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へー、が嫌いだった


チェシャ猫のモデルをご存知だろうか。ブリティッシュ・ショートヘアというネコだ。ふてぶてしい愛嬌のある丸顔に鋭い視線。優雅に寝そべっている。

あの猫の画像を見た時、彼にしか見えなかった。笑

憎たらしいくらいに、自由。


本社に異動して初日から、私の先輩である、むー君の席はからっぽだった。とにかく、休みが多かった。当時、初めての部署に異動してきた私と課長は、職場で心細くぽつんと手持無沙汰のままだった。
新採2年目の子が、3日目にしてやきもきのあまり段取りを組んでくれた。


本社勤務一年目の私は緊張でガチガチだった。たぶん、歩くとき、右手と右足が同時に出ていた。
一方の、むー君と言えば。
外回りのたび、道草した。イオンモールで昼寝。「ここまできたら観光だよ」とショッピングモールでソフトクリームを買ってきた。魚介系つけ麺大盛りをがつがつ食べたあと、私に運転を任せて寝ていた。
たぶん外回りで、欲求を爆発させていた。


でも、猫を思わせるゆるキャラなんかでは、なかった。
私が仕事でミスすると、すかさず突いてきた。嫌な相手だった。
寝るから、と運転を任せられた私は、彼の指示された場所と違うところに到着したことがわかった時には、本当に時間を巻き戻したくなった。
やっちまった。またバカにされる。
首をすくめて耳を閉じたくなった。
そしたら彼は「俺がちゃんと指示しなかったから」。
あっさり引いた。
詰められたら私がつぶれる、そのギリギリで引く。チェシャ猫みたいなずるさだった。


そんなずるい人が本気で仕掛けてきたら、私なんかひとたまりもなかったのかもしれない。

ある時、彼と県外出張することになった。視察という名の、ふってわいた話だった。車で、片道3時間。

「俺が運転するからいいよ、だから行こ」
いつも仕事の場面では背後に回りがちな彼が、急に乗り気になった。
「ドライブデートだ」
うきうきしてる。テキトーな男だ。


その日の朝だった。運転席の彼がぼそっと言った。
「うれしくて一睡もできなかった」
冗談か。私はそんな人に命を預けたくないと思った。
何言ってんですかぁと笑おうとして、隣を見たら彼は真顔だった。真剣な目が少し座っていた。

3時間、話題は尽きなかった。
奥さんが夕飯を作ってくれない話。帰ったらスーパーで買ったとんかつが冷えたまま、半分残っていた話。自慢の息子が彼女へのプレゼントを奥さんとデパートに買いに行った話。大学時代の寒々しい寮で、鼻毛が凍った話。
あんまり笑って、頬の筋肉がだるくて重く感じるくらいだった。

何なんだ。楽しいぞ。
こっそり思ってたら、目的地に到着した。


漁港が近かった。
「この店行きたかったんだ」あらかじめ、彼が調べてくれていた店。二人で海鮮丼のデカ盛りを食べた。彼が「母ちゃん御膳」を頼んだから、私は「父ちゃん御膳」を頼んだ。何となくゾワゾワする気持ちをよそに、いくらとほたてが、口の中でとろけた。その瞬間だけ、嫌なくらい現実味があった。


帰り道、高速道路を走っていた。もうすっかり日が暮れていた。
目の前に標識が白く光った。新潟と東京。

「このまま、新潟行っちゃう?」にやっと振り返って、彼は言った。

私はただ、声を出して笑った。言葉なんか、見つからなかった。

でも、気づいてしまった。
私はあの瞬間、新潟に行きたくなってる自分を見つけて、ゾッとした。



その日、彼は「撮った施設の写真を送るからLINE教えて」と言ってきた。
平和ボケの私は、全く気付かなかったが、そんな写真はメールで送れば十分、用は足せたはずだった。
あの日計画的にLINEをゲットした彼の、このLINEこそが、私と彼をつなぐ7年間の細い糸になるなんて、その時は、思いもしなかった。



最初の4年は会っていた。続く4年は、LINEだけだった。
そんな関係なんて、現実にどれくらいあるんだろうか。

最後に会ったとき、約束した。

「LINEは続けていていいよね。LINEだけは、ずっとつながっていようね」

それは、新たな始まりだったのかもしれない。私自身、本当は納得なんか一滴だって、してなかった。
そんな会話を、電車の改札を出た時に、慌ただしくLINEで交わした。階段を上り下りするたくさんの頭が、揺れていた。無表情な何の感情もわかない風景。
ただ、画面をすべる文字を、見つめた。言い出したら聞かない彼の、強情な横顔を思い出した。
私は素直に「うん」と返した。

せめて、LINEだけでもいいから、一緒にいる空気を共有しようとしてた。
職場でのささいな出来事、家庭でのもやっとした会話、できれば気持ちが元気になるような出来事。できるだけ相手の体力を奪わない書き方を心がけた。会話を続かせたくて、スタンプを入れないようにした。当時はスタンプは会話終了の合図と、彼が早合点している雰囲気がしたから。


ある日、彼は「資格勉強したいからしばらく2か月くらい、LINEはリアルタイムでは返信できないと思う」と言ってきた。
胸が、きゅうっとした。
ドキドキした。
私は、手帳のカレンダーを見つめた。何度もスマホの画面とカレンダーと、見比べた。そして、1、2、3・・・日にちを数えてみた。目に、涙が浮かんだ。私には、どうすることもできなかった。
素直に「うん」と返した。

指折り数えて待った。でも3か月たっても、彼がリアルタイムに戻ってくることは、なかった。1日のチャットは、徐々に、「おはよう」と「おやすみ」で、埋め尽くされていった。


土日の午前中は、ねらい目だった。彼が起きてる時間を見計らって、言葉を選んで、楽しげに話しかけた。この時間を楽しみに、私は1週間がんばってきた。

待ちに待った返事は、「へー」だった。

え?それだけ?
バカにされてる?
一瞬、時間が止まった。

私の一週間、涙をのんで待った時間の結果が、「へー」で終わる?
画面の向こう側が、氷点下に感じた。

返事が「うん」から「ん」になった時、「どうして、んなの?」と聞いたことが昔、あった。
あの頃は聞けた。

今は。

布団の中で、見上げた天井が白くて無表情だった。私の味方はこの世に一人も、いない。

ええい。
勢いで、「ほー」って言ってみた。
一瞬の沈黙後、「笑」が返ってきた。
そこから始まった「へーほー」ラリー。
でも、1か月で飽きた。
私が、飽きたから。



こんなラリーなんか、したかったわけじゃないんだ。

今思えば、「へー」が嫌だったんじゃない。
私が一週間かけて集めた小さな出来事を、誰かに、聞いてもらいたかった。そっとその時の気持ちごと、見つけてもらいたかっただけだった。

頑張ったこと。面白かったこと。今日こんなことがあったよ、って伝えたかったこと。少しだけ成長できたこと。



手すら握ることも、もう、叶わない。
それなら、せめて言葉で。
言葉に温度を乗せて。

それを、受け取ってほしかった。「へー」以外の言葉で。


消えそうな温度の予感の中、無言のLINEの代わりに、私はブログを書き始めた。



この記事は3部作の2本目です。1本目はこちら↓


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