見出し画像

1990年発表のミステリ紀行を特別公開!『横溝正史の旅 八つ墓村へ行こう』折原一【『六つ首村』刊行記念】

横溝正史に捧ぐ、渾身のダーク・サスペンス!折原一さんの新刊『六つ首村』が2025年11月19日に刊行されました。

書名からも伝わる通り、本作は横溝正史氏をはじめとする東西ミステリへの敬愛の念を込めた大長編。
刊行にあたって折原一さんから、以下のメッセージを頂きました。

さて、このメッセージの中にもある「三十年も」という月日。実は折原一さんは、作家デビュー直後である三十数年前に、横溝正史氏の作品舞台をめぐる旅を敢行なさっていたそうです。その時からの長年の想いを込めて執筆されたのが、この『六つ首村』だったのです。

今回、その三十数年前の「横溝正史の旅」を特別に公開できることになりました。『鮎川哲也と十三の謎 '90』(東京創元社、1990年12月)掲載、今から35年前の紀行文をぜひお楽しみください。


横溝正史の旅 八つ墓村へ行こう

文・折原一

今から十五、六年ほど前、横溝正史の小説が大ブームになって、彼の一連の岡山物が次々に映画化されたことがあった。その頃、私はJTB に入社したばかりで、支店のカウンターで、旅行案内を担当していたが、そんなある時、映画「八つ墓村」の舞台を訪ねるツアーのパンフレットがまぎれこんできた。もちろん自社商品である。詳細なコースは忘れたが、映画のロケ地をめぐる旅で、館の炎上シーンのロケ現場の見学がツアーの最後に組みこまれていた。炎上の場所は、伯備線の新見のさらに奥、鳥取県の根雨駅近くの山中だったと記憶している。
是が非でも行きたかった。
しかし、ツアーは三、四日のコースで、もちろん土日は挟んであったけれども、私のような新入社員が乏しい有給休暇を使って行くことはむずかしかった。ならば、添乗負として参加しようと上司に願い出たが、こちらの手も通じず、後日、映画や「伯備線の山奥に〝八つ墓村〟を見た‼」などという雑誌の記事を見て、悔しい思いをした覚えがある。
数年前、会社をやめた時、たまたま「八つ墓村」のビデオを見て、そのような昔の苦い記憶が甦った。そして、横溝作品を読み返したり、資料を漁ったりしているうちに、一人で行ってみたくなった。もちろん、仕事の合間に足をのばすといった具合だったが、何度か岡山通いをしているうちに、誰かに話したくてうずうずしてきたのである。

1 『本陣殺人事件』

横溝正史が書いた岡山を舞台にしたミステリーには、『本陣殺人事件』『獄門島』『八つ墓村』『夜歩く』『悪魔の手毬唄』『悪霊島』などがあり、ほとんどが映画化されている。
彼が岡山県に疎開したのは、昭和二十年三月で、この頃の経験を元に書いた作品群が、彼の作品を代表し、日本の推理小説の発展に寄与したことは衆目の一致するところである。
その疎開先は、岡山県吉備郡岡田村桜(現在の吉備郡真備町岡田)であり、嬉しいことに、彼の滞在した家はほぼ当時の姿のまま残っている。最寄り駅は伯備線の清音駅で、歩いてもせいぜい四十分たらずだが、次の駅の総社で自転車を借りると楽である。
総社駅は吉備路の史跡めぐりの起点となるところで、駅前にはレンタサイクルの店がある。私が行ったのは、四月の上旬だった。いわゆる観光コースとは逆方向にペダルを踏み出したので、係員が慌てて「国分寺はあっち。そっちは違うよ」などと言ったが、説明するのも億劫なので、そのまま進んでいった。
高梁川に架かる総社大橋をわたり、小さな丘陵の裾に沿っていくと、すぐに真備町に入る。この間、わずか十分だった。通行人に横溝正史の家を訊ねると、道なりに行けば、土塀の家にぶつかるから、すぐにわかるという。
なるほど、小さな集落の中で、ところどころ崩れかけた茶色い土塀はよく目立った。家の前面には、水田がかなり広くつづいていて、ここが今も純農村地帯であることがわかる。
塀の中に昔ながらの瓦葺きの二階家がある。二階に格子のついた丸窓があって、あそこで横溝が執筆していたのか、などと想像がふくらむ。庭の植木は手入れが行き届いていて、ちょうど桃や山吹、椿が満開だった。
しかし、家は人気がなく、しんと静まり返っていた。家の裏にまわってみると、農協の帽子をかぶった五十年配の男性が、堆肥の山を鋤でかきまわしていた。隣家のご主人だった。ここが横溝正史の疎開していた家かと聞
くと、確かにそうだという。
「でも、今は誰も住んじゃいないよ」
先年、独り暮らしをしていた持ち主のお婆さんがなくなって、空家になってしまい、現在の当主は岡山市住まいで、めったにもどらないという。さほど荒れはてた印象がないのは、最近、植木屋が手入れをしたためらしい。
「映画が盛んだった頃は、あんたみたいな熱心な人がずいぶん来たもんだよ。最近はめったに来なくなった」
彼は話好きと見えて、鋤を持つ手を休めて、家の前まで出てきてくれた。そして、まだ田植えの始まらない水田を指差しながら、
「正史はね」
といった。横溝の名前を呼び捨てにしたのが、なぜかおかしかった。「正史は、あの辺の畦道をむずかしい顔をして、よく散歩していたものだ。きっと小説の筋を考えていたんだろうな。わしたち、その頃、いたずらざかりの小学生だったんだが、そばに寄ると怒られそうだから、近寄りもしなかった」
水田にはレンゲがピンクの花を咲かせている。ヒバリがピーヒョロロとさえずり、春を謳歌していた。
横溝が疎開していたのは、昭和二十年三月から二十三年七月までの正味三年間だったが、その畦道で『本陣殺人事件』『蝶々殺人事件』『獄門島』などの構想が練られたかと思うと、感無量である。じっと目を凝らすと、タ
刻、しわしわの和服の胸をはだけ、もじゃもじゃ頭をかきむしりながら歩く横溝の姿が見えてくるような気がする。その体からは、オーラのような妖気が立ちのぼっていたにちがいない。
自転車で旧岡田村をぐるりとめぐることにした。
正史の戦後最初に書いた『本陣殺人事件』の舞台は、ここ岡田村に設定されているのである。『本陣殺人事件』から少し抜き出してみよう。

「……そこは岡―(A)村字山ノ谷というだけあって、三方を山にかこまれた小部落で、ひくい山のうねりがヒトデの足のように平地に向かって突き出している。その足の尖端に一柳家の広い邸宅があった。
……村端れにある岡―(A)村の役場のまえまでいってみた。この役場は村の南端れにあって家ならびはそこでポツンと切れて、そこから南は向うの川―(B)村まで一面の田圃つづきであった。そして、その田圃の中を一直線に二間道路が走っているのだが、その道路を四十分ほど歩けば汽車の停車場まで行く事が出来る……」

それから、金田一耕助の登場の場面。

「伯備線の清―(C)駅でおりて、ぶらぶらと川—(B)村のほうへ歩いて来るひとりの青年があった。そういう青年が高―(D)川を渡って川—(B)村のほうへ歩いてくる……」

ーの部分を埋めると、(A)は岡田村、(B)は川辺村、(C)は清音駅、(D)は高梁川となる。すなわち、伯備線の清音駅から高梁川をわたり、川辺村を経由して、四十分も歩けば、岡田村の役場につくことができるわけだ。川辺はかつての山陽道の宿場町で、当然のことながら本陣があったが、ここの本陣の一柳家が岡田村に移り住み、そこで奇怪な事件に出くわす、というのが『本陣殺人事件』の概要である。
現在の岡田村には、一柳家のような大きな家は見あたらなかったが、田圃といい、竹藪といい、かなり当時の雰囲気を残していて、四十数年前の村の様子を思い浮かべるのは容易である。
再び正史の旧居にもどり、門の前に座って『本陣殺人事件』の文庫本を取り出す。現地でその作品を読むのが、この〝旅〟のもう―つの目的だったのだ。
一柳家の離れで琴が嗚り響く場面まで読んだ時、隣家のご主人がやってきた。
「おや、まだいたのか。ずいぶん熱心だね」
「ええ、まあ……」
と適当に言葉をにごしていると、唐突に奇妙な質問をされた。
「あんた、『八つ墓村』は読んでるよね?」
地元の人問だから、横溝作品を読んでいてあたりまえなのかもしれないけれど、この人が『八つ墓村』を読んでいるという事実が、またなぜかおかしかった。
「あんた、あの作品の中で、濃茶の尼というのが出てきたの、覚えてないかな?」
「ええ、知ってますよ」

「……しかし、なんという醜い尼であったろうか。年齢はもう五十か。……私たちが近づくと、尼は握りしめた両手を振りまわし、地団駄をふむような格好でどなりつづけた。
『来るな、来るな、かえれ、かえれ、八つ墓明神はお怒りじゃ。おまえが来ると村はまた血でけがれるぞ。八つ墓明神は八つのいけにえを求めてござる。おのれ、おのれ、来るなというに……』
 濃茶の尼は金切りごえを張りあげて叫びつづけながら、私たちが田治見家の門へたどりつくまでついてきた。……

『八つ墓村』のそんな情景が思い浮かんだが、こんなところで、濃茶の尼のことを聞かれるとは思ってもいなかった。
「濃茶の尼が何か?」
「実はね、この道をまっすぐ行くと、濃茶の祠というのがあってね、正史は濃茶の名前をそこから取ったんだ」
なんだ、そういうことだったのか、と納得する。わが村の地名が『八つ墓村』に使われたとあって、ご主人の顔は得意げでさえあった。
おそらくその祠は、古い木の根かたにでもあるのだろう。言われるままに私は濃茶の祠を探しまわったが、ついに見つからなかった。
「来るな、来るなというに」と、濃茶の尼が自転車のペダルを踏む私の耳元に囁きつづける。そのせいで祠は姿を消してしまったのだろうか。

2 『八つ墓村』

作品の出来はともかく、モデルとなった実在の事件、映画その他で、横溝作品の中で最もポピュラーなのが『八つ墓村』であろう。ゆかりの土地も比較的探しやく、鍾乳洞やら、豪邸やら、作品のイメージを喚起しやすい。
八つ墓村の位置を作品で見てみよう。

「……八つ墓村というのは、烏取県と岡山県の県境にある山中の一寒村である。……岡山で山陽線から伯備線に乗り換えて数時間、N という駅で私たちが汽車をおりたのは、もう午後四時を過ぎたところだった。……八つ墓村へ行くには、しかし、それからもう一時間バスに乗り、さらにまた半時問歩かねばならない。……」

ここに出てくるN とは、むろん新見のことであり、この記述に従うなら、映画『八つ墓村』の館炎上ロケのあった根雨の近くの県境あたりが、村の位置にあたる。
作品のヒントとなったのは、昭和十三年五月二十日、津山市の北隣の西加茂茂村行重で起こった、いわゆる津山事件である。犯人の都井睦雄は二十一の若者だった。黒詰襟にゲートルと地下足袋をはき、白鉢巻に二本の懐中電灯をさし、胸に自転車用ランプ、腰に日本刀一振、ヒ首二つ、右手に猟銃を持った姿で、遺恨を含む村人三十人を惨殺したという、犯罪史上稀に見る残虐な事件である。
これを元に『八つ墓村』が生まれたわけだが、作者が事件の現場となった西加茂村への配慮から、N を八つ墓村へ入る起点としたのだろう。N (新見)を津山に置き換えてみれば、ハっ墓村の位置はこの西加茂村に重なり、バスの所要時間、徒歩時間もほぼ一致する。
私は現在の苫田郡加茂町行重へ単身乗りこむことにした。
八つ墓村ブームの時、ここ加茂町にやって来た人がどれだけいるかわからないが、十数年を経た今は、ほとんどいないと思う。
〝八つ墓村〟へ入るには、やはり峠越えのほうがいいだろう。私は、山の上からすり鉢の底にある集落を見下ろす場面を想像し、心が躍った。例の濃茶の尼との出会いの場面や、『悪魔の手毬唄』で金田一耕助が鬼首村に入る時のおどろおどろしい場面もチラッと頭をかすめ、峠越えをしない手はないと思った。
津山市の地図を見ると、市の北部から加茂町行重の集落に入るには、峠越えのルートが五つあり、標高は五、六百メートル程度でさほど高くはない。麓から山向こうまでの直線距離は、三キロくらい。二時間もあれば、越えられると私は踏んだ。
午後一時、津山駅に降りたった私は、駅前の観光案内所で加茂町へ山越えの道の状況を聞くことにした。女性の係員は、エッという顔になって、しばらく考え込んだ。この人、何をしにいくのかと不審に思ったらしい。そこは登山するには山が低すぎるし、観光的には何ら見るべきものはないからである。こちらとしても、〝八つ墓村〟に行くとは言えないので、説明がむずかしい。
「加茂温泉を予約してましてね。そこまで歩いて行きたいんです」
加茂町内にある温泉宿を予約していたのは事実である。
係員は、役所に問い合わせてくれて、どこか一ヵ所だけ通れるようなことを聞き出してくれた。
私は吉井川をわたり、津山城跡を見てから、タクシーを拾った。初老の運転手に峠の入り口まで行ってくれと言うと、さっきと同じ反応があった。
「そりゃ、また……。行くのはかまいませんけど……、峠は通れるのかな」
運転手は首を傾げながら、不気味な言葉を吐き、車を進ませる。
津山市といっても、市域はかなり広く、中国山地が眼前に迫ってきたのは、三十分もたってからだった。中国山地は、標高は高くはないが、実際そばで見ると、奥が深く、越えるのは難儀そうである。しかし、ここまで来
て、今さら引き返すわけにもいかなかった。
二時すぎに、最奥の大篠奥谷という集落に入る。名前のようにどん詰まりで、車が入れるぎりぎりのところまで行ってもらうことにした。麓の際まで入ってから、運転手は私に名刺をくれて、もし考えを変えて引き返すよ
うなら、いつでも電話をくれと言う。
「遭難でもされちゃ、こっちも後味が悪いですからね。ほんとに気をつけてくださいよ」
と縁起でもないことをつけ加えた。
山道は沢沿いに、ゆるい勾配で上へとつづいていた。私はタクシーを見送ってから登り始めた。途中、野良仕事をしている老婆に出会ったので、峠の様子を訊ねる。
「さあて、若い頃は通ったことがあるが、今はどうなってるのかね」
老婆は腰を伸ばし、山の上を見た。「通れないような気もするがな」
と、どうも心許ない返事がもどってくる。地図を見ると、津山事件の犯人の都井睦雄が猟銃自殺した荒坂峠越えの道が西端にあり、この話しぶりでは通れないのかもしれない。ならば、その東の利元峠を越えようかなどと考えながら、先を急いだ。

三十分ほどで沢が切れ、傾斜が急になる。沢の音は山の下のほうから聞こえるだけだ。木の切り出しをしているらしく、ところどころに丸太が転がっているが、林業関係者の姿はない。そのうちに曇っていた空からポツリポツリと雨が落ちてきて、ますます心細くなってくる。早くしないと、今日中に向こう側に着けないのではないだろうか。山はまだはるか上である。
日が暮れて、人っ子一人いない峠の上で、濃茶の尼のような老婆と出会って、「来るな、八つ墓村に来るな」などと言われたら、どうしよう。
あるいは、『悪魔の手毬唄』で金田一が見たおりんのように「なにぶん可愛がってやってつかあさい」だなんて歓迎のされ方もあるかもしれない。山の下では、笑い話に思えたことが、寂しい山中では、冗談として笑えなかった。
「早く引き返せ」と別の自分が耳元で囁いている。そんな時に、突然、道が途切れた。笹が密集しているので、その先を踏み分けていくことができなかった。まさに大篠奥谷である。笹の奥を窺っても、道はつづいている気配もなく、果てしなく、笹の林があった。完全な行き止まりだった。
残念ながら、峠からの〝八つ墓村〟入りは断念せざるをえず、私は情けない思いで山を下る。もちろん、公衆電話などあるはずもなく、最初に目についた民家で電話を借りて、タクシーを呼んだ。
「そうですか。道はなかったですか。ハハハハ」
タクシーの連転手は、行きの時と同じ人だった。「遭難しなくて、よかったよかった」
と、彼は自分に言い聞かせるように、何度もつぶやいた。

結局、加茂町へは、J R 因美線の鳥取行きの鈍行で行くことになった。
吉井川の支流、加茂川に沿って、ディーゼルカーは進んでいき、やがて左手に天狗寺山(標高832 メートル)が見えた。その奥に通ることができなかった峠があるかと思うと、悔しさが込み上げてくる。
美作加茂で下車、寂しい駅前からとぼとぼと歩き始める。鉄道の線路越しに見える山懐に目指す〝八つ墓村〟があるはずだが、霧にけぶって見えない。すでに五時をまわっていたので、その日はそのまま宿に向かい、明朝、村へ行くことにした。
しかし、それにしても寂れた町である。中国山地の南側は〝山陽〟だったのに、ここはまさに〝山陰〟だった 。
山の表と裏では、風土が全く違っているのである。天気のせいもあったのだろうが、すごく暗い印象だった。
旅館は商人宿のようなわびしいところだったが、温泉がよかったので、かろうじて救われた思いがした。
そして、翌朝、いよいよ八つ墓村へ向かう。
地図で見ると、集落は山の中腹にあり、道はそこで行き止まりになっている。特に用事でもないかぎり、不審なよそ者が近づけば、いかなる目的のためにやってきたのか、村人にはわかってしまうだろう。
そうした危惧があったからこそ、津山からの峠越えを考えたのである。峠を下って村を通過するのであれば、村人はとがめるはずはないだろうと。
加茂川の畔から山を見て、一瞬、気後れがした。川の付近のいわゆる町の中心部は晴れているのに、村のある山全体に霧がかかり、まるで外からの侵入を拒んでいるような気がしてならなかったのである。
憂鬱な思いで山に向かって歩き出す。ちょうど登校時間なので、山の上から白いヘルメットをかぶった中学生が自転車を飛ばして下りてくる。その視線は、「あんた何者?」と告げていた。
谷は深く、集落は狭い。急斜面に張りつくように、家がポツポツ立っている。村の入口で、畑に出ている老人に出会う。老人は私に気づくと、手を休めてじっとこちらの様子を窺っていた。
向こうにはこちらの意図がわかっているのだろう。私はいたたまれなくなって、村入りをあきらめたが、後日、高橋哲雄氏の『ミステリーの社会学』(中公新書)にも同様のことがむいてあるのを見て、「やっぱり」と思っ
こ。
〝八つ墓村〟は、興味本意で訪ねるべきではない。もし、どうしても見たければ、美作加茂駅から山を望めばいい。それでも、八つ墓村のイメージは充分伝わってくるはずだから。
ちょっと弱気だったかな。

   *

〝八つ墓村〟へは行くなと書いてしまったので、それをフォローする意味で、映画のロケ地を紹介しておこう。
映画『八つ墓村』に出てくる鍾乳洞は、満奇洞といって、有名な井倉洞のさらに奥にある。井倉洞の影に隠れて、こちらはあまり知られていないようだが、JR 伯備線の井倉駅からバスで四十分あまり。井倉洞は高梁川に面した崖にあるが、それにつづく崖を上りきると、平坦な台地が広がる。たった一人を乗せたバスは、低い山並みの中に入っていく。
バスの終点は、山のどんづまりで、山の中腹に満奇洞の看板が立っていた。
もちろん、入場者は私一人だった。鍾乳石が無数に垂れ下がる洞内は、薄暗く、雫の落ちる音や足音が不気味に響く。二十分くらいでまわれるほど、小ぢんまりしていて、いかにも映画のロケ向きだ。ふと、映画の結末で、狂った犯人が髪の毛をふり乱し、気味の悪い声で笑いながら追いかけてくるさまを思い出して、背筋がゾクッとした。
ところで、スケールといい、迫力といい、満奇洞と比べようもないほど大きいのが、井倉洞である。満奇洞が横穴迷路式とすれば、こちらは高度差のある直線型で、最初に高いところに登ってから、下へ降りていく構造になっている。地底滝がすさまじい音を立て、炭鉱の採鉱窟のような穴が際限なくつづいている。ことに、オフシーズンのウイークデイに行けば、人気がまるでないので、かなりの恐怖を味わえる。こんな暗い迷路の中で、頭に二本の懐中電灯をつけ、猟銃を持った狂人と遭遇したら、どうだろう。

   *

もう一つ、ロケ地として紹介したいのが広兼邸である。
映画に出てきた石垣のある豪邸といえば、思い出す人も多いだろう。小京都高梁の西、成羽町のバスも通わぬ不便な山中にある。
高梁市からバスで成羽に出て、そこからククシーを使うといいだろう。紅葉時はさぞ美しいであろう渓流沿いの道を三十分ほど上ると、小高い山の中腹にまるで城郭を思わせる豪壮な構えの屋敷が現れる。昔の「八つ墓村ツアー」の中にも、当然この家が含まれていたはずだ。
江戸時代末期にベンガラで巨大な富を築いた庄屋、広兼氏の屋敷で、文化七年(1810) に建てられたものである。二千五百平方メートルの敷地の中に、二階建の広大な母屋、三棟の土蔵、楼門、長屋などが立ち並び、当時の富豪の生活を偲ばせる。
「映画のあった頃は、それは大変でした。全国から観光客が押し寄せましてね」
管理人はそう言いながら、庭園を案内してくれた。
今は、十数年前の賑わいが嘘のように静かである。ここも訪問客は私だけだった。土蔵や離れ座敷、茶室をめぐっていると、映画の情景が思い浮かぶ。手水場で、管理人が杓で水を流し、水琴窟の音色を楽しませてくれた。
見学後、楼門のそばの石垣に座り、早速、文庫本の『八つ墓村』をひもとく。日なたぼっこをしながらの至福の読書クイム。
夜来れば、きっと怖いところだろうが……。
今は平和である。

3 『獄門島』

十年ほど前のことだろうか。〝獄門島〟はまさかあるまいと、冗談半分で岡山県の地図を見ていて、それらしき島を見つけた時は、本当にびっくりした。しばらく心臓の動悸が静まらなくて困った記億がある。

「備中笠岡から南へ七里、瀬戸内海のなかほど、そこはちょうど岡山県と広島県と香川県の、三つの県の境にあたっているが、そこに周囲二里ばかりの
小島があり、その名を獄門島とよぶ」

『獄門島』の冒頭の部分である。地図を見ながら、さらに読み進むと、「笠岡を出た船は、神島、白石島、北木島、真鍋島を経由して獄門島に至る」とある。
それらの条件を満たす島を六島といい、真鍋島からち ゃんと航路を示す青い線がのびている。横溝ファンを名乗る者なら、行ってみたいところだろう。
金田一耕助が獄門島に行ったのは、昭和二十一年のことで、戦友の鬼頭千万太の死を遺族に知らせるために、三十五トンの白竜丸という巡航船に乗ったのである。

「白竜丸の胴の問は種々雑多な乗客できっちりつまっていた。......擦り切れた、しみだらけの、薄ぎたない畳敷きの胴の問は、それらのひとびとと、それらのひとびとの持ちこんだ荷物とで、足の踏み場もないほどであった。汗の匂いと、魚の匂い、排気ガスの匂い、どのひとつをとってみても、あまり愉快でない匂いが、充満して……」

と、いかにも船酔いしそうなボロ船の感じがよく出ている。
笠岡の港に停泊していたのは、「せとじ号」という高速船だった。デッキには出られないけれど、船室はすべてクッションのついた椅子席で乗り心地は快適だった。
『獄門島』では、真鍋島まで三時問かかったとなっているが、この船は真鍋島までわずか五十分で行く。ほとんど揺れも感じず、船酔いをする暇もなかった。
さて、白石島、北木島を経て、真鍋島に降りた私は、早速、六島行きの便を調べてみた。十時三十分と十五時三十分の一日二便で、所要は二十分ということだった。ちょうど十五時三十分発の船が港に停泊していたが、これに乗ってしまうと、今日は六島に泊まることになる。島に民宿はあるというが、今からの予約では、夕食にはありつけないだろう。それに、〝獄門島〟へ予備知識を持たずに行くのはためらわれた。
ということで、その日は、真鍋島のユースホステルに泊まり、翌日に六島を往復することにした。
真鍋島は、映画『瀬戸内少年野球団』のロケ地として有名になったところで、島の斜面にマーガレットやキンセンカなどが咲きみだれている、平和な島だ。中世には、村上水軍の一派、真鍋氏が拠点とした島で、当時の二つ
の城跡が残っている。なだらかな起伏の畑を歩くと、映画に出てきた少年たちが花畑の中から出てくるような、のんびりした雰囲気がある。
城山(しろやま)と城山(じょうやま)の二つの城跡があり、東側の城山(じょうやま)に立って、西を望むと、おだやかな海面に西日を受けて、ポッカリと浮かんでいる島があった。
形状が、本を読んで想像していた通りなので驚く。大きな岩の上に腰を下ろしながら、私は思わず嘆息をもらした。
「まさに、獄門島だ」
その夜のユースホステルの泊まり客は、私と二十五歳の女性の二人だけだった。宿舎は、昔の中学校の校舎をそのまま使っているので、部屋がやたらとだだっ広くて、天井が高い。その講堂で、六十代のペアレント夫婦と、その息子さんと一緒に食事をとっている時に、たまたま話題が六島のことに及んだ。
「六島は、『獄門島』のモデルだと思っているんです」
と、私が自説を得意になって披露すると、
「そんなこと、誰でも知ってますよ」
息子さんが何を今頃、というふうに言う。六島が〝獄門島〟であることは、島民にとっては、あたりまえのことらしい。
「何ですか、獄門島って?」
その時、女性の泊まり客がキョトンとした顔で言った。
「え、知らないの?」
いろいろ聞いてみると、彼女は『八つ墓村』も『本陣殺人事件』も読んでいないらしい。
「だって、横溝正史って、気持悪そうじゃないですか。わたし、一冊も読んでません」
彼女は大学院で民俗学を専攻していて、今、瀬戸内の島々に興味を持って、あちこちの島をわたり歩いているということだった。
「だったら、『獄門島』くらいは読んでおいたって、いいんじゃないの。瀬戸内の民俗研究の参考にはなると思うけど」
私は無責任なことを言って、彼女に古びた『獄門島』を貸してあげたのだが……。
案の定、翌朝の彼女の顔はみものであった。
「おもしろくて、途中でやめられなくなっちゃいました」
目のまわりを赤く腫らして、「読み終わったら、今度は怖くて眠れなくなっちゃうし……」
と今にも泣き出しそうだった。
このユースホステルは二つの大教室を男女別にしていて、込んでいる時は雑魚寝するわけだが、前夜は大部屋に男女が一人ずつ寝たのである。ガランとした大部屋で女一人で『獄門島』を読めば、怖くなるに決まっている。

午前十時半、真鍋港には六島行きの郵便船「おおとりⅡ号」が停泊していた。わずか十五トンで、定員は五十名だというが、座席は十二人分しかない。船内には、島ヘ里帰りするといった感じの若者、大きな荷物を持った中年の女性、背広を着た中年男性の三人が乗っているだけだった。
「気をつけてくださいね」
今日は真鍋島をハイキングするという大学院生は、心配そうな顔をして港まで見送ってくれた。
「大丈夫ですよ。よかったら、あなたも行きませんか?」
「ううん、とんでもない」
彼女はとんでもないというように、首を横にふった。
その様子を見て、金田一のパトロンの久保銀造が、獄門島行きの前にこう言ったことを、ふと思い出した。

「耕さん、あんたが獄門島へ行くのは、ただ戦友の死をつたえるためだけかな。それならばよいが。……もし、そのほかにあんたが何か目的を持ってい
るのなら、何か心に、いだいていることがあるのなら、わしはあんたを、引き止めたいと思うよ。獄門島って耕さん、あそこはいやな島だよ。恐ろしい島だよ。……」

「おおとりⅡ号」は、三十五トンの白竜丸より小型だが、スピードははるかに速い。たちまち真鍋島は後方に遠ざかり、代わりに目指す六島が前方にその姿を現してきた。

「金田一耕助は、そのとき白竜丸の窓からみた、獄門島の光景を、ずっと後にいたるまで忘れることができなかった。……全体として、それほど高い山はなかったけれど、島そのものがいきなり海から躍り出したように、数十丈の断崖が島をめぐってつらなっているのである。そしてその崖の上から赤松におおわれた丘が摺鉢を伏せたように盛り上がっており……金田一耕助はなぜかその光景が島全体の運命を暗示しているように思われて、冷たい戦慄が背筋をつらぬいて走るのを禁じえなかったのである……」

獄門島へ金田一耕助が向かう時の描写だが、崖数十丈は大げさにしても、かなり高い断崖が島をめぐっている。
びっくりしたのは、島の突端の崖の上に寺院のような建物があったことだった。金田一が白竜丸の中で知り合った千光寺の了念和尚が、「ほら、あの高いところに見えるのがわしの寺じゃ」と教えてくれる場面があったが、それと同じではないか。ただ、今見ているものは寺にしては立派で、真新しい黒瓦が光り輝いている。乗客の一人に聞いてみると、天理教の教会ということだった。釣鐘を置くには絶好の場所にある。

天理教会のある船をまわると、小さな港が見えてきた。狭い入江には、五十戸くらいの黒瓦の家々が軒を接するように立ち並び、山の斜面に延びている。
前浦港には、老人たちがたむろして、船の入港をじっと眺めていた。彼らは船から誰が降りて誰が乗ったのか注意深く見守っているのだ。娯楽のない島では、よく見られる光景である。老人ばかりの島でも、情報の伝播は驚くほど速く、一、二時間のうちに誰が乗り降りしたかがわかってしまう。いわく、どこそこの誰は帰省したとか、どこの誰それの親戚が来たとか……。
カメラを下げた私は、すぐに観光客と認知されたらしい。興味を失った老人たちは、かしましく話しながら、それぞれの家の中に吸いこまれるように消えていった。
静かになった港から、私は早速、島の探索を開始した。舗装道路はここ前浦ともう一つの集落湛江を結ぶものがあるだけで、その海沿いの道も二十分も行けば、歩き尽くしてしまうほどである。島の裏側は断崖で道もなく、島の最高峰も途中で藪に阻まれて行くことはできなかった。
あと見るべきものは、島の守り神である大鳥神社くらいのものだ。
仕方なく、前浦にもどる。家々の間の道を抜け、段々畑の道を登っていった。登りつめたところに、白亜の灯台があった。六島灯台である。
灯台は無人で、その前に開けた空地が広がっている。眼前におだやかな瀬戸内の海が広がり、漁船、砂利運搬船、タンカーなどが行きかっていた。そこが岡山、広島、香川の三限の県境で、はるか彼方に四国の島影が霞んで見える。
真鍋島にもどる船の出航まで三時間もあるので、灯台前でユースホステルで作ってもらった弁当を広げた。春の陽射しを浴びていると気持がよく、食後、誰にも邪魔されずに『獄門島』を読む。
ここ〝獄門島〟は平和すぎて、小説のような陰惨な印象はまったくなく、そのうちに強烈な眠気が襲ってきた。

(了)

〔おすすめモデルコース〕

四、五日の余裕があれば、一気にまわってしまうのもおもしろい。例えば、こんなコースを組んでみたらどうだろうか。
(―JR =車 ~航路 …徒歩)

①岡山―津山(津山城跡・衆楽園・武家屋敷など観光)ー美作加茂(泊)

②美作加茂―津山(乗り換え)ー新見(乗り換え)―井倉=(バス40分) =満奇洞=(バス40分) 井倉洞…井倉―備中高梁(市内見物・泊)

③備中高梁=(バス30分)=成羽=(タクシー30分)=広兼邸=吹屋(ベンガラの古い町並み)…西江邸=(バス30分)=成羽=(バス)=備中高梁―総社(泊)

④総社…(自転車15分)…横溝正史旧宅…(自転車)…総社―清音=(バス30分)=矢掛(川辺の隣の旧宿場町・本陣や脇本陣を見学)=(バス40分) =笠岡~ (船50分)~真鍋島(泊)

⑤真鍋島~(船20分)~六島~真鍋島~笠岡―岡山

時間の余裕がさらにあれば、あとは倉敷も組み込めるし、下津井港へ出て、悪霊島(架空)を見るのもいい。瀬戸大橋から見下ろすのも楽しそうだ。
なお、『悪魔の手毬唄』の鬼首村は、地図上で調べても、その位置にそれらしき村は見つからないので、八つ墓村を見て想像するのがいいだろう。


書面には、折原一さん撮影の写真もふんだんに掲載されています。

【出典】『鮎川哲也と十三の謎 '90』(東京創元社、1990年12月)※現在は異なる場合がありますが、各情報は当時のまま掲載させていただきました。

■ ■ ■

『六つ首村』好評発売中です

■あらすじ

さあ、復讐劇場の始まり、始まり。
奇才・折原一が横溝正史に捧ぐ、渾身のダーク・サスペンス。
フリーライター・笹村克哉のもとに、義理の姉と名乗る女がやってきた。曰く、笹村は北関東の奥地に佇む六つ首村の名家・白兼家の後継者候補であり、30年前に起きた「六つ首村連続殺人事件」を生き延びた張本人だという。連続殺人事件の犯人・六彦はどこに消えた? 引きこもりの現当主・夢男は何者? 自分の本当の父親は誰なのか? 六つ首村を訪れた笹村は白兼家の秘密を探りはじめ、並行して恐るべき殺人計画が進行する。 連続殺人事件の再現ドラマをめぐって、さまざまな人間たちの思惑が絡み合い――。三転四転のクライマックスの先に明かされる、衝撃の真相とは!?
密室あり、瞬間移動あり。折原ワールドの快感に酔いしれる仕掛け尽くしの超大作!

■書籍情報

『六つ首村』
著者:折原 一
装画:楢 喜八
装丁:坂野公一(welle design)
発売:光⽂社
発売⽇:2025年11月19⽇(水)
※流通状況により⼀部地域では発売⽇が前後します
定価:2,750円(税込み)
版型:四六判ハードカバー

■著者プロフィール

折原 一(おりはら・いち)
埼玉県生まれ。早稲田大学文学部卒。
1988年、『五つの棺』(のちに『七つの棺』として文庫化)でデビュー。
同年、『倒錯のロンド』で江戸川乱歩賞候補に。
’95年、『沈黙の教室』第48回日本推理作家協会賞(長編部門)受賞。
2018年、『異人たちの館』が本屋大賞発掘部門の「超発掘本」に選ばれる。
近著に『ポストカプセル』『傍聴者』『グッドナイト』など。

・著者ホームページ 「沈黙の部屋」


いいなと思ったら応援しよう!

光文社 文芸/文庫編集部|kobunsha いただいたサポートは、新しい記事作りのために使用させていただきます!