【愛縁奇縁/幽世編】第二話〈前編〉:深き靄に喰われし想い
【酒呑童子/官那羅】
靄の中を、黑は声を張り上げながら駆けていた。
木々は捻じれ、時折見える地形も不自然に歪んでいる。
「如月!」
まるで、夢の中を走っているような感覚。
空も地も薄く靄がかっている。
「焦るな、黑……こないな場所で騒いだら、自分が呑まれんで……」
後ろから追いついた白哉が、息を切らしながら声を掛けた。
しかし、黑は足を止めない。
強く握られた拳。苦悶に満ちた表情。
ただ如月の姿だけを探している。
その時だった。
霧の先に、ぽっかりと黒く穿たれた穴のようなものが現れる。
「……洞窟?」
白哉が先に気づき、靄の隙間から前方を見つめた。
その内部から風が吹き、木々を揺らしている。
「もしかしたら、あん中に」
「やめろ!!」
白哉が一歩足を踏み入れようとした瞬間。
黑が怒鳴るように声を上げ、肩を掴んで引き戻す。
その表情は蒼白で、目も見開かれていた。
白哉が訝しげに振り返ると、黑は低く呻くように呟いた。
「こん場所……見覚えがあるんじゃ」
「見覚え?」
「ああ。ここは、俺が……鬼として人ん世を捨てた場所じゃ…………」
白哉の目が見開かれる。黑は言葉を続けた。
「もう二度と戻るまいと思っとった。
……俺が鬼として生きることを選んだ場所じゃ。
人を避け、心を閉ざし、怒りと憎しみに沈み……
そんでも生きるしかなかった。俺の……終わったはずの拠点ばい」
記憶にある冷たい洞の闇が脳裏に過る。
あの頃、誰の声も届かず、誰の温もりも届かない場所に黑は独りでいた。
幽世に存在するはずがない場所。
(……なして、ここさ?)
そう思った次の瞬間。視界が、歪んだ。
「……っ!」
靄の奥から、誰かの声がする。
『たすけて』
その声を聞いた瞬間。黑の身体が、無意識に動いた。
洞の奥へ足を踏み入れる。奥で何かが蠢いていた。
白哉も慌てて後を追おうとしたが、
黒い気配のようなものが洞の入り口に滲み始め、足が一瞬止まる。
洞窟の奥、黑の目に映ったのは……如月だった。
髪を乱し、衣を引き裂かれ、苦悶の表情で地に伏す如月の身体の上に、
見知らぬ男の影が重なっている。
「やめろ……っ!!」
黑の怒声が洞窟に響いた。
喉の奥から唸り声が漏れ、血が煮え滾る。
頭の奥で理性の声が叫んでいるのに、もう抑えられない。
封印の模様が刻まれた額が、赤黒く光を放つ。それと同時に。
ごうっと音を立てて、闇が膨張する。
爪が伸び、角が浮かび上がり、瞳孔が開く……――――そこには、
我を忘れた【鬼】の姿があった。
「殺す……全員、ぶっ殺しちゃる!!」
目の前の幻覚に我を失い、暴走する黑。
洞が震え、天井の岩が砕け落ちる。その時、白哉の声が響いた。
「黑! 落ち着け!!
それは幻や! 目を覚ましぃ!!」
しかし、黑の耳にはもう届かない。
その姿を見て、白哉は一瞬だけ目を伏せる。
そして、静かに呟いた。
「……しゃあないな。ほんまは、使いたなかったけど」
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