見出し画像

【愛縁奇縁/現世編】第零話:静寂に咲く祈り

 風が吹いた。

 山奥の澄んだ風がすり抜け奥宮の格子窓へ辿り着く。
 木々と湿った苔の香りが漂う。遠くで鳥が囀っている。

 静寂の中に、かすかな命の気配があった。

 窓の内側、薄暗い部屋の隅に一人の少女が座っている。

 少女は藍と白を基調にした衣を幾重にも重ねていた。
 装束は十二単に近いデザインで現世の布とはどこか違っている。
 肩から流れる髪は雪のように白く、櫛の通った艶が灯火に鈍く反射した。
 背筋を伸ばし、静かに膝を揃えて座っている。

 一見幼いが、どこか大人びた雰囲気を纏う。
 少女は、格子の向こうに広がる青空を見つめている。

 瞳は澄んだ赤紫色だった。深淵のような仄暗い光を宿している。
 やがて一羽の鳥が格子窓の外を横切った。
 白い腹、グレーの翼。尾羽を広げ、自由に風を切って飛んでいく。

 少女はその姿をじっと追っていた。

「……あんな風に、飛べたら良いのに」

 声は小さく、風にかき消される。
 少女自身も、本音が漏れたことに気づいていないようだ。

 その一言には孤独が滲んでいる。

 鳥の姿はやがて、山の稜線の向こうへと消えていった。
 少女は瞼を伏せ小さく吐息をつく。
 衣擦れの音さえ響かせない静かな動作。

 だがそれは、どこか諦めのようでもあった。

 この部屋から、外に出ることはできない。
 理由はわからなかった。そういうものだと理解している。

  ……外の世界は危うく、
 汚れていて少女のような者には相応しくないのだと。

 少女は膝の上で手を重ねたまま、もう一度窓の外を見た。
 空は高く、青い。どこまでも透き通っていた。

「……あの人は、今日も来ないのかな」

 誰にともなく呟いた声には、わずかな期待が混じっていた。
 ほんの僅かに残った光にすら縋るような、無垢な祈り。

 そのとき、部屋の外で草履の音が一つだけ。
 石畳を踏むように響いた。

 少女の指がぴくりと動く。けれど顔は上げない。
 希望を抱くには、少女にはまだ勇気が足りなかった。



 音はすぐに消えた。まるで気のせいだったかのように。
 揺れた灯火が、少女の心にもかすかな揺らぎを残した。

▶次の話


いいなと思ったら応援しよう!