という意味があります。
身も心も最もつらい時期に、血を吐くようにして書かれた作品群は今なお私達の胸をうち、文豪と呼ばれるにふさわしい人物だといえます。

漱石が亡くなったあと、小説が売れに売れ、印税成金となった夏目家の人々は湯水の如くお金を使いました。漱石に黙ってお金を株式にかえるほど相場に面白みを感じていた鏡子は、二度も詐欺のような手口に騙されて大金を失いますが、その都度、漱石全集の発行で収入を得て変わらず贅沢な暮らしをしていました。
最終的には出版社にも不義理を重ね、夏目家の有様は世間に面白おかしく伝わることとなります。

そんな鏡子やモラトリアムな息子達を眺めて、あの世で漱石は、苦々しい顔をしながらもなんとかしてやりたいと思っていたのではないでしょうか。生きていれば、また血を吐くようにしながら作品を生み出して収入を得ようとしたでしょう。
残された作品のおかげで家族が楽しく生活ができるならそれが一番だときっと思っていることでしょう。


ここまでお読みくださり
ありがとうございました🍓







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