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関心の変化① 格差・貧困・分断・排除

このnoteは、私はどのような問題に関心を持ってきたのかを思い出すための回想録・備忘録です。自分の関心がどう変化してきたのかを振り返り、いま自分は何をなすべきかを考える手掛かりにしたいと思っています。

「格差」への問題意識

大学2年生の頃、私は教育格差や格差社会について関心がありました。そして、答えの出ない問いに沢山ぶつかっていました。

例えば、「自分は高校を卒業したら家業を継ぐんだ」と言っている子どもに大学進学を勧めるべきなのか、大学を知らずに大人になっても幸せならそれで良いのではないか、といったものです。「その人なりの幸せ」や「自己肯定感」といった言葉と向き合うと、「『足るを知る精神』があれば格差に関係なく幸せになれるのではないか」という疑問も浮かんできます。

一見筋の通っているように見える「足るを知ることで幸せになれる」という理屈ですが、これは格差を容認する危険な論理になり得るということには注意しなければなりません。

2019年10月、萩生田文部科学大臣(当時)が、大学入学共通テストに導入される英語の民間試験をめぐって「身の丈に合わせて頑張ってもらえれば」などと発言したことが問題となりました(いわゆる「身の丈発言問題」)。

英語の民間試験はそれなりに高額ですから、経済的に恵まれていない家庭では試験に挑戦できる回数は限られます。また、民間試験の試験会場は中規模以上の都市に集中していますから、離島や山村地域に住む受験生は試験を受ける金銭的・時間的負担が大きくなります。

英語の民間試験を共通テストに導入することでこのような格差が拡大すると予見されていたのに対し、当時の文部科学大臣が格差を容認するような発言をしたということで批判を集めました。

しかしながら、萩生田氏の発言には理解できなくはない点があります。以下が萩生田氏の発言です。

それ言ったら、あいつ予備校通っててずるいよな、というのと同じだと思う。
裕福な家庭の子が回数受けてウォーミングアップができるみたいなことがもしかしたらあるのかもしれないけれど、そこは自分の私は身の丈に合わせて2回をきちんと選んで勝負してがんばってもらえば。

朝日新聞デジタル 写真・図版「萩生田文科相の発言」
2023年9月12日取得 https://www.asahi.com/articles/photo/AS20191028004090.html

確かに、塾・予備校に通っていない子どもが「友達は予備校に通っていてずるい」と口にするのは、地域にもよりますが割とよくある光景だと思いますし、それでいえば「予備校に通っていてずるい」と「何回も英検に挑戦できてずるい」は構造的に似ているようにも見えます。しかし、実際にはこの発言をきっかけに反対の世論が過熱し、英語民間試験の導入は延期されるに至りました。

私なりにこの発言の問題点を少し考えてみました。

  • 家庭や地域、環境によって差があるのはある種当然なので一旦置いておくとして、その差の影響が大きくなるようなことして格差が拡大してしまうのはどうなのか

  • このような導入に伴って発生し得る悪影響に無頓着すぎやしないか

  • 何より文科相がこんなことを言うのは政治家としての資質に欠けるのではないか

ざっとこんな感じでしょうか。今回のnoteの本筋ではないのでこんなところにしておこうと思います。

さて、「予備校に通うことができる/できない」は解消すべき格差だと言うのであれば、格差是正のためにすべての子どもに予備校に通う権利を保障しなければならなくなるのでしょうか。あるいは、逆にすべての予備校を閉業させればよいのかもしれませんが、どちらにせよ実現可能性の低いアイデアと言わざるを得ません。

このように格差の問題の解決法を考えていると、
「格差を無くすことは不可能ではないか」
「格差を無くすことが不可能ならば、どの程度の格差なら許容されるのか」
「そもそもなぜ格差を無くさなければならないのか」
といった難解な問いが次々と浮かんでくるわけです。

ですが、これらの問いのヒントもいくつか発見することができました。

「そもそもなぜ格差を無くさなければならないのか」に関して言えば、経済的な平等は、それ自体としては、とくに道徳的に重要なものではない、という議論が存在します。これは、仮に全人類が最低限「幸せ」な状態を確保できているのであれば、上層の人が「超超超幸せ」であっても、つまり格差が存在していたとしてもさして問題ではないよね、というものです。

つまり、本来格差の問題点は「貧困」にあるのではないかというアイデアで、これについて詳しいWeb記事があったので以下に引用します。要点をまとめたので目を通してみてください。

所得が多いか少ないかは、それ自体では問題になりません。むしろ、生活するために十分なおカネがない人(貧者)がいれば、道徳的には、その人を救済する必要があります。こうして、道徳的に重要なことは、格差ではなく「貧困」になります。
・・・中略・・・
格差(不平等)は、「それ自体で」悪いことなのでしょうか。たとえば、二人の所得が違っていても、それぞれ生活するのに十分なおカネを持っていれば、収入の格差を是正すべきとはなりません
・・・中略・・・
しかしながら、「格差是正」か、それとも「貧困の救済」かでは、具体的な政策も変わってきます。したがって、格差(不平等)の問題を考えるためには、その根本にまで立ち返って問い直してみることも必要ではないでしょうか。

岡本裕一朗「『格差』があって、なぜ悪いのか?」ダイヤモンド・オンライン 2016.10.12 4:50
2023年9月12日取得 https://diamond.jp/articles/-/103752?page=2

しかし、他者との関係性を考慮せずに「貧困の救済」を考えることには明確な誤りがあります。「貧困」とは、自分が所属する集団の影響をもろに受ける、流動的で相対的なものだからです。

例えば、子どもが親に最新ゲームをねだるのは周りの友達がみんな最新ゲーム機を持っているのに自分だけ持っていないのが悔しいからですよね。そして最新ゲーム機を買ってもらって幸せになれたとしても、次の日周りの友達がみんなスマートフォンでソシャゲをしていたとしたら、もう最新ゲーム機に幸せは感じられません。

つまり、「貧困から脱する」というのは所有しているカネやモノが増えることの重要性もさることながら、所有物や生活レベルなどを他者と比較した際の欠乏感・剥奪感・惨めさを感じずに済むようになることにその本質があるのです。

カネやモノを人並みに持っていれば当然人並みの生活を送ることができますから、生きていて惨めな思いをしなくてよくなります。そしてこれは「そもそもなぜ格差を無くさなければならないのか」の答えにかなり近いものだろうと私は考えています。

格差の問題点としての「分断」

自分が格差の下層側にいることの惨めさ・苦しみが自分の心の中だけにとどめておけなくなり、それが様々な形を纏って外に出るようになると、格差の問題は「貧困」とは異なる様相を呈するようになります。

例えば、経済的に恵まれていない家庭の人は、経済的に恵まれている家庭の人に対して妬みや僻みの感情を抱き、芸能人や成功者、上流階級とされる人にSNSの誹謗中傷といった形で攻撃するといったことが見られます。

反対に、恵まれている人は恵まれていないの人に対して軽蔑や嘲笑の眼差しを向けるといったことが起きています。特にネット上は低学歴者やホームレス、障害者などの社会的に弱い立場にある人々への心無い声が散見されます。街中でこのような人々と遭遇した際に罵声を浴びせる人はほぼいないはずなのに、です。

このように、上と下の間、あるいはマジョリティとマイノリティ、強者と弱者の間で「分断」が生じてしまうことが「貧困」とは別の格差の問題点であると考えます。

「分断」とは、一般的には「対立する二者の合意形成がままならない状態」や「議論が平行線になるような状態」を指す言葉だと思いますが、私はそこに時間軸を導入し「二つの集団間の対立が無知→偏見→差別→暴力へと発展するプロセス」を含んだ概念として捉えたいと考えています。

簡潔に言うなら、連鎖的に差別や暴力につながる危険性が常にあることから「分断」は放置すべきではなく、それゆえに「分断」の発生源となるような「格差」は解消しなければならないということです。

一連のプロセスを「分断」と呼ぶ

また、「分断」は上と下の対立だけではなく、政治的な右と左においても存在します。ドナルド・トランプ氏が活躍していた頃のアメリカではまさに民主党支持者と自由党支持者の間の「分断」が起きており、実際に暴動が発生していました。

以上のように、格差の問題点として、また、世の中にありふれた"正義と正義のぶつかり合い"という現象を把握するものとして「分断」は鍵となる概念だと私は感じていました。

分断から発生する「排除」

その後に私が注目した概念は「排除/包摂」でした。

「社会的排除」とは、従来の「貧困」概念を拡張し、金銭的・経済的次元のみならず住宅・健康・教育・職業・近隣関係といった社会生活の多次元における参加からの疎外としてとらえようとする概念です。「排除」という概念を用いることによって、「分断」や「差別」では説明しきれなかった社会のあり様を描くことができるようになると考えました。

私が「排除/包摂」概念に面白みを感じたのは、「無意識の内にじわじわと進行する人間の悪意」を捉えることができると感じたからです。そして後に「悪意」を抱いている本人はそれを悪意だと思っていないところが難しいんだな~と気付きます。

先に述べた「身の丈発言」も排除の一環だと考えることができて、英語の民間試験を利用しにくい人々を大学入試制度から排除している・・・・・・・・・・・・・・ということができます。

恐らく、英語民間試験推進派は、田舎生まれの子どもたちを排除したくてこんなことをしているのではないです。むしろ、「グローバル社会に対応できる人材を育成しなければ!そのために4技能を測る試験を一刻も早く導入しよう!」という風に、日本の将来を本気で考えて「英語民間試験」を推進しているのだろうと思います。(まあ利権とかそういうのかもしれません。)ですが私に言わせてみれば、「悪意を抱いている本人はそれを悪意だと思っていないってこういうことだよね~」って感じです。

また、「排除」に関連して私の印象に残っているのは、安倍晋三元首相が銃撃された事件の直後にひろゆき氏が自身のYouTubeチャンネルで公開した「無敵の人を減らすために出来ることを徒然と。」という動画です。ひろゆき氏が動画後半で言っていたのは以下のような内容です。

  • 公園や駅でホームレスが追い出される様子を見ても、一般の人はそれを当然のこととして受け入れ、止めることはないだろう。

  • このような排除が繰り返され、社会は弱者を見えなくしようとしている。

  • そうなると排除された人々は社会の秩序を守る必要はないと感じ、極刑を顧みずに凶悪な犯罪やテロを起こす「無敵の人」となる。

  • だから根本の「人を排除する」という考え方を変えていく必要があるのだ。

「ひろゆきってこんなこと言えるんや~」と当時とても感動したことをよく覚えています。

アメリカ大統領選の暴動のような動的で攻撃的なイメージとは対照的に、ホームレスの排除は静的で冷淡なイメージがあります。そして、荒々しい暴動やテロというのは具体的な絵がありますが、静かに進行する「排除」にはそれがありません。排除のこうした性質については、次回に「不可視化」という章で述べたいと思っています。

簡単に振り返り

今回は「格差・貧困・分断・排除」について、私が考えてきたことを書きました。今回だけでは書ききれなかったので必ず続きを書こうと思っています。それと、今回と次回は連続するように書く予定ですが、正確な時系列順にはならないだろうことを先にお断りしておきたいと思います。

今回書いた内容は私が考えていたこととはいえ、かなり昔のことだっただけに記憶も薄く、当時の思考も粗削りであったため、今の自分の思考力で当時の記憶を再編集しながら書いたところが多少ありました(排除が面白いと感じた理由など)。ですが、格差の問題点としての貧困と分断という分析は当時のままですし、自分で言うのもあれですが今見てもなかなか面白い洞察だなと思います。

私が考えてきたことを備忘録的に書いただけのnoteですが、読んでくださった方の何かの役に立ったのであれば、これほど嬉しいことはありません。

ここまで読んでくださりありがとうございました。今回のnoteはこれでおしまいです。

ぜひ次回作にもご期待ください。

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