見出し画像

花言葉vsカクテル言葉(カタパルト山梨)

思いを伝える方法は、人によって違う。
話す人、描く人、書く人。
そして私は、だいたい言い損ねる人である。


今日の弁当

- 花シュウマイ
- ししとうの煮浸し
- パプリカのマリネ
- ゆで卵の麹漬け

花シュウマイは以前のんのさんに教えて頂いたレシピを元に作ってみた、ちゃんとレシピを見たはずだが、記事のように綺麗な花にならない。 原因は分かっている。具が多すぎる。

食い意地を張りすぎた。


花言葉vsカクテル言葉


昔から、口で何かを伝えるのが得意ではなかった。

言いたいことはある。むしろ、ありすぎる。頭の中では常に何かが喋っている。脳内の会議室では各部署が勝手に議事録を作っている。ところが、口から出そうとした瞬間、全部が渋滞する。

だから私は、学生時代に絵の勉強をしていた。

勉強で勝てるわけでもない。人と上手く話せるわけでもない。言葉以外のものに頼るしかないと思っていた。絵なら、黙っていても何かが伝わるかもしれない。線や色なら、口ごもらないかもしれない。そう考えていた。

ところが人生は、こちらの進路希望をあまり読んでくれない。

働きはじめてしばらくすると、私はなぜか管理職になった。二十代前半である。人の仕事の進捗を確認する側になってしまった。以来、十年以上、私は誰よりもコミュニケーションが必要な仕事をしている。

人生、バグである。
それでも十年以上どうにかやれているので、社交性は身についている。ただ、喋るのが得意かと言われると、やはり違う。

最近noteを始めて、文章を読んでもらう機会が増えた。もしかしたら私は文章のほうが向いているのではないか、と思うことがある。

ただし、ここで一つ問題がある。
私のnoteは、主にスマホの音声入力で書いている。つまり、喋っている。

じゃあ喋るのと変わらないじゃないか。私は口下手を、スマホのマイクという税関を通して密輸しているだけなのではないか。

そんなことを、ゴールデン街で友人のM君と飲んでいるときに考えていた。


ほぼ遊戯王

ちなみに私は下戸である。ゴールデン街という単語のせいで酒飲みだと思われているかもしれないが、だいたいウーロン茶を両手で持っている。おばあちゃんの家に来た孫である。それでもスナックはありがたい。酒ではなく、空気を少しずつ飲ませてもらっている。

その夜、M君とカクテル言葉の話になった。

私はカクテル言葉と聞くと、バーでグラスをカーリングみたいに滑らせて、「あちらのお客様からです」と言うシーンを連想してしまう。下手をすると、相手の手前でグラスが横転し、オレンジ色の池と気まずさだけが残る。なぜそんな流通経路を採用するのか。

しかし調べてみると、カクテル言葉は、口下手な人が気持ちを伝えるためのものでもあるらしい。ナンパの手段だと思っていたが、実は逆だったのかもしれない。

似ているもので、花にも花言葉がある。
花を渡す。酒を差し出す。言えないことを、別のものに言わせる。人間は昔から、気持ちを何かに託してきたらしい。

ただ、厄介なことに、花言葉にもカクテル言葉にも、ネガティブな意味が混ざっている。誰がロマンチックな文化の中に、急に地雷原を設置したのか。

スクリュードライバー、
「あなたに心を奪われた」。
それを差し出されたら、ゼラニウムで返す。
「あなたの愛を信じない」。

言葉が強い。ゼラニウムという名前も、そこはかとなく身体に悪そうで怖い。

さらにスノードロップには、「あなたの死を望みます」という意味もあるらしい。

死刑宣告である。もはや上品なケンシロウだ。お互いのライフポイントがゼロになり、マスターだけが静かにグラスを拭いている。

こんな馬鹿なカードバトルを考案している時点で、私はウィットのある大人にはなれていない。洗練された大人はもっと自然に使うと思う。

私にはそれができない。
だから、別のものに託す。


カタパルト山梨

五月、私は実際に、何かに気持ちを託す必要に迫られていた。

五月はかなり忙しかった。平日は出張、土日は山か文学フリマかZINEフェスで、珍しく予定が埋まっていた。そのせいで、noteで交流させていただいていた方と会う約束を、半月以上も待たせてしまった。

何かお詫びと日頃の感謝で、お土産でも買っていけたらいいなと思いながら、私は友人たちと山梨の大菩薩峠に登った。

なだらかでやわらかい山だった。風が吹くたび、山全体が小さく返事をしているようだった。遠くの稜線は、水に溶いた墨みたいに淡かった。

途中で、下向きに咲く小さな花を見つけた。
ベルのような形で、薄い花びらに模様が入っている。こちらを向いて「見てください」と言ってくる花ではない。少しうつむいて、風が吹くたびに、誰かの小声みたいに揺れていた。

しかしその時点では、名前も分からずに、
ただ、通り過ぎた。

ここまでは最高の登山だった。登りまでは。

帰り道、突然友人が「時間ギリギリだけど、バスが来る前にふもとまで下って、ほうとうを食べたい」と言い出した。

エクストリームほうとうである。

結果、私たちは全力で走ってふもとまで下山した。下山というより、高速で山梨から射出されている気分だった。あとで登山ログアプリを見たら、下りのペースが三〇〇%になっていた。エヴァの暴走でしか見たことがない数値である。 理論値を超えている。

ふもとに着くと、早すぎて時間が余り土産物屋を覗いた。山Tシャツ、タペストリー、謎の木彫り。どれも悪くはないが、これをもらって相手がどうするのかを考えると、少し難しかった。

その中に、たくさんの種類の花の刺繍が入った缶バッジがあった。この山で咲く花達らしい。

そこで行きで見かけた花を見つけた。
名前は、サラサドウダン。

そして私は、その花言葉を知っていた。花言葉とカクテル言葉のカードバトルで、馬鹿みたいに調べていたからである。

無駄に調べたものは、だいたい変な場所で役に立つ。エクセルのショートカットキーも、示現流も、スクリュードライバーのカクテル言葉も、いつか突然カバンの底から出てくる。

私はそれを買った。山で拾った小さな縁を、そのまま手渡してみたくなったのである。

次の週末、その方に会った。
お土産です、と渡した。もっと気の利いたものはいくらでもあったと思う。冷静に考えると、缶バッジなどもらっても困る可能性のほうが高い。しかも山梨から三〇〇%の速度で射出された人間が買ってきた花である。由緒があるようで、ない。

そのあと喫茶店に入って話した。
楽しかった。気づけば時間が過ぎていた。たぶん、自分の話ばかりしていた。話すのが苦手なはずなのに、楽しくなると急に喋る。

帰り道、私はちゃんと日頃の感謝を伝えられていたかと心配になる。

いつも読んでくれてありがとうございます。会えて嬉しかったです。あなたの文章やコメントにこちらは何度も励まされています。

そういうことを、ちゃんと伝えていたか。
大げさな何かではなく、文章を通して受け取ってきたものに、いただいてばかりの私なりに返事をしたかっただけである。なのに肝心な場面になると、急に日本語のログインパスワードを忘れる。

けれど、言えなかったことにも、思いがけない返事がある。その方から、帰りに手紙をいただいた。

家に帰って読んだ。静かな言葉だった。派手ではないのに、読んでいると少しずつ胸の内側があたたかくなるような手紙だった。その人はnoteの中でも、誰かの文章に丁寧に反応し、悩んでいる人にはやさしい声をかけていた。

私はそのとき、やっぱりサラサドウダンのような人だったな、と思った。

下を向いて咲いているのに、そこに確かに明るさがある。控えめなのに、ちゃんと届く。大きな声ではないのに、あとから残る。

缶バッジなど、もらっても困るだけかもしれない。花言葉なんて、結局こちらの自己満足なのかもしれない。それでも私は、自分の選択眼は間違っていなかったような気がして、妙に嬉しかった。

たぶんこれからも、肝心な場面で上手く言えない。
その代わり、文章を書いたり、奇妙な土産を選んだり、花の名前をあとから調べたりしながら、どうにか伝えようとするのだと思う。

喋れる人は、喋ればいい。
花に託す人がいてもいい。
カクテルに託す人がいてもいい。

私はたぶん、またウーロン茶を飲みながら、
スマホに向かって喋る。
そしてそれを、文章だと言い張る。



※弁当とエッセイをまとめた「弁当記録」というマガジンがあります。
今回の文章が気に入った方は、自己紹介と合わせてのぞいていただけたらうれしいです。

自己紹介エッセイ

マガジン|弁当記録

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集