0.01秒の王冠
師走の中山競馬場。冷たく乾いた空気が、俺の大きく膨らんだ鼻腔を刺す。
ゲートの中は狭く、金属の冷たさが冬毛を通しても伝わってきた。隣の枠で、鹿毛の牝馬が焦れてゲートを蹴る音が響く。
「落ち着け、ミラン。お前は風だ」
背中の上の相棒(ジョッキー)が、俺の首筋を軽く叩きながら呟いた。手綱から伝わる微かな震え。それは恐怖ではない。武者震いだ。
分かっている。今日、この日のために俺たちがどれだけ走ってきたか。
視線を横に向ける。二つ隣の枠に、巨大な黒い影が鎮座していた。「ヤマハブラック」。現役最強と呼ばれる漆黒の帝王。
奴は前だけを見据え、微動だにしない。まるで周囲の馬など眼中にないと言わんばかりの、圧倒的な静寂。その巨体から放たれる重圧だけで、周りの空気がピリピリと肌を刺してくる。
……フン、相変わらず愛想のない野郎だ。だが、その背中、今日は必ず俺が追い越す。
ガシャアン!!
ゲートが開いた瞬間、世界が後方へと弾け飛んだ。
俺は蹄(ひづめ)で芝生を深く抉り、一気に加速する。冷気が顔面に叩きつけられ、耳元で風が唸りを上げた。
最初のコーナーまでの先行争い。外から何頭かが斜行してくる。俺は相棒の指示に従い、中団の内ラチ沿い、一番経済的なコースに潜り込んだ。
1周目のスタンド前。十万人の人間の叫び声が、巨大な音の塊となって押し寄せてくる。だが、今の俺にはただの風の音にすぎない。
俺の意識は、馬群の熱気と、蹄が地面を叩くリズム、そして前を行くヤマハブラックの黒い尻尾だけに集中していた。
向こう正面。レースが動いた。
これまで悠々と先頭集団を眺めていたヤマハブラックが、外からゆっくりと進出を開始したのだ。その動きは、巨大な戦艦が舵を切るように重厚で、不可避な力強さを持っていた。
奴が横を通過する際、強烈なプレッシャーが波のように押し寄せた。隣を走っていた栗毛の馬が、恐怖に駆られたように一瞬ひるむのが気配でわかる。
――どけ。王のお通りだ。
言葉はなくとも、奴の全身がそう語っていた。
だが、俺は違う。俺はずっと、この瞬間を待っていた。
「行こう、ミラン!」
相棒が、手綱をわずかに緩めた。合図だ。
俺は全身のバネを解放した。前を塞ごうとする馬と馬の狭い隙間――ほんの数十センチの「道」に、俺は自らの体をねじ込んだ。
両サイドから馬体がぶつかってくる。熱い筋肉の塊が擦れ合い、汗の匂いが立ち込める。俺は弾き飛ばされまいと、四肢に力を込めて踏ん張った。
ここで引いたら終わりだ。ここは俺の道だ!
第3コーナーから第4コーナー。カーブの遠心力が俺たちを外へ外へと振り飛ばそうとする。
ヤマハブラックは、その遠心力すら味方につけ、大外を豪快にまくっていく。俺は内側から、奴の影を必死に追った。
そして迎えた、最後の直線。
中山名物、心臓破りの急坂が目の前に立ちはだかる。
肺が焼けそうだ。乳酸が溜まった脚は鉛のように重い。
だが、視線の先には、まだ奴がいる。
逃がすか。絶対に、逃がすかッ!
俺は最後の力を振り絞り、坂を駆け上がった。一完歩ごとに、奴との差が縮まる。半馬身、クビ差。
並んだ。
その瞬間、ヤマハブラックの瞳が、初めて俺を捉えた気がした。驚愕、そして焦燥。あの鉄壁の帝王が、俺の気迫に揺らいでいる。
俺たちの間を、切り裂くような風が通り抜ける。
二頭の馬体が完全に重なり合い、一つの塊となってゴールを目指す。
背中では相棒が懸命にムチを振るい、俺を鼓舞する。
「差せえぇぇぇッ! ミラン!!」
叫び声に応えるように、俺の筋肉が悲鳴を上げて収縮する。限界なんてとっくに超えている。動かしているのは、意地だけだ。
残り100メートル。
ここからは、魂の削り合いだ。
ヤマハブラックの重戦車のようなパワーが、俺をねじ伏せようとする。
俺は、風になるイメージを捨てない。より低く、より鋭く、地面を掻く。
王冠は、俺がもらう!
ゴール板の白い線が、目の前に迫る。
俺たちは同時に、首を限界まで伸ばした。
――刹那。
世界から音が消えた。
俺は、自分の鼻先が、ほんのわずか、髪の毛一本分だけ、奴より先に空気を切り裂いた感触を得た。
ゴールを過ぎ、極限の緊張が解ける。
ゆっくりと減速する俺の耳に、場内アナウンスの絶叫が飛び込んできた。
『ハナ差だ! わずかにハナ差ァ!! 勝ったのは内のミランシンクオー!! 王者をねじ伏せたぁぁッ!! 歴史が変わった瞬間です!!』
勝ったのか。俺が。
荒い息をつきながら、隣を見る。ヤマハブラックが、悔しげに、だがどこか認めるように大きく鼻を鳴らし、静かに去っていく背中が見えた。
その時、たてがみに、ポタリと熱い雫が落ちた。
「ありがとう……っ! ありがとう、ミラン……! お前は最高だ……!」
背中の相棒が、俺の首に思いきり抱きつき、子供のように泣きじゃくっていた。
おいおい、泣くなよ。俺の背中が濡れるだろう。
だが、その腕の強さから、震える声から、彼がどれほどの重圧と戦ってきたのかが伝わってくる。
俺は短く鼻を鳴らし、少しだけ首を下げてやった。
よくやったな、相棒。これは俺とお前、二人で掴んだ王冠だ。
大観衆の拍手が、地鳴りのように俺たちを包み込む。
0.01秒。その僅かな時間に懸けた戦い。
冷たい冬の風が、火照った俺の体を心地よく撫でていった。今、この瞬間、中山の風は俺たちのために吹いていた。
実況者視点⬇️
ヤマハブラック視点⬇️
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