らりるれろ!らりるれろ!らりるれろ!【欠史八代と倭国大乱①〈タギシミミの乱〉】
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また、当記事は基本的に、日本書紀、古事記、その他参考文献を基に制作しておりますが、一部独自の解釈が入っております。あらかじめご注意ください。
この記事は『はじまりはじまり 〈日本神話から見る日本の成り立ち⑥〉』の続きとなります。
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1.ヒメタタライスズヒメ
「ここです。大王(オオキミ)。」
大王となった神倭伊波礼毘古命(カンヤマトイワレビコノミコト)は弟磯城(オトシキ)に連れられてとある山を訪れていました。
「……神聖なる気の、なんと満ち満ちたることよ。」
「わ、分かりますか?」
鮮やかな三角形を描くその山を見上げたとき、イワレビコは心が澄み渡る感覚を覚えました。戦乱の痕が残ったままの心が、この山を見るだけで穏やかになっていくようでした。
「遥か昔、大国主神が、ここに大物主と呼ばれる神を祀ったのです。その時、頂上から光が放たれ、この国にある影という影を照らしたとか。」
「ほう。」
「磯城を治める者は代々、そうやってこの神聖なる山を治める使命の元に、その命を使います。もっとも、兄はそれを言い訳に、ナガスネヒコと共に荒んだ戦の日々を送っていましたが。」
『この国を治めるには、より中心にある場所でなければならない。』
「……よもや。」
かつて日向国(ひむかのくに)にいた際に、天啓として夢の中から語り掛けてきた声を、この時イワレビコは唐突に思い出したのです。
「そうかーーあなたが。」
それはまるで、答え合わせをするかのような、そんな感覚でした。
「私はかつて、この国を治めるのであれば中心の地が良いと天啓を賜った。ようやく合点がいった、私はーー呼ばれていたのだな。」
「……大王。」
オトシキがそっと語り掛けた後、一人の女性が姿を現しました。
「その人は?」
「名を媛蹈鞴五十鈴媛(ヒメタタライスズヒメ)。彼女はこの山に坐すオオモノヌシ様の娘にございます。」
「ーーなんと。」
「お初にお目にかかります。大王。」
たおやかに頭を下げる女性。白い衣服をふわりと動かすその姿に、イワレビコは見出しました。白鳥が羽を広げたような美しさを。
「大王。かの山はーー三輪山は、神の宿る山にございます。」
イスズヒメは目を閉じたまま、体の芯を震わせるような高い声で語ります。
「この中洲を治めるは即ち、神の御許に身を捧ぐも同義。さすれば、まずはその仕来りとして、かの山と縁を結ぶ必要がございます。」
「……婚姻、ということか。」
「左様にございます。」
イスズヒメの眼差しは、金色の環のような輝きを放っていました。それはまるで月に隠れた太陽のようなーー光と影を同時に湛えた瞳でした。
「これも父のーーオオモノヌシ様の思し召しなれば。」
「……分かった。」
古代の世界において、神々に連なる者との結婚は一種の儀式としてよく行われていました。
ギリシャ神話においては『ヒエロス・ガモス』あるいは『ヒエロガミー』と呼ばれ、それを由来として日本では『聖婚』と呼ばれています。
そして、日本におけるその起源はイザナギとイザナミの国産み神話と言われています。
イワレビコ、もとい神武天皇はこうしてヒメタタライスズヒメと夫婦としての契りを交わしました。
二人の間には、日子八井命(ヒコヤイノミコト)、神八井耳命(カンヤイミミノミコト)、そして神渟名川耳命(カンヌナカワミミノミコト)が生まれました。
その後、神武天皇は127歳で崩御。生前、彼は仕来りに従って、末子であるカンヌナカワミミが後継者であることを宣言しました。
しかしーーこれに納得できなかった者が一人。
2.神武天皇の子供たち
2.1.タギシミミノミコト
「ふざけるな!!」
手研耳命(タギシミミノミコト)。彼は後の世において神武東征と呼ばれる大激戦を戦い抜いた者の一人であり、神武天皇の息子でした。
「父上はなぜ私ではなく、カンヌナカワミミなどを後継者に選んだのだ!」
激昂するタギシミミは用意された夕餉を薙ぎ倒し、柱に何度も拳を打ち付けて悔しさを露わにしました。
「お、落ち着いてください。兄上。」
そんな異母兄のことを、日子八井命(ヒコヤイノミコト)は座ったまま、言葉だけで宥めます。
「末子が後継者となるのは日向国よりのしきたり。であればこれを無下にするのは、かえって父上への不敬となりましょう。」
「ふん。偉そうなことを。」
座ったままのヒコヤイを睨むや否や、タギシミミは彼の夕餉を蹴飛ばしました。
「お前はあの激戦の時、欠片も存在していなかったではないか!!伯父上や数多くの家来が次々と命を落としていったあの激戦を、お前は昔話かのように聞いていただろう!!」
「……否定は、できません。」
「否定も何もあるか!たわけが!」
飛び散る唾。紅潮する顔。今にもこちらを手に掛けんばかりの兄の姿に、ヒコヤイはただ怯えるばかりでした。
「お前とて本当はカンヌナカワミミが後継となっていることが不服であろう!」
「兄上……声が大きゅうございます。」
「貴様……!」
舌打ちをした後、タギシミミは頭を強く掻きながらヒコヤイの隣に座りました。怒気は乱れた呼吸として漏れ出しており、ヒコヤイは今すぐにも殺されるのではないかという危機感に心臓が跳ね上がっていました。
「本来であれば、貴様に兄と呼ばれることすら腹立たしいが、奴らを疎ましく思うという点では貴様も同じだろう。つまり、我らは同じ目的を持つ仲間ということだ。」
「は、はい。」
ヒコヤイはそう答えるしかありませんでした。今ここでタギシミミの機嫌をさらに損なえば、自分は殺されるかもしれなかったからです。
「……兄上が仰るのであれば、私はどんなことでも協力いたします。」
「どんなことでも、か。言ったな?」
「ーーっ、はい。」
「ならばまずは即位の礼を引き延ばしてこい。」
「え……?」
ヒコヤイはてっきり、カンヌナカワミミの首を獲ってこいと言われると思っていました。
「何だその顔は、まさかいきなり首を獲れと言うと思ったのか?」
「そ、そうなるのかと……」
「馬鹿め。それでは意味が無かろう。カンヌナカワミミだけではない。カンヤイもまとめて討ち取らねば、私が皇位に就くことは叶うまい。」
「………。」
「そうでなくとも、カンヌナカワミミを王位に――と願う者は少なくない。敵はカンヌナカワミミらだけではないのだ。奴らも討ち取らねば、私の正統性は以前否定されたままだ。」
「……兄上の正統性を証明する者が必要、ということですか。」
「そうだ。その点に関しては問題ない。父を弔うために、日向国より多くの者が来る。私はその者らを味方に付け、カンヌナカワミミとそれに伍する者共をまとめて討ち取る。そうして初めて私が王位に就く基が築かれるのだ。」
ヒコヤイは、タギシミミの言葉をただ固唾を呑んで聞くより他ありませんでした。
「さあ、そうと決まればすぐにカンヌナカワミミの元へ行け!即位の礼はまだ早いとな!」
「……はい。」
2.2.カンヌナカワミミノミコト
その頃、橿原宮(カシワラノミヤ)ではーー
「場所は、畝傍山(うねびやま)に決まったそうです。カンヤイ兄上。」
広い部屋。その中心で横たわる、神武天皇の亡骸。その横には、座ったまま俯くカンヤイミミノミコトが。雨に濡れたカンヌナカワミミノミコトが、暗い瞳でそんな兄に向かって語りました。
「つい先ほど、母上がオオモノヌシ様よりの天啓を授かりました。父上の体はーー」
「………。」
「カンヤイ兄上。父上はもう亡くなられました。いつまでも悲しんでいては、父上も浮かばれますまい。」
父を挟んで向かい合うカンヌナカワミミ。ぎりぎりと、カンヤイミミの口からは数多の感情を噛み締める音が鳴っていました。
「……なぜ、お前はそう落ち着いていられるのだ。カンヌナカワミミ。」
「父上は、吾にただ心を平らかにせよと仰せでした。心乱せば小事に躓き、大事を成せぬと。」
「……悲しくはないのか。」
「悲しいです。」
「俺は……悲しい。大声を上げたいほどにはな。」
冷淡とさえ言えるほど表情が変わらないカンヌナカワミミとは対照的に、カンヤイミミは目の下が痙攣しているかのように震え、呼吸が微かに乱れていました。
そんな二人の表情に挟まれても尚、横たわる父の顔は固まったまま変わりませんでした。
「ご安心を、兄上。一年は喪に服すつもりです。」
「……何が、安心だ。」
「一年。父上を亡くした悲しみを癒すには丁度いい期間です。」
「……お前は昔からそうだ。」
おもむろに立ち上がり、カンヤイミミはカンヌナカワミミを指差しました。
「『心を平らかに』といい、表情一つ変えず物事に取り掛かる。父上はその様子を見てただ良い心がけだと言っていたが……俺には、お前のその姿が不気味で仕方がなかった。」
「分かっておりました。カンヤイ兄上もヒコヤイ兄上も、吾をよく見てはおらぬのだと。タギシミミ兄上に至っては、吾を蛇蝎の類と見ているとも。」
「ーーーっ。」
カンヤイミミは背筋が凍るような感覚に襲われました。暗い瞳に見られると、頭の中を全て読み取られているかのように思えてならなかったからです。
実際、彼の放つ言葉は全て的を射ており、それが不気味で仕方がなかったのです。
「しかし、あなた方がどれだけ吾を不気味に思おうとも、吾が次代の大王であることに変わりはありません。であれば今もこうして、心を平らかに、後継者らしく振る舞うのみです。」
「それが不気味だと、なぜ分からん。」
父の死、それに動じないカンヌナカワミミ、鳴りやまない雨。それら全てが、カンヤイミミの心を激しく揺さぶり、指先を乱しました。
「カンヤイミミ!カンヌナカワミミ!」
そこにヒコヤイがやってきます。
「ヒコヤイの兄上!」
「母上から聞いたぞ!父上のお体は、畝傍山に埋葬するそうだな!」
「はい。オオモノヌシ様の天啓です。」
「そうか……それで、父上の御魂を慰めるために、どれだけの期間を喪に服すつもりだ。」
「一年です。」
「……やはり、そこまで決めていたか。」
冷ややかな目で、ヒコヤイはカンヌナカワミミを見つめました。
(……どちらが正解なのだろうか。)
ヒコヤイにとっても、末弟のカンヌナカワミミは、確かに才気は感じられるものの、どこか人としての暖かみが欠けておりーー確かな意思を持った虫のようだと思っていました。
(後継者として見るなら、カンヌナカワミミが正解だろう。だが……いっそのこと、兄上に任せるのが……)
しかし、兄のタギシミミに関しては、カンヌナカワミミとは別の方向性で危うさを感じさせました。
父と共にナガスネヒコとの激闘を生き延びた武勇と、二十年以上、父の傍らで政務に務めた実績があるものの、獣のような激情は未だ治らず、悪化するばかり。
(いや……危険すぎる。かといって……私にもカンヤイミミにも、後継者の器は無い……!)
カンヌナカワミミは現在、父の代行者という形で政務に携わっており、その地位は誰の目にも明らか。タギシミミから命を狙われていること以外は、完璧に思えました。
「一年経てば、そのまま即位の礼を行います。兄上たちも聞き及んでいる通りーー」
「ま、待て!カンヌナカワミミ!」
「何か不服でも。」
「父上の故国である日向国より、縁者が参ると聞いている。彼らが参る期間を鑑みれば、即位の礼はもう少し後でも良いのではないか?」
「ーーー。」
顎に手を置き、カンヌナカワミミはしばらく考え込みます。
「そうですね。父上はここに至るまでに数年の歳月を要しました。」
「なら、数年後ーー」
「ですがそれも今は昔。それに日向国にいる者は既に国を発ったと聞いています。一年以内に着くのではないかと。」
「………。」
「それにーーヒコヤイ兄上。吾はもう一つ、あなたに問いたいことがあるのです。」
カンヌナカワミミは立ち上がり、その暗い瞳をヒコヤイに近付けました。
「タギシミミ兄上はいかがされたのですか。」
「えっ。」
体中の穴が開き、汗が噴き出る感覚にヒコヤイは苛まれました。
「父上が亡くなられてからというもの、タギシミミ兄上は一度もこちらに参っておりませぬ。何故にございますか。」
「お、お前が邪魔なのではないか?兄上は昔から我らに冷たく当たってきたであろう?」
「それはタギシミミ兄上の事情でございましょう。一国の政務に携わる人間が感情に身を任せ、大王の御魂を慰めに参らぬのはいかがなものかと。」
「ーーーっ。お前、本当にそう思っておるのか?」
カンヌナカワミミから離れ、ヒコヤイは顎から垂れ落ちる汗を拭いました。
「大王の……父上の死に対し、お前は眉一つ動かさなかったではないか。いや、今もそうだ。父上の死を前にして、虫の如く淡々と己の責務を全うしている。」
「それが吾の責務なれば。」
「責務とは、人の感情を捨ててまで為さねば為らぬ事か!?」
「……そうだ!ヒコヤイの兄上の言う通りだ!」
ヒコヤイが声を荒げると同時に、カンヤイミミも声を荒げました。
「父上は、弱さを受け入れることもまた強さであり、大王に相応しき者の素質だと言った!弱さを隠すことは強いことと違うんじゃないか!?」
「左様ですか。」
「左様ですかって……カンヌナカワミミ!」
「兄上たちの言葉はよく分かりました。私は明日も政務に務めなければならぬので、これにて失礼いたします。」
淡々と、冷たく言い放つとカンヌナカワミミは父の亡骸を背に、ヒコヤイの横を通り抜けていきました。
「ヒコヤイの兄上!いくらなんでもあれは……!」
「………。」
振り返り、雨の中を淡々と歩くカンヌナカワミミの背を、ヒコヤイたちはただ見据えるだけでした。
2.3.タギシミミの狙い
むせかえるような雨の日々も落ち着き、山が徐々に紅に染まりつつある中、タギシミミはある人物の元に向かっていました。
「貴殿が私の許に参られることは存じておりました。」
金の環のような瞳を持つ女性、イスズヒメ。篝火に照らされた宮の中央で佇む彼女の元に、タギシミミは足音を鳴らして近付いていきます。
「オオモノヌシ様の御心か?ならば話は早い。」
イスズヒメの手を掴み、憎い男に似た瞳を睨むタギシミミ。彼の狙いはーー
「イスズヒメ殿、我が妻となれ。」
イスズヒメを妻に迎えることでした。
「貴女が我が妻となれば、磯城の者共も私を大王と認めざるを得まい。」
「其は承服しかねます。」
「何だと?オオモノヌシ様は私の到来を予見していたのであろう。何故拒む。」
「貴方様が大王になるという予見を、父は齎してはおりませぬ故。」
その言葉で、タギシミミの額に血管が浮かびます。宮を照らす篝火が弾け、彼はイスズヒメの手を強く引きました。
「今はそうであろう。だが直にオオモノヌシ様とて私を認めよう。」
「さりとて、磯城は貴方様には靡きますまい。」
「ほざけ。」
父、神武天皇がイスズヒメを妻に迎えてからというもの、タギシミミはイスズヒメとはほとんど言葉を交わしたことがありませんでした。義理とはいえ母にあたる人物ですが、彼からすればいきなり現れた赤の他人でしかありませんでした。
「私はこの国の王になる男だ。父上と共に戦地を駆け、その上この国を共に統べてきた。戦も知らず、のうのうと生きてきた者共とは違う。私は特別な存在なのだ。」
「………。」
「貴女の目は気に食わぬが、利用価値を鑑みれば許容範囲だ。安心いたせ、悪いようにはせぬ。」
「………。」
イスズヒメの目が曇るのも知らず、タギシミミは不敵に笑いました。
(今逆らえばどうなるか、分からぬほど馬鹿ではあるまい。)
イスズヒメを己の妻にすることで、磯城の者を従えるーータギシミミは着々と自身の味方を増やしつつありました。
「……兄上。」
「来たか。ヒコヤイ。」
「……はい。」
日向国にいた家臣たちが、神武天皇を悼むために来たことをヒコヤイが慌てた様子で伝えに来ました。
「お前の母は実に利口な方だ。私が一声かけただけで、すぐに二つ返事で返してくれたよ。」
「なっ……!?」
目を見開き、母を見るヒコヤイ。イスズヒメは目を背け、微かな否定の意を示しますがーー
「本当ですか、兄うーー」
その瞬間に、タギシミミはヒコヤイの髪をひっつかみ、床に叩き伏せました。
「えーーっ!?」
「違うだろ、ええ?」
「ーー!!ヒコヤイ!!」
唐突に暴行される息子の姿を見て、イスズヒメは駆け寄ろうとしますが、振り返るタギシミミの獣のような眼差しがそれを制しました。
「『父』の呼び方も分からぬのか?ヒコヤイ、その程度のことも分からぬようでは『後継者』とは呼べぬなぁ。」
「ーーっーーぐーー」
顔を床に押し付けながら、タギシミミは嗜虐的に笑いました。
「きびきび動かんかぁ!さっさと日向国の者共を連れてこい!」
そう言ってヒコヤイの髪を掴み、彼を宮の外に投げ飛ばします。床に叩き付けられた影響で鼻は曲がり、血がしたたっていましたが、そんな弟の様子などタギシミミは気にも留めませんでした。
「ーーっ、か、かしこまり……ました。」
ふらふらと走る弟の様子を見て、タギシミミはその場でどかりと座り込みました。神武天皇が畝傍山に埋葬される日は、もうすぐそこまで迫っていました。
3.イスズヒメの唄
3.1.カンヌナカワミミ、企みを知る
豊穣と新たな年の始まりを纏う秋の空気、その中で、神武天皇は畝傍山に埋葬されました。
天皇を埋葬した陵墓を御陵(みささぎ)と呼び、彼の御陵は現代までその形を残されております。
「カンヌナカワミミ、日向国から客人だ。」
「ありがとうございます。兄上。」
カンヤイノミコトが日向国から来たという客人を、カンヌナカワミミの元に連れてきました。
「遠路遥々、父上に哀悼を捧げにーー」
「ーーめちゃソックリ。」
頭を下げるカンヌナカワミミに対し、日向国から来たという人物は目を輝かせてカンヌナカワミミを顔を見ていました。
顔立ちは女性的で、猫のような口元をしていながら、背格好は貴族の男性のような人物。
「ソックリって、そりゃそうでしょう。大伯父ィ。」
「いやいやホントホント!ターちゃん見て見て!」
「ーーもしやタケイワタツ。」
隣にいる人物に、カンヌナカワミミは見覚えがありました。兄であるカンヤイノミコトによく似た顔、額の傷。小柄ながらがっしりとした肉体。
「悪ィ親父、報告が随分と遅れちまった。」
「あー、まあ、ああ。」
タケイワタツノミコト。彼はカンヤイミミノミコトの息子。カンヌナカワミミから見れば甥に当たる人物ですがーー
「カンヤイ兄上。どういうことですか。」
「……昔、日向国に災厄が降り立つって予言を母上がくださってな。それを聞いた父上が極秘で武勇に秀でたヤツを派遣しようって話になったんだ。」
「そこで立候補したのがオレサマってわけよ!」
自身の顔を親指で差し、タケイワタツはカンヌナカワミミに対して得意げな表情を浮かべました。
「ーーなんだが、オレサマ一人じゃどうにもならなくてなァ、そこにやってきたのがこの大伯父よォ。」
「も~!だからその大伯父って呼び方やめてよ~!」
駄々をこねる猫のように、隣にいた人物がタケイワタツに対して連続ネコパンチ。大伯父と呼ばれているものの、高齢であることを感じさせない容姿に、カンヤイミミは目を見開いていました。
「ワタシ、ミケイリノミコトって言うんだ。イワちゃんの……大王のお兄ちゃん。」
「ミケイリノミコト!?ま、まさか、このヤマトを築き上げるために父と共に従軍した!?」
昔話に出てくる人物を目の当たりにしたように、カンヤイミミは目を輝かせてミケイリを見つめました。
「色々あってね、大王には申し訳ないことをしてしまったんだけど……」
畝傍山を見つめて、ミケイリはどこか寂しげな顔を浮かべました。
「……ちょっと、時間をかけ過ぎちゃった。どうしてワタシより先に逝っちゃうかな。ま、その割にワタシも無駄に長生きしたってのが、あるんだけどさ。」
「大伯父……。」
「伯父上、タケイワタツ。」
しんみりした空気の二人に対して、カンヌナカワミミは淡々と語り掛けます。
「母上に会いませんか。」
「母上ぇ?」
「バーちゃんに!?」
カンヌナカワミミの提案を聞き、タケイワタツの目が金環日食のように環のような輝きを放ちます。
「バーちゃんは面白い話をいっぱい知ってんだ!大伯父!会いに行ってもいいか!?なあ!?なあ!?」
「ーー待たれよ。」
そこに、ヒコヤイノミコトが姿を現しました。
「母上は今……顔を出せぬのだ。タケイワタツ。相すまぬな。」
「ーーー。」
ヒコヤイの顔を見るなり、カンヌナカワミミは目を見開きました。
「ヒコヤイ兄上、その顔はいかがされた。」
「気にするな、階段から落ちただけだ。」
顔が腫れたヒコヤイに、カンヌナカワミミは只ならぬ様子を感じましたが……ヒコヤイは弟に対してそのことを何も語りませんでした。
「その代わり、母上がこの日のために歌を詠んでくれました。母に代わり、私がその歌を読み上げましょう。」
『狭井河よ 雲立ちわたり 畝火山 木の葉さやぎぬ 風吹かむとす』
「ーーー。」
「……母上からの歌、とくと胸にしまわれよ。」
ミケイリとタケイワタツに語り掛けながらも、ヒコヤイの視線はカンヤイミミとカンヌナカワミミの二人に向けられていました。
その視線を受け取り、二人の弟は目を見開き、額に冷たい汗が流れることを感じました。
「……そちらの方が、日向国の代表か。」
「うん。そうだよ。」
「タギシミミ様が、あなたのことを呼んでおりました。すぐに参られよ。」
「必要かな?それ。」
それまでの楽天的な姿が鳴りを潜め、ミケイリは冷たく言い放ちますがーー
「……必要です。絶対に。」
「……そう。分かった!じゃ、行ってくるね!」
ヒコヤイに連れられ、ミケイリはその場を後にしていきます。
「なあ親父、なんか、大丈夫なのか?今。」
「あ、ああ、お前が気にすることではーー」
「あれは、母上からの警告です。」
暗い瞳を大きく見開き、視線を下げながらカンヌナカワミミは語ります。
「ーーなぜ。このような時に。」
「カンヌナ……」
カンヤイミミが名前を呼ぼうとした時に、カンヌナカワミミが唇を強く噛んで感情を抑え込んでいるのが見えました。怒りと悲しみが入り混じった顔に、それまで虫のような無感情さを見せていた弟の姿はありませんでした。
「ーーー」
その一面を見た時に、カンヤイミミは心の奥に感情が湧き上がる感覚を覚えました。
3.2.焦るタギシミミ
片丘の大宮ーー
「ーーまさか、生きておられたとは。」
「キミは随分と変わったね、タギシミミ。」
ナガスネヒコとの激戦以来、長らく離れていたタギシミミとミケイリノミコトは、イワレビコが作り上げた平和な世の中で再び顔を合わせることとなりました。
「海と一戦交えると言い、あの波に飛び込んだ際はどうなることかと思いましたが……」
「昔話はもういいよ。タギシミミ。何を企んでいるのかな?」
単刀直入に言われたものの、タギシミミは眉一つ動かさずミケイリに目を向けます。
「そちらが単刀直入に言うならミケイリの伯父上。こちらも単刀直入に申しましょう。私に協力していただきたい。」
「協力かぁ。」
「カンヌナカワミミに会いましたか?ヤツはこの国を乗っ取ろうとする害悪。本来、私がこの国を治めるべきであったところを、ヤツとその血に連なる者共は父上を惑わし、この国を乗っ取ろうとしているのです。」
「……末子相続が、ワタシたちの仕来りだったと思うんだけど?」
「その仕来りは絶対ではありますまい。父上がこの中洲をヤマトと改め、国を善く治めようとしたその意味を忘れたわけではありますまい。」
「………。」
タギシミミの言葉に、ミケイリはただため息を吐くばかりでした。
「キミは、自分自身がイワレビコが作り上げた平和を乱そうとしているとは思っていないのかな。」
「私は父と共にナガスネヒコとの争いに参加し、その後二十年は政務に携わりました。ここにいる誰よりも、この国の内情は存じています。日向に落ち延び、平和に生き続けたあなたには分かりかねるでしょうが。」
「………。」
タギシミミのその言葉を聞き、ミケイリは目を細めます。
「それじゃあ、ワタシはキミに協力することはできないね。平和な世の中で戦うことを忘れたワタシたちじゃ、仮に協力したとしても足手まといにしかならないからね。」
「伯父上。」
「キミはすごい。たくさん頑張ってきた。ワタシには分かる。」
「ーーっ、いや、伯父上は何も分かっていない!」
タギシミミは声を荒げますが、ミケイリは眉一つ動かすことなく、憐れむような眼差しを変えませんでした。
「今の平和は、イツセの伯父上、イナイの伯父上が命を捧げーーミチノオミ、シイネツヒコ、ヤタガラスらが命を燃やして勝ち取ったもの!それを雨後の筍の如く、後からノコノコ出てきた連中が享受するなどあってはならぬこと!ましてやそれを得体の知れぬ者に託すなどあってはならぬ!」
「そのためにワタシたちは戦ったんだけどな。」
唾を飛ばして荒ぶる甥を、ミケイリは諭します。
「ワタシたちよりも後に生まれた子たちが、荒れた世に嘆かぬよう、ワタシたちは命を燃やした。お兄ちゃんたちもそうだった。」
「………。」
「そして今、ようやくそれが実を結ぼうとしている。タギシミミが政に精を出し、カンヌナカワミミが統べる。そしてそんな二人を、他の子たちが支える。これが平和じゃなくて何というのさ。」
「……それでは意味が無い。私が頑張ってきた意味が。」
「ーーー。」
これ以上は何を言っても無駄かーーそう感じたミケイリは、最後の言葉であるかのように、言葉を連ねました。
「ーータギシミミ。実はね、日向国からは戦える人が来ていないんだ。」
「なっ……!?」
「おじいちゃん、おばあちゃん、それに女の子やちっちゃい子。イワちゃんがいた頃のことを覚えてたり、その偉大さを聞いて育った子たち。そんな人たちしかいない。」
「なぜ!?」
「日向国はね、ちょっと前まで鬼八(キハチ)っていう荒くれ者に荒らされていたんだ。ワタシとターちゃんで何とかしたんだけど、鬼八の仲間が残っていたり、まだ戦禍の影響が残っている場所があったり……。そんなわけで、イワちゃんには申し訳ないけど、少し顔を出したらすぐに戻るつもりだったんだ。」
「そんなの……父上が聞いたら!」
「分かってくれると思うよ。そうは思わない?」
「………。」
否定したかったが、父であれば理解を示してくれるかもしれない。そう思ってしまったせいで、タギシミミはこれ以上何も言えませんでした。
「それじゃあね、タギシミミ。」
「………。」
そう言ってミケイリは去っていきました。大宮の中心にはただ一人、タギシミミのみが残されました。
「……ヒコヤイ!!!!」
拳を床に打ち付けながら、タギシミミは宮の外で控えているであろうヒコヤイを呼びだそうとしましたがーー
「た、タギシミミ様。」
出てきたのは、一人の侍女でした。
「ヒコヤイを呼べ!!!!早々にだ!!!!」
「その……ヒコヤイ様なら、先ほどミケイリ様に連れられて……どこぞに行ってしまいました。」
「何だと……!!?」
その言葉を聞いたタギシミミは、愕然とした様子で姿勢を崩しました。
「……ならばオトシキだ!!オトシキを呼べ!!イスズヒメは既に我が妻となった!!ならば私の味方とならぬはおかしな話であろう!!」
「その……オトシキ様は……カンヌナカワミミ様の所に行かれたと……」
「は……はぁ……!?」
日向国から来たのは戦いに向かない者ばかり。そして想定外の人物として駆け付けたミケイリも協力してはくれずーー
(ヒコヤイも消え失せたかと思えば……味方になると思ってくれた磯城の者共すら……カンヌナカワミミの味方か。)
何もかも思い通りにいかなかったタギシミミは、乾いた笑いと共に寝転ぶことしかできませんでした。
3.3.弓矢
その頃、カンヌナカワミミたちはというとーー
「弓削部稚彦(ユゲベノワカヒコ)」
「天津真浦(アマツマウラ)」
二人の青年が跪き、自らの名を述べました。彼らの名を聞いたカンヌナカワミミは、二人の背後で腕を組んで立つオトシキに目線を向けました。
「か、彼らは、弓矢を作ることに長けた若者達です。彼らに武器を作らせて、タギシミミへの備えとするのです。」
「……タギシミミの兄上が、そんな。」
「カンヤイ兄上。それが事実です。でなければ母上があのような歌を渡すはずがありません。」
『それに』と付け加え、カンヌナカワミミは兄に対して解消された懸念点を語ります。
「ヒコヤイ兄上は、伯父上が何とかしてくれたと聞きました。吾らより先に殺される可能性は無いと見るべきでしょう。」
「………。」
「弓矢を用いるのは最終手段。どうにかタギシミミ兄上が納得していただける条件を提示し、今後も政務についていただくことこそが国家の安泰に繋がるかと。」
「タギシミミの兄上が納得する条件なんて、俺たちが死ぬことしかないだろう。」
「それでも、何とかせねばなりますまい。タギシミミ兄上は仁義に背いたとはいえ、二十年以上政務に携わった功労者。彼の代わりを務められる者はまだいません。」
カンヌナカワミミの言葉を聞き、弓矢づくりの青年の一人、ワカヒコが手を挙げます。
「カンヌナカワミミ様。それはちと甘いんじゃないですか?身内だからって情が湧いているように思えますがぁ。」
「身内に情が湧くのは当然でしょう。父親の血を分けた兄弟なのですから。」
「けど、オトシキ様は自分の兄貴を見捨てましたよぉ?」
「!?(頭が三角形に目のマークになる)」
「それは時代がそうさせたのでしょう。今は不誠実とされるでしょうが、ナガスネヒコが生きていた時代はそうせざるを得ませんでしたから。」
「良かったこの距離で(?)」
唐突に流れ矢を受けたオトシキは、カンヌナカワミミの寛大な援護にただ胸を撫で下ろすばかりでした。
「最適解とは、時代に合わせて流動するもの。今の時代には、タギシミミ兄上が必要なのです。」
「それでも従わない場合は?」
「ーー兄上を、射貫くまでです。」
(カンヌナカワミミ……。)
いつもは即座に、ただ淡々と言い放つカンヌナカワミミの言葉に、微かな間が開いたことを、カンヤイミミは見逃しませんでした。
「しかし、公には致しません。公にすれば、後継者争いという形で政権内にひびが入る恐れがありますから。」
「なるほどなぁ。」
ニヤリと笑うワカヒコ、そうして彼は立ち上がりーー
「分かった。アンタらのための弓矢、しかと作らせてもらいますよ。マウラ、お前もそれでいいよな?」
「マウラ、分かった。ワカヒコと、共に。」
「感謝いたします。」
それから二か月、タギシミミを討ち取るための弓矢を、ワカヒコとマウラ、そして彼らに付き従う者達の手で製造されることとなりました。
その情報は徹底してオトシキの手で隠蔽された他、今後タギシミミに協力する疑いのある者達も、オトシキによって調略されていくことになりました。
タギシミミは、いよいよもって孤立を極めていくばかりでした。がーー
事ここに至り、想定外のことが起きようとしていました。
4.陰謀の果て
タギシミミの拠点、片丘の大宮。
「ーー驚いたな。」
酒がまだ入っている杯を床に置き、片膝をついた姿勢でタギシミミは軽く笑いました。
「よもや私の前に姿を現すのがお前だとはな。カンヤイミミ。」
矢を番え、弦を引いているカンヤイミミ。タギシミミにとってもこれが想定外の客人であることは確かでしたがーー
「まあいい。」
「ま、待ってくれ!タギシミミの兄上!」
カンヤイミミはたじろぎながらも、腰に提げている剣を引き抜こうとするタギシミミを制しました。
「話があるんだ!」
「話?」
「そう!話!」
数時間前ーー
『カンヌナカワミミ様、カンヤイミミ様。弓矢が出来ました。』
ワカヒコ、マウラの二人が持ってきた弓矢。それを見たカンヌナカワミミはーー
『ありがとう。二人とも。それでは早速ーー』
手を伸ばしたカンヌナカワミミより先に、カンヤイミミが弓矢を手に取りました。
『カンヌナカワミミ。ここは俺に行かせてくれ。』
『カンヤイ兄上。』
『お前は最悪の可能性を提示していただろ。万が一、その可能性が確定的なものになった時ーー手を汚すのは、お前じゃなくて俺の方がいいだろう。』
『しかし。』
『前に言ったこと、謝らせてくれ。弱さを隠すことは強い者の証ではないと言ったが……お前のように、そうずっと隠し通せる者は、きっといないだろう。』
『ーーーっ。』
カンヌナカワミミが目を見開いた瞬間に、カンヤイミミは足早に立ち去っていきました。
『張り切ってましたなぁ、カンヤイミミ様。』
『………。』
『カンヌナカワミミ様?』
『吾は……』
そうして弓矢を片手に、カンヤイミミはーー
(やはりそうだ。カンヌナカワミミは甘い一面を隠していただけだ。)
不敵な笑みを浮かべて、片丘の大宮に駆け付けました。畝傍山の時より、胸の奥から湧き上がる野心が、いざ弓矢を前にすると抑え切れないほど大きくなっていたのです。
(企みの全容は分からぬが……タギシミミの兄上は計画が頓挫したのだろう。ここに来て一気に俺とカンヌナカワミミを葬ることはせず、大宮からしばらく顔を出しておらぬと聞く。)
大宮へと一歩、また一歩と踏み出す度、緊張と高揚の狭間でカンヤイミミは喉の奥で笑い続けていました。
(カンヌナカワミミのことだ。今頃俺の狙いに気が付き、部下の諫めも聞かず飛び出していることだろう。)
大宮の中に入ると、大きないびきが聞こえてきました。それがタギシミミのものであることは、カンヤイミミには分かっていました。
(ここでタギシミミの兄上を討ち、追いかけてきたカンヌナカワミミも討つ!後はヒコヤイの兄上と俺が後継者候補となるが……ヒコヤイの兄上には、もはや後継者として立つ気は無かろう。いかな理由があろうと、後継者候補はーー)
大宮の中心で、杯を片手に寝転がるタギシミミに対して、弓を引くカンヤイミミ。心臓が体を張り裂かんばかりに鳴り、額の汗が灯火で照らされる中でーー
(この俺だけとなるのだ!)
ニヤリと笑い、カンヤイミミはタギシミミの心臓を貫こうとしました。
「ーーやはり来たか。」
「ーーー!?」
起き上がるタギシミミ、彼の顔はさほど赤くないばかりか、酒の匂いもそれほど感じられませんでした。
(ば、馬鹿な!?)
「ーー驚いたな。」
酒がまだ入っている杯を床に置き、片膝をついた姿勢でタギシミミは軽く笑いました。
「よもや私の前に姿を現すのがお前だとはな。カンヤイミミ。」
矢を番え、弦を引いているカンヤイミミ。タギシミミにとってもこれが想定外の客人であることは確かでしたがーー
「まあいい。」
「ま、待ってくれ!タギシミミの兄上!」
カンヤイミミはたじろぎながらも、腰に提げている剣を引き抜こうとするタギシミミを制しました。
「話があるんだ!」
「話?」
「そう!話!」
しかし、想定外だったのはカンヤイミミも同じでした。タギシミミはしばらく顔を出していないというので、外に出られない相応の理由があったと思っていたのですから。
「お、俺は、タギシミミの兄上と共にカンヌナカワミミをだな……」
「矢を構えてか?」
「こ、これは、その……カンヌナカワミミに命じられて、タギシミミの兄上を討つように言われて……」
「そうか。」
杯をカンヤイミミに向かって投げ飛ばすタギシミミ。カンヤイミミの後ろにある柱に当たって杯が砕け、雫が頬から首筋までかかります。
(……水。)
カンヤイミミはこの時、初めてタギシミミの狙いが分かったのでした。
(嵌められた。タギシミミの兄上は、全てわかっていたのだ。)
「カンヌナカワミミがいきなり私を殺しに来ることはあり得ん。何事も慎重に動くヤツのことだ。まずは私の持つ価値について考え、懐柔する方向性に持ってくるはずだ。」
「そ、それじゃあタギシミミの兄上は、これもすべて策だと?」
「策なんて軽いものではない。」
剣を引き抜き、タギシミミはカンヤイミミに対して光を失くしたままの目で笑みを浮かべました。
「万策も尽き、誇りも意義も失った以上、私にはこれ以上何も残っていないんだ。」
「ーーー。」
「ならば、全て滅茶苦茶にするしかないだろう?なあ。」
(だ、ダメだ。この人は、もうーー)
誇りを失った獣ほど、恐ろしいものは無い。彼らは、歩み寄ろうとすればその手を噛み千切り、情けをかけようとすればそれを侮辱だと断じて殺意を露わにする。
(誇りを失った獣だ……!)
「私は無敵だ、もう何も失うものが無いのだからな!」
(殺さなければ……殺される……!)
獣のように口を開き、床を踏み抜かんばかりの勢いで迫るタギシミミ。カンヤイミミは震える手で矢を構え、彼の心臓を射抜こうとしますがーー
「ーーーッッ!!」
矢を番えた指が離れませんでした。目の前にいるのは自身の兄。しかも獲物を喰らおうとする獣。肉親を愛するという人間としての慕情と、捕食者を前に観念する恐怖とが入り混じり、カンヤイミミは指を離せずいました。
「兄上ッッ!!!」
その瞬間、突然カンヤイミミは引っ張られーーそのままの勢いで弓矢を取られてしまいました。
「カン……」
自分を後ろに引っ張り、弓矢を奪い取った人物の名を叫ぶ前に、剣を振り下ろそうとしたタギシミミの胸に矢が突き刺さりました。
「げえっ。」
「か……カンヌナカワミミ……!」
弓を構えるカンヌナカワミミの額には汗が流れ、暗い瞳には灯火が映っていました。呼吸は乱れ、表情は強張っており、およそ平静さを保てているとは思えない状況でした。
「カンヤイ兄上……話は後に。」
「くっ……ははははははは!やっと来たか!カンヌナカワミミ!」
心臓を射貫かれて尚、タギシミミは倒れませんでした。彼は歯を剥き出しにして笑ったかと思えば、そのまま矢を引き抜いてカンヌナカワミミを鋭く見つめました。
「熊野の神威でさえ、遂には私を殺せなかったのだ!今更貴様が私を殺せるか!」
「それはタカクラジが持ち寄った、タケミカヅチ様の剣がためと父上は仰っておりました。断じてあなた一人の力ではありませぬ。」
タギシミミの着物が、胸から赤く染まっていく中、大宮の中央で二人の兄弟が睨み合います。
「タギシミミ兄上……なぜ、なぜこのようなことを。」
「始めはほんの小さな嫉妬だったよ。私は父に精一杯尽くしてきたのだから、後継者の座くらいくれても良かったのではないかーーとな。」
「父上は……あなたを、ミチノオミやシイネツヒコと同じで代え難い存在だと仰っておりました。」
「それだけじゃ足りなかったんだよ!」
ふらふらとした足取りで、大宮の中心を歩きながらタギシミミは叫びました。対峙するカンヌナカワミミは、次の矢を番えながら彼との間合いを保ち続けます。
「位人臣は確かに極まっただろう!だが!大王の子なのだからせめて後継者ぐらいはくれても良かったのではないか!?共に戦をし、共に政務に務めたのだから尚更!それを後からノコノコと出てきた貴様らが!なぜ!」
「………。」
「悔しくて悔しくて仕方なかったんだよ!父上が言うならば仕方がないと思えた!だが!そんな父上ももういない!」
一瞬で蚊帳の外となったカンヤイミミの視界には、左右に向かい合うタギシミミとカンヌナカワミミが映っていました。
「もう止められなかった。私こそが正統な後継者だと示すために、ありとあらゆる手を使ってお前を廃そうとした。」
「………。」
「そしたら、嫉妬に伴った自尊心が剥がされて、ただただ惨めな自分を突き付けられただけだったよ!滑稽ここに極まれり!!これまでの何十年で築き上げた全てが、たった何日で張りぼてだと突き付けられた!!」
「……吾は、もう少し早く、それを知りたかった。タギシミミ兄上が、それで苦しんでいることを。」
「同情はいらん。私を哀れと思うなら、目の前で無様に死んでくれ。」
『いや』とタギシミミは、即座に言葉を修正し、剣を構えました。
「やはりお前はーーお前たちはこの手で殺す!!殺して!!五体を切り刻んで!!母親の前に突き出してやる!!」
「ーーーっ。」
「カンヌナカワミミ!!」
一気に距離を詰め、剣を振り下ろすタギシミミ。前方に転がり込むことでこれを躱したカンヌナカワミミは……
「タギシミミ兄上。吾は……」
唇を強く噛み、心を平らかにしーー
「吾は、あなたが好きです。」
その背に、矢を放ちました。
「ーーーッ!!」
矢が、心臓を再び貫き、胸から飛び出た鏃を片手で撫でると、口から血を吐き出して倒れ込みました。
「父上が戦っていた時、吾は欠片も存在しておりませんでした。だから、タギシミミ兄上がそのことを語っていると聞いた時、吾は胸が躍りました。いつかタギシミミ兄上から直接、そのことを聞きたいと……」
「ーーー。」
「吾は未熟者であり、政務においては未だ知らぬ事ばかり、故にタギシミミ兄上以上の代わりはいないと思っていました。吾には、まだタギシミミ兄上が必要だったのです。」
「ーー……。」
「吾は……あなたと話すのが遅すぎたのでしょう。もっとちゃんと話をしていたならば、このようなことには……。」
震え出しそうな肩を、カンヤイミミがそっと叩きました。
「……もう、いい。」
「カンヤイ兄上。吾はーー」
「もう……十分だ。」
「吾は、まだ話し足りませぬ。」
「俺達には……お前の言葉が酷く突き刺さる。針の筵で心の臓を包まれたようにな。」
カンヤイミミの方を見るカンヌナカワミミ。その表情は酷く疲れ切っていて、窪んだ眼には光がありませんでした。
「……俺は、自分が恥ずかしいよ。いらぬ野心を抱いて、タギシミミの兄上とお前を出し抜こうとした。だができなかった。中途半端に空気が読めて、行けるかもしれない、なんて、中途半端に考えてしまった。その結果、お前の望まない結果を招いてしまった。」
落とすように肩から手を放すと、カンヤイミミはその場で跪き、額を床に押し付けてため息をつきました。
「ーー我は脆弱、意を識らぬ故、仇敵を殺めず、さりとて汝は神武を以て仇敵を罪なえり。むべなるかな。我は汝の兄なれど上に立つこと能わず。されど汝の命を為さぬは不忠。汝の命を輔くため忌人(いわいびと)となりて神祇を奉奠せん。」
臣従の誓いを立てると、カンヤイミミは顔を上げました。
「次代の大王よ。かつて母が行ったように、俺もまた、神の言葉に耳を傾ける者として、貴方にお仕えいたします。」
「ーーー。」
その言葉を聞いて、カンヌナカワミミは跪く兄の肩に手を置き、深く息を整えた後、答えました。
「大儀である。以後、能く務め、吾を支えよ。」
「はっ。」
5.綏靖天皇
カンヌナカワミミノミコトはその後、先代・神武天皇の仕来りに則って、磯城の女性を妻として迎え入れました。
妻の名は河俣毘売(カワマタビメ)。磯城はその頃、オトシキが亡くなり、波延(ハエ)という者が後継となったばかりでした。イスズヒメはオトシキを介して神武天皇と婚姻を結びましたが、イスズヒメはあくまでオオモノヌシの娘、即ち神の娘であり、神々と人を繋ぐ巫女としての役割を担っていた側面が強く現れていました。
しかし、カンヌナカワミミとカワマタビメの結婚は、どちらかと言えば政略的な一面が強く、神武天皇が築き上げた王室と磯城地域の結びつきを強める意味合いが強かったです。
二人の間に生まれた師木津日子玉手見命(シキツヒコタマテミノミコト)もまた、後々磯城地域の有力者の娘と婚姻しーー後のヤマト王権の基礎を築き上げる一人となりました。
後世、カンヌナカワミミは二代天皇、綏靖天皇(すいぜいてんのう)と呼ばれ、即位から33年で亡くなった後は桃花鳥田丘上陵(つきだのおかのえのみささぎ)に埋葬され、現在に至ります。
なお、タギシミミの反逆以降、日本書紀、古事記共に綏靖天皇の事績はパタリと描かれなくなってしまいます。この状態は九代目・開化天皇まで続き、綏靖天皇から開化天皇までの八人を、後世では『欠史八代』と呼ぶようになります。
一方、カンヤイミミノミコトは、意富(おお)氏を始めとした多くの氏族の祖として、その名が知られることとなります。
古代日本の代表的な歴史書の一つである『古事記』を編纂した太安万侶(おおのやすまろ)の先祖も、このカンヤイミミノミコトであるとされーー
かの武田信玄と上杉謙信が鎬を削った川中島には、彼を主神とした神社が建立されています。創建時は7世紀頃とされており、初代天皇の御子を祀る神社として現在までその風格を残しております。
綏靖天皇は前述した通り、タギシミミの乱以降の記述がほとんどなされておりません。
あるいは彼は、事績に残るほどの大事件が起こらぬような世を作ったのかもしれません。世の人々を綏んじ、国を靖んじる意味を持つ文字を、後世の人々によって名に冠することとなったのですから。
