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気づけば、ずっと湧水を追っていた―― #湧き水LOVEの会 爆誕!

ボトルを背負い、アイゼンを装着して大和水原水(埼玉)へ
雪の里山トレッキング

湧水へ向かう道。
季節や理由は違っても、足はいつも同じ方向へ向いていた。


湧水を汲む。
山に入り、水を探し、
一本のボトルに水を汲み、一口飲んで帰る。
自然と戯れる時間のなかで、いつの間にか湧水が軸になっていた。


ただ水を汲んでいただけだった

最初から、湧水に特別な意味を見出していたわけではない。
登山やサイクリングの途中、
たまたま水があったから汲んだ。
喉が渇いていたから飲んだ。

冷たくて、うまい。
それだけだった。

ただ、不思議と
次に山へ行くときも、
また水のある場所を選んでいた。


湧水は、目的ではなかった

湧水はゴールではない。
名所でも、収集対象でもない。

それでも、
どの尾根を歩くか
どの林道を下るか
どこで一息つくか

判断のどこかに、いつも水があった。

振り返ってみると、
湧水は「目的」ではなく、
行動を静かに束ねてくれる軸のような存在だった。


水のある場所には、人の時間が溜まっている

湧水のそばには、だいたい何かがある。
石碑、祠、地蔵、簡単な囲い。

信仰という言葉を使うほど大げさなものではない。
ただ、人が何度も立ち止まり、
水を汲み、生活を営んできた痕跡だ。

水は流れるが、
水のある場所には時間が溜まる。


湧水とは何か

湧水とは、
雨や雪が地中に浸透し、地層や岩盤によって自然に地表へ現れた水のことだ。

人が掘り当てたものではない。
ポンプで汲み上げたものでもない。
地形と時間が決めた場所に、ただ現れる。

川の水が地下に染み込んで再び流れる伏流水も、
その出口が地表に開けば湧水になる。
井戸水と水質が似ていても、成り立ちはまったく違う。

「名水」という呼び名は評価や文化の言葉であって、
湧き水そのものの条件ではない。
有名でなくても、
看板があってもなくても、
生活のすぐそばにあっても、
自然に湧き出しているなら、それは湧水だ。

湧き水は、自然が用意した出口であり、
人が管理する以前から、そこにあり続けてきた存在だ。

だから湧水の前に立つと、
水だけでなく、
その場所に積み重なった時間も一緒に汲んでいる気にさせてくれる。


湧水と歩いてきた時間

ここからは、記録として残しておきたい。
ほんのごく一部だが、確かに通ってきた湧水たちだ。


【埼玉県】児玉/寄居/奥武蔵/ときがわ/長瀞/小川/小鹿野

・ごっくん水(本庄市児玉町|あじさいの小路)

”あじさいの小路”の石碑

ごっくん水
「節度ある水汲みを」。この水が守られてきた証拠でもある。

"ごっくん水"入口

林道・小平線、「あじさいの小路」沿い。
道路から少し下ったところに、採水口がひとつある。

歴史を感じる

ここは“自然に放置された湧水”というより、
人が使い続けてきたからこそ、注意書きや看板が増えていった場所だ。

採水口は一つ。
大量に汲むというよりは、
自力で持って帰れる分だけ汲み、
その場で「ごっくん」と飲んでいくのにちょうどいい場所だ。

採水口
水量は多め

名前の由来も、たぶんそれで十分だと思う。
走ってきた身体に、迷いなく入ってくる。
冷たくて、雑味がなく、もう一口飲みたくなる。

そして、看板の言葉を見て、少し背筋が伸びる。
この水は、誰かが守ってきた水だ。

・日本水 原水(大里郡寄居町)

日本水原水 入口
大和水 原水
水量は多くない

日本水原水
水と祈りが、生活の一部として重なってきた場所。

日本武尊由来の地とされている
落石に注意

奥秩父の山中。
祠と石碑が密集する湧水。

ここで初めて、
「水は自然資源である前に、文化なのだ」と腑に落ちた。

・白石峠の湧水(比企郡/奥武蔵)

白石峠の湧水
峠を越え、水を汲み、また走る。

自転車で峠を越え、湧水を汲む。
この頃から「湧水ハンター」という言葉を使い始めた。

リュックを背負い、ロードバイクで赴き、湧水を汲む
白石峠の湧水
特に看板などはない

湧水が、
ルート設計の一部になった瞬間だ。

・松郷峠の水/若水(比企郡ときがわ町)

サイクリングのメッカ、白石峠。
小川町からときがわ町へのアクセスに超えなければならないのが、松郷峠。

松郷峠の水

ここで水を汲むのは、もはやルーティーン。
白石峠にチャレンジするための「力水」とも言うべき湧水だった。

・不動の水/間瀬長命水(秩父郡長瀞町)

サイクリング中、水分補給に必ず立ち寄っていた湧水。

不動の水

「長命の水」という名の通り、飲むと長生きすると言い伝えられている。
サイクリングで疲れた体を冷たい水で癒すと、身も心も回復を促される。

水量は少なめだが、枯れたことはない

あとどれだけ、長生きができるだろうか。

・栗山の延命水(比企郡小川町)

ハイキングやサイクリング
笠山の入口にあるこの湧水を必ず汲んでいた。

栗山の延命水
笠山峠への入口でもある

向かって左側の2本の採水口が、濾過無し。
右側の1本がいったんタンクに汲み上げられ濾過されている。
ここで汲んだ水を山で沸かし、コーヒーを淹れるのが習慣になっていた。

・毘沙門水(秩父郡小鹿野町)

秩父に4つあるダムのうちの1つ、「合角ダム」の上流、小鹿野町の白石山(別名:毘沙門山)山腹から湧き出る水で、「平成の名水百選」のうちの1つ。

この日もロードバイクで訪れ、約60リットルを汲んだ。

毘沙門水

・・・汲みすぎた。
だが湧水が「その場で飲む水」から
暮らしの水に変わった転換点。
この水で飲んだ秩父蒸留所のウィスキー「イチローズモルト」は
一生忘れることがないだろう。


埼玉編・まとめ

―― 水が、身体と生活に近づいていく

埼玉の湧水は、
山深い信仰の水から始まり、
次第に身体と生活へと近づいていく。

  • ごっくん水は、
     名前よりも先に身体が反応する、実感の水だった。

  • 日本水原水は、
     水と祈りが重なり合った文化の原点だった。

  • 白石峠の湧水は、
     行動の途中に組み込まれた、走るための水だった。

  • 松郷峠の水は、
     チャレンジする全ての人への、まさに力水だった。

  • 不動の水は、
     心身を癒し、生きることを実感する水だった。

  • 栗山の延命水は、
     山へ入る前の、ルーティーンとして組み込まれていた。

  • 毘沙門水は、
     汲み、持ち帰り、使うことで、
     湧水が暮らしの一部へと変わった場所だった。

埼玉の水は、
特別視されることを求めない。

ただ、
飲み、動き、使うなかで、
自然と生活に入り込んでくる。

湧水が「日常に降りてくる」過程が
ここにはある。


【東京都】奥多摩

・雲取山の湧水/くもとり沢やか水(東京都 奥多摩町)

くもとり沢やか水

雲取山荘に近接する湧水
山頂よりも、強く記憶に残る場所。

真冬でも凍ることがない

長い行程の途中で出会う水。
「生き返る」という感覚が、はっきりあった。


東京編・まとめ

―― 行程の中にある、一本の水

東京の湧水は、多くを語らない。

雲取山で出会った水は、
目的地でも、名所でもなかった。

ただ、
長い行程の途中にあり、
身体が限界に近づいたとき、
確実に力を戻してくれる水だった。

東京という都市の名とは裏腹に、
ここでは水は静かで、必要最小限だ。

  • 立ち止まる

  • 飲む

  • そして、また歩き出す

その繰り返しの中で、
水は「意味」を主張しない。

だが、
この水がなければ、
行程そのものが成り立たなかったことも、
また事実だ。

東京編の水は、
行程を成立させるための、一本の線のような存在だった。


【神奈川県】厚木/秦野/伊勢原/南足柄/山北

―― 水が、身体から信仰へと変わっていく

神奈川の水は、
ただ喉を潤すだけの存在ではない。

歩く身体を支え、
生活に入り込み、
やがて信仰の中に収まっていく。

その変化のグラデーションが、
この土地の湧水の特徴だ。

・二ノ足湧水(厚木市七沢|二の足林道)

二の足湧水
清らかで美しい湧水

二ノ足林道の湧水
「また歩ける」と実感した水。

厚木市七沢
林道 二の足線
七沢川

大事故と度重なる手術を経て、
再び山に戻ったとき、
最初に立ち止まった水だった。

一心不乱に水を汲む

達成感はない。
ただ、「戻ってきた」という感覚だけがあった。

この水は、
身体が山に馴染み直すための水だった。

・春嶽湧水(秦野市)

春嶽湧水

春嶽湧水
言わずと知れた秦野の名水であり、日常の水。

この銘板の存在を知るものは意外と少ない

街のすぐ近くにあり、
生活動線の中に溶け込んだ湧水。

美しい湧水

秦野が「名水のまち」と呼ばれる理由が、
説明なしで伝わる場所だ。

・護摩屋敷の水(秦野市)

護摩屋敷の水

護摩屋敷の水
山と人をつなぐ水。

ヤビツ峠直下にある湧水。
大山丹沢山系の経由地でもある場所。
汲む人は登山者、サイクリスト、参拝者、地域住人と多用だ。

ヤビツ峠

それぞれ目的は違っても、
ここでは皆、同じように水を汲む。

山行やサイクリングの給水、生活の水
汲む人の目的は多様だ

湧水が、
人と山の関係を支えてきたことがよく分かる。

・神明水(南足柄市・明神ヶ岳 登山道途中)

神明水
看板がなければ見逃してしまうだろう

神明水
歩く者を迎え入れる、神聖な水。

水量は少な目だが、確かに湧いている

神明水は、
南足柄市にある明神ヶ岳の登山道途中に湧く名水だ。
水量は少ないが、一年を通して涸れることがない。

ボトルの先を岩の間に入れて汲む

冷たく、雑味がなく、
歩いてきた身体にすっと染み込む。

明神ヶ岳の神聖な場所から湧く水として信仰を集め、
不老長寿の泉としても親しまれてきた。

ここでは、
水は「休憩のための資源」であると同時に、
山に迎え入れられるための水でもある。

・大山名水/大山阿夫利神社の御神泉(伊勢原市・大山)

大山阿夫利神社

大山阿夫利神社の御神泉「大山名水」。
神社についての解説は不要だろう。
山そのものが、水を宿している。

大山名水

「阿夫利(あふり)」という名が示す通り、
大山は雨と水の山だ。

登拝の歴史、雨乞いの信仰、
麓の暮らし。

安全登山を誓う

この御神水は、
自然・信仰・生活が重なり合った象徴として存在している。

・洒水の滝の湧水(足柄上郡 山北町)

洒水の滝

洒水の滝
水そのものが、祈りになる場所。

洒水の滝 水汲み場

丹沢の裾野にある三段の滝。
「日本の滝百選」「名水百選」にも選ばれている。

ここでは、
水は飲むものではない。
見上げ、受け止め、清められるものだ。

水量がとても多い

水が信仰へと完全に昇華した姿が、
ここにある。


神奈川編・まとめ

神奈川の湧水は、
役割を変えながら連なっている。

  • 七沢の水は 身体を戻す水

  • 秦野の水は 生活を支える水

  • 南足柄の水は 歩く者を迎える水

  • 大山の水は 信仰を宿す水

  • 山北の水は 祈りそのものになった水

同じ水でも、
立つ場所が変われば意味が変わる。

その変化を受け止めてきた土地だからこそ、
神奈川の水は、
静かだが厚みがある。


湧水は、生活の中に入ってくる

ご飯を炊く

七沢の棚田で収穫した”はるみ”
七沢の湧水で七沢の米を炊く
極上の米が炊き上がる
たとえ気のせいであっても構わない

湧水で氷を作り、ウィスキーをロックで飲む。

湧水の氷とウィスキーのロック
柔らかな口当たりがスモーキーな香りを包み込む

コーヒーを淹れる。

山で淹れるコーヒーは現地の湧水を使うのが流儀
例えば、秦野の山に登るときは、秦野の湧水を使う

特別な味になるわけではない。
ただ、余計なものがない。

それが、いちばん長く続いている理由かもしれない。


#湧き水LOVEの会 、爆誕。

ある日、ふと気づいた。

登山も、
サイクリングも、
里山も、
生活も。

すべて湧水を中心に回っていた。

ならば、もう認めてしまおう。

これは趣味ではない。
偶然でもない。

生き方だ。

名前がなかっただけで、
ずっと続いていた行為に、
いまさらだが、名前をつける。

#湧き水LOVEの会

誰かが旗を振る会ではない。
集会も、ルールも、義務もない。

ただ、
それぞれの場所で、
それぞれの湧水を大切にしていく。

その営みが、
静かに、けれど確かに、
つながっていけばいい。

よかったら、#湧き水LOVEの会 のハッシュタグをつけて、
あなたの湧水の話も、そっと教えてください。


ナウル屋 秦野名水出張所と「丹沢湧水ハンター駅伝」構想

2025年11月、イオン秦野ショッピングセンター内で開催された「秦野メダカCrossFesta」に、
ナウル共和国政府観光局による「ナウル屋 秦野名水出張所」が初めて登場。

この出張所は、地域の名水をテーマにした情報発信や公式グッズの紹介を行い、
“湧水”という地域文化と世界の小さな国をつなぐ新しい試みとして注目された。

この動きは、単なる観光プロモーションにとどまらない。
名水のまち・秦野で芽生えた“水の価値を共有する文化”は、
やがて「丹沢湧水ハンター駅伝」という構想へとつながっている。

この駅伝は、
丹沢の湧水スポットをつなぎ、
走ったり歩いたりしながら水と向き合う体験を共有する企画。
競技性でもショーでもなく、
地域の名水を知り、楽しみ、次の人へつなぐことを目的にしている。

ナウル屋の出張所のように、
外と内をつなぐ架け橋としての「湧水」――
この小さな水の物語は、
やがて人の輪へと広がっていくはずだ。


#湧き水LOVEの会 憲章

  • 湧水を敬うこと

  • 必要以上に汲まないこと

  • 汲むことが目的にならないこと

  • 生活につなげること

  • 「わかる」と思った(共鳴する)人が、静かに来ればいい


夕暮れの大山と田園風景

気づけば、ずっと湧水を追っていた。


終わりに

―― 湧水を汲むということ

湧水を汲む。
山に入り、水を探し、一口飲んで帰る。

それだけの行為が、
いつの間にか、行き先を決め、歩き方を変え、
生活の中にまで入り込んでいた。

埼玉では、
水は文化から始まり、身体を通って、暮らしへと降りてきた。

東京では、
水は行程の途中にあり、
歩き続けるための一本の線になっていた。

神奈川では、
水は身体を迎え、生活を支え、
やがて信仰や祈りのかたちを帯びていった。

どの場所でも、
湧水は主張しない。
ただ、そこにあり、必要な分だけ人に渡される。

自然と戯れる時間のなかで、
特別な目的があったわけではない。
集めようとしたわけでもない。

それでも振り返れば、
判断の軸には、いつも水があった。

湧水とは、
自然が用意した出口であり、
人の営みが重なってきた場所だ。

だから今日も、
湧水を汲む。
目の前の生活に必要な分だけボトルに入れ、
一口飲んで、また帰る。

その繰り返しの中で、
気づけば、ずっと湧水を追っていた。

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