霧訪ふ|風まかせ文芸部《翫味》
「霧」が持つ、静謐でどこか湿りを帯びた情緒。
「訪」が宿す、声をかけずにはいられないような素朴な思慕。
そのふたつが重なり合うとき、山名はひとつの物語を帯びはじめる。
ヤマヤには、山名の響きだけで心を攫ふ山が存在する。
霧訪山(きりとうやま)。
それは長野県の辰野と塩尻のあわいに、そっと置かれたような小さな山で、高さ千五百に届かぬほどのどこにでもある里山なのに、
その名の響きだけは、どうしようもなく美しい。
「霧」が持つ、静謐でどこか湿りを帯びた情緒。
「訪」が宿す、声をかけずにはいられないような素朴な思慕。
それらふたつの響きが奇跡のように重なり合い、
さらに音便化する前の「訪ふ(とふ)」ともなれば、もはや翫味するまでもなく、叙情主義の極北と言うほかない。
訪ふという行為は、いつまでも未完のままだ。
完結しなければ、想いは永遠に変質しない。
返事があるかもわからない、
それでも問わずにはいられない、
それすら曖昧なまま続いてしまう想いならば、
それだけで長大な恋愛小説の核になり得る。
登山口の小野集落が、すでに静かな物語をまとっている。この小さな集落は、旧伊那領と諏訪領のあわいに位置し、今も辰野と塩尻とに分かれたままに寄り添っている。
そのうえ、北には善知鳥(うとう)峠が静かに身を横たえ、生き別れた親子が互いの消息を訪ふような悲話が、霧のようにそっと立ちのぼってきそうな気配すらある。
ここまで書いてしまっては、先はもはや蛇足の極みではあるが、あるよく晴れた春の日、わたしは積年の思い人に会うように、伊那谷の北の果てにあるその山に向かった。
◇
車を降りれば、春の伊那谷がそこらかしこに主張していた。
名前とは異なり、柔らかな光が、遮るものもなくその山を包んでいた。
わたしは今、ようやくすべてを終え、この原点ともいうべき山裾に、晴れ晴れとした心持ちで立っている。長い季節を抜けたばかりの胸に、春の光はひときわやさしかった。
霧訪ふと昔の人の言うなれど 訪ねし人の心は晴れけり
されど、シジュウカラは我慢しきれずに恋の歌を歌い、気の早いマンサクが、春の喜びを全身で表現している。
取り付き尾根があまりにも急だとて、まるで初恋の人からの往復ビンタのようで、むしろ清清しかった。
息が上がるたびに、胸の奥の冬が少しずつ解けていった。
アカマツ林に漂う菌糸の甘酸っぱい匂い。
「茸山につき入山禁止」というガチの警告すら、
この山域の辿りし歴史を雄弁に語りかけ、それは、思い人の歩みし時間にそっと触れるようで、どこか嬉しかった。
山中の辻にはひっそりと「御嶽講」の碑。
堂々たる佇まいとつゆ訪ぬる人なき静寂とのギャップがおかしくて、ひとしきり笑ったあと、ふと思う。
ああ、わたしよりずっと前に、この山に恋をした人がいたのだ。
◇

僅かな登りで高まりを極めれば、北アルプス、御嶽、中央アルプス、南アルプス、八ヶ岳山塊。
本州の中央にそっと置かれたこの小さな高まりは、名だたる峰々に囲まれて、それらを一望に収める、ささやかな展望台である。
霧訪山が本州の中心なれば、また我の心の直中ならむ。
もしこの山が、名にし負う霧深い山であったなら、この眺めに偶々出会った古人は、きっとこの山を愛したに違いない。
両小野のあわいに立ち、両の集落をそっと結ぶ、小さな祠。名を「会地」社とぞ聞く。その小ささに似合わぬ祈りの重さが、わたしの胸に静かに落ちた。
ぽやんとした春の空気に当てられて、予定より長く山頂に留まった。
ただ、そこに長くいた。
隣人のカレーヌードルの、あまりに暴力的な香りが、冬眠していたわたしの心を、ふいに揺り動かした。
わたしは確かにここに生きていて、その乱暴な香りが、とても心地よかった。
霧が発生するのは、確かに湿り気を帯びた洞地形であろう。
きり洞(どう)しかり、う洞(どう)しかり。だが、無粋は言わぬ。
その山は、ただ「きりとふやま」であった。
わたしは笑った。
◇
語りたきこと山ほどあれど、千の言の葉を重ねるは、春の一日の静謐を乱すように思えた。
ただ、麓に降り立ち、この山に宿る信仰の歴史を辿るうち、南信の集中豪雨(三六災)に罹災し、やむなく離村してきた古老の話を聞いた。
その祈り。その鎮魂。
「霧訪ふ」という名の奥底には、名もなき祈りが幾層にも積もっている。
ならばわたしは、この山に寄せられた祈りを、継ぐ者でありたい。
そんな思いが解けた胸に灯りし、春の一日のこと。
(付録:山行記録)
山名:霧訪山(長野県辰野町/塩尻市)
形態:周回、ソロ登山、約2時間
天候:晴れ
水分:0.6L携行 → 0.3L消費
行動食:ドーナッツ
植生:アカマツ~落葉広葉樹二次林
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