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息子の友達のお誕生日会に行ったら、アメリカの社会問題を考えさせられた

最近、何かと子ども関連のイベントで忙しい。今日は、息子のクラスメートの誕生日会に、息子と二人で行ってきた。

アメリカの誕生日会は、私の体験からいうと、子どもが小さいうちは自宅でやることが多いが、小学校に上がった頃から、どこかの施設で開催するものが増えてくる。例えば、公園のピクニックテーブルを予約して、屋外で開催するもの。このように場所だけを借りて、パーティの中身は自前で開催するパターンもあれば、準備から片付けまでの一式をアウトソーシングするパターンもある。レストラン、インドアプレイグラウンド、ジムなど、様々な施設が、誕生日会をビジネスの一環として展開している。

今日の誕生日会は、パーティ一式をアウトソーシングするタイプのもので、会場はレーザー・タグのお店だった。レーザー・タグは、日本でも一般的になっているのだろうか。チームに分かれ、光線銃を使って、敵を打ち倒していくサバイバルゲームである。

6歳の誕生日会にレーザー・タグか。もっと大きい子どもの遊びというイメージがあったけど。招待の連絡を受けたときにそう思ったのだが、そのときはあまり深く考えなかった。うちの子も含めて、この年齢の子どもにとって、誕生日会というのはいつもビッグイベントである。招待されたのに行かないという選択肢はほぼない。

誕生日会の会場に着くと、大人と子どもが小さなエントランスにごった返していた。パーティルームに入り、息子のクラスの親御さんたちと歓談している中で、「レーザー・タグってやったことある?」と聞いたら、ある親御さんが、「私も昔よくやったわ。楽しいわよー。」と、子どものようにはしゃいだ様子だった。アメリカでは暫く流行っているらしい。

そのうちにゲームが始まる時間になり、お店の係の人に連れられて、子どもたちがプレイ・ルームへと移動していった。

親御さんの一人が、

「うちの子、暗いところを怖がるから、すぐ出てくるんじゃないかな。」

と心配そうに、入口付近を見守っていた。私の息子も暗闇を怖がり、寝室には小さなライトを3か所も付けているが、今日は友達も一緒だから、大丈夫かなと思っていたのだが。

5分ほどすると、心配していた親御さんの子どもとうちの息子が2人で一緒にプレイ・ルームから出てきた。そして、2人とも、私たち親の姿を確認すると、目に涙を溜めて、怖かったといって泣き出した

私は息子に駆け寄って抱きしめながら、思った。ああ、そうか。ビデオゲームなら大丈夫でも、今回のような体験型の銃撃ゲームは、現実との境目が曖昧になって怖いんだな。確かにうちの5歳には早すぎるゲームだった。ほかにも泣いて出てきた女の子がいた。

息子の潤んだ目を見ながら、私は、今年の夏に、我が家から車で15分ほどのショッピングモールで起こった銃撃事件のことを思い出していた。それから、先日ママ友が教えてくれた、小学校での銃乱射事件を想定した避難訓練のことも(小学一年生以上を対象にしていたので、息子のいるkindergartenのクラスは参加していない)。想定される危機を説明したビデオと、実際の避難訓練で、小学二年生の娘さんは、恐怖を感じて夜眠れなくなったらしい。

そして、この誕生日会の招待を受けたときから、ちょっと心に引っ掛かっていたことが、瞬時にクリアになった。

つまり、こんなに身近に銃がある社会に住み、時に銃によって理不尽に命が奪われる事件を果てしなく繰り返しながらも、銃撃を体験型ゲームにして楽しむという矛盾に対する違和感である。子どもの誕生日会に、まだ5歳や6歳の子どもたちに、おもちゃの銃を渡し、敵チームを撃てというのだ。いや、ただのゲームだ、そんなのは世界中にある。それが悪いと言いたいのではない。日本にいたら私だって立ち止まって考えることはなかったかもしれない。

でも銃社会のアメリカで子どもを育てている親の立場からすると、この矛盾はやすやすと見過ごせない。でも、だからといって、どうすればよいのかという問いに対する答えを、私は持っていない。そこに歯痒さがある。

それに、アメリカにおいては、これは矛盾ですらないのかもしれない。実際、銃によって多くの命が奪われる事件が起こるたびに、民主党は銃規制を訴えるが、いつも目に見える成果は上がらない。結局のところ、アメリカの大半の人々は、「銃を持つ権利」が奪われないことを望んでいるらしい。

誕生日会では、その後、息子は、同じくレーザー・タグから離脱した友達と一緒にビデオゲームを楽しみ、ピザやカップケーキを食べ、パーティを満喫したようだった。怖い思いだけで終わらなくて良かったと、ほっとした。

ただの誕生日会のはずが、思わぬ形で社会問題を考えることになった、週末の午後であった。


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