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【創作大賞2024応募作】 母・子おる 第二話


ピンクの淡いドレスを纏い、手にはマイクを持っている。まもなく自分にスポットライトが当たるのを今かと待っている。普段から慣れていることなのに、緊張のあまり手に汗をかいている。ここは意識を集中させるため、大きく深呼吸をするのだ。

「いよいよ準備ができたそうですね。それでははりきって歌ってもらいましょう。カモメが翔んだ日、どうぞ。」

ジュリーやピンクレディーなど大勢のミュージシャンたちが横で見ている中、僕は心を込めて熱唱する。

ハーバーライトが

ハーバー、ん?

ハー、あれ…

見た目は渡辺真知子なのに声は僕のままだ。しかも音痴、どういうこと?そんなことってある?

演奏が次第に止まり、司会者の井上順と芳村真理が僕の前に恐る恐るやってくる。

「今日はどうしちゃったかなぁ、ちょっと調子が悪かったかな。そんじゃもっかい気を取り直していってみよっか」

井上順は笑顔でとても優しかった。

「すいません。僕、見た目は渡辺真知子ですが、中身は植木克巳なんです。」

井上順は吉本新喜劇のように大きくずっこけ、真理さんは、どうもーーーーとしか言わなかった。

ジュリーを見ると、コロッケがモノマネするジュリーに寄せ、ピストルを持つ格好で決めていた。

いきなり番マスのダン池田がイントロのカウントを刻み、テンポ早めで伴奏を始め出した。

中央のステージの前には、何故か本物の渡辺真知子がいた。

え、何それ?じゃ僕は今、誰になってるの?
二人いるってこと?

ハーバーライトが、朝日に変わる

その時一羽の
かもめーがーがーがが、がーがーががが

ががががが、がーーーーーーーー

あれ、レコードの針がとんだようなおかしなことになってる。それにこの声、本物の渡辺真知子さんじゃない。バッタモンのCDで売られてる偽物の歌手だ。てかどこかで聞いた声だなぁ。

「何見とねん」

え、ステージの偽声真知子が僕をきっと睨み、こっちに距離を詰めてきた。

「こんなとこで油売ってたらあかんがな」

あ、この声、そしてこの関西弁。

偽声真知子は不意に右手を首の上辺りからぐいっと引っ張り、自ら仮面を剥いだ。
ここでいきなりミッション・インポッシブルかよ。

「例のぶつ、はよちょうだいな」

男が僕のドレスを捲ろうとしたので、咄嗟にジュリーたちのいる方へ駆け寄った。

さっきまでいた司会者や歌い手はそこにいなかった。ダン池田だけがこの様子をじっと見ていた。僕と目が合った瞬間、彼は素早くカウントを刻みまた伴奏を始めた。

振り返るとさっきの男が、ステージ中央にスタンバイし、マイクを握り歌い始めた。

ハーバーライトが朝日に変わる

男はオペラのような声量で、とても綺麗なトーンで巧かった。

その時一羽のかもめーがーがーがが、がーがーががが

ががががが、がーーーーーーーがっがっがっ

あーあ、かもめじゃなく、また針が飛んでるよ。

不倫も痴漢も絶対あかん、不倫も痴漢も絶対あかん…

どこかで聞いた字余りライムが、遠くの方から聞こえてきた。

その声のする方へ向くと、赤いカーテンがひらひらと揺れ動いていた。

これよく見るんだようなぁと思いながら、勢いよく開けて見ると、そこに見覚えのある人がいた。

「がーがーがー寝てからに、おい克巳、起きろ。かもめがとんだーやないねん、お母さんもう仕事いくで。ほな頼むで」

スマホを見ると、月曜の午後二時だった。どうやら今日はかもめが翔んだ夢のようだった。ただ歌声だけは僕のままという、どうせなら見た目より歌声がそうあってほしかった。特に歌がうまくなりたいわけでもなく、また意に反した夢だなぁと思いながら、僕はリビングのソファに腰を掛けパズドラをしながら、ティックトックを流し、飲みかけのファンタオレンジをちびちびやった。キッチンの窓からうっすら曇り空が見える。今頃クラスメイトたちは当たり前のように勉学に励んでいるんだろうなと思ってたら、小腹が空いてきたので、五つセットで二百円の醤油ラーメンを作りながら、そのまま鍋ごと啜って食べた。これだけ毎日食べてたら、流石に飽きてくるかと思ったが、毎回初体験のように美味しいのだ。

ソファに深く腰を掛け、僕は時間を気にすることなく、特にやりたくはないのだがパズドラをやり続ける。朧げにテーブルの上に作りかけの四体のフィギュアが横たわっているのが見えた。

あ、すっかり忘れてた。

昨年二年の時に美術の時間に作った笑い飯の鳥人ネタを真似たフィギュアが、思った以上に好評で、当時同じクラスで今も仲良しの塩山美優 しおやまみゆと坂下希 さかしたのぞみこと、のんちゃんたちから、もっと作ってほしいと頼まれるようになったのだ。ほとんど美優の大好きなお笑い芸人か、のんちゃんの大好きなミュージシャンで、今回はのんちゃんのリクエストで二年前に再結成したイエモンの五枚目のアルバム、フォーシーズンから四人のメンバーを再現してみたのだ。ロビンのぐいーんと手招きする格好が、我ながらうまく表現できたと思う。僕たちは今時の流行より、何世代も前のものに興味があった。特に僕は昭和のバタくささが大好きだ。かぶれているのにかぶれきれていないダサさに愛おしさを感じるのだ。古き良き時代こそ知らないが、いいものはずっといい。ありがたいことに今は何でもユーチューブやティックトックで簡単に手に入る。とりあえず今作も、のんちゃんに喜んでもらえたら嬉しい。

あとここだけの話、僕は中学に入りほんの数ヶ月しか登校していないのだ。学校へ行かないことに心苦しくなった時代はもうとっくに終わった。逃げではなく、そこに意味がないことを悟ったからだ。

村八事件の後、僕はクラスメイトに不信感しかなかった。もちろん一番悪いのは由里香で、確かに村八は被害者だったかもしれない。しかしあの時の後始末が酷すぎた。

「あんた飛び出し坊やか」

僕はとばっちりを受けただけなのに、あの事件で一番の笑いものにされた。その後休み時間にとびかつというワードがあちこちから聞こえてきた。飛び出し坊やの克巳を略しているのだろう。僕はそいつらを思いっきり睨んだ。

あれはないよねー、酷かったよねーと言いながらみんなヘラヘラしている。その度に由里香や村八の顔も浮かび、腸が煮えくり返ってくる。由香里が吐いた唾の臭いも酷かったが、それを見ていたクラスメイトたちは何故笑いに変換できたのか。殺人事件の被害者の姿を見て、普通に笑えるサイコパスと同じではないか。僕はもう悔しくて悔しくて仕方がなかった。あの日のことを笑いに転じるなど到底できるわけがない。今もあの屈辱が深く心に刻まれているが、その当時はそれを見せないよう必死で抑えていたのだ。すると勉学も身体能力も気後れして、次第に自分の殻に閉じこもるようになってしまったのだ。自分で作った安心なスペースだけは絶対に侵害させたくない。フィギュア作りは時間を忘れ夢中にさせてくれるものではあるが、特にやりたいことでも好きなことでもない。最初のきっかけは、ねーちゃんがたまたま置いていった粘土を手持ち無沙汰で触っていたら、それがスヌーピーみたいだと突っ込まれ、もっとやってみせてよと言われ、ドラえもんやミッキーマウスなど適当に作ったところ、すっごくいいと気にいってくれたからだった。ねーちゃんはあまり人を褒めない、妹の僕にはかなり当たりはきつい方で、そのねーちゃんに褒められたことは僕が唯一胸を張れることだった。学校へ行かなくてもできることはあり、それを喜んでくれる人のために捧げる大切さを教えてもらったのだ。学校へ行けばまたあのような辱めに遭わされる危険性があり、それがいつも怖かったのだ。必死でついていこうと頑張っても、わからないことをわかりませんと正直に言えない。勉強ができないと学校では落ちこぼれとなり、それなら不登校だから頭が悪いんだと思ってもらった方がまだマシに思えたのだ。もちろん一般的にそれが理解されないことは重々承知している。でもまだあの時のことを許すことが僕にはできない。

僕を馬鹿にするな。僕の心が僕に訴えてくるのだ。

あの日帰宅早々、僕は母にありのままを伝えた。母は珍しく口を一切挟まず最後まで聞いてくれた。それで克巳はどうしたいんやと尋ねられ、僕は悔しさのあまり復讐したいと言いたかったが、母の望んでいる答えではないことと、その復讐方法が子供じみた磔の映像しか思い浮かばなかったのだ。ずっと泣き止まない僕の様子を見て、母はすぐに学校へ駆け込み、夜遅くまで先生たちと渡り合った。

「結局校長先生と村田先生謝ってくれはしたんやけど、なんかすごく薄いんよな、あんまり誠意も感じひんかった。私じゃなく、娘にそれを伝えてほしいと言ったら、はいわかりましたと、村田先生魂抜き取られた人みたいに空返事やし。あとお母さん一番腹が立ったのは、校長先生が帰り際に、お姉さんの宏海ちゃんは元気ですか、宏海ちゃんはスポーツ万能で成績も優勝で、クラスの人気者でしたねーて言うてきたことやねん。今宏海のことは全然関係ないし、それと克巳がされた仕打ちを何比較しとんねんて。克巳はその逆やから虐められるんやとでも言いたかったんか。お母さん校長先生きっと睨んでやったら、狐につままれた顔してたわ。いやちゃうやろその顔、こっち側の表情とるなよって、あーこりゃあかんわって思ったわ。」

ねーちゃんと比較して、できの悪いのが僕だということは誰でも知っていることだ。学校にはもしかすると母はモンスターペアレントに映っていたかもしれない。でも我が子のために戦ってくれるモンスターなら、最早ヒーローだと言ってもいい。仮に両者の言い分をしっかりジャッジする第三者期間があっても、それは形だけの和解で、立場の弱い方が泣きを見るだけだ。結論傷つけた傷つけられたの双方に、加害者被害者としての遺恨を残させてはいけないというシンプルなことだ。てか僕はどうしていつも、られる側の人間で、被害者になってしまうのか、心当たりがないが故に、とても辛かった。

完成したフィギュアをスーパーの袋に収めながら、将来フィギュア職人になることを想像してみたが、全く絵が浮かんでこなかった。てかフィギュア職人てなんなんだ。それよりも機械的にシステマティックにできる仕事に就きたいと思った。AIができることに少し人間フレイバーで補ったもの、例えばマンションの管理人さんとか、工場で流れ作業のチェックする人とか、プールの監視をする人とかそういうやつ。何なら機械そのものになりたいぐらいだ。機械のように達人レベルになれば、誰からも文句を言われないだろう。そう、文句を言われない仕事に就けばいいのだ。少額のお金だけ稼げる最低限の生活ができればいい。あいつのように家族を犠牲にした仕事など絶対にありえない。だからあいつは地獄行き決定なのだ。家族を犠牲にした人間はいくら公正しても地獄行きだと、古本屋で立ち読みした分厚いサブカル本に書いていた。家族ではないが、生徒から金を搾取する野内もきっと同じく地獄行き確定だろう。

食べ終えたラーメンをゴミ箱に投げようとすると、表で自転車のスタンド音がした。高音が届かないビリー・ジョエル、ストレンジャーの口笛、あいつが帰ってきた。

てか占いの仕事は?

「ただいまー、克巳なんか食べたか?ええのあるぞー」

玄関から勢いよく入ってきた。

もしかしてあいつズル休みかなのか。部屋着のアダディスと大きくプリントされた上下赤のよれよれジャージを着ていた。何故か見るたびに合わなさすぎてこっちが悲しくなる。

あいつはゴミ箱のカップ麺を見て僕の食事をチェックしている。

僕はパズドラをしながら無視をしていた。

「あずきバーと御座候、どっちがええ?」

冷たいのとあったかいのと両極端はまだしも、僕があんこを嫌いなことをあいつは知っているはずだ。だから僕はまだ無視を決め込んだ。

「克巳は食わず嫌いやのー、そんなんじゃ成長止まるぞ。栄養とってボンキュッボンならんとな。」

きもきもきものKKKだ。クークラックスクランに燃やされてしまえ。

「ほな蟹味噌食うか?さっき阪神で買うてきてん」

はぁ?何で昼間に蟹味噌なんだ。

てか仕事は?占いはどうしたんだ。さっきからちょっと何言ってるかわかんないんですけど。ノールックでパズドラ熱中モードで決め込むしかない。

「おい克巳、人が話ししてるねんぞ、ゲーム消せよ。なんやその態度は。ほんでお前いつになったら学校行くねん。いつまでサボり続けるねん、早よ行けよ」

出た。こっちの反応が気に食わないと逆切れする。そして必ず学校へ行かせようとするいつものやつだ。

「パパついて行ったるから、早よ準備せぇ。」

そうだ、仕事をズル休みする時は必ず女と会う約束があるからだった。内容を聞かれたら困る時、必ず僕を追いやろうとする。以前渋々学校へ行ったものの、結局正門へは入らずコンビニで適当に時間を潰し帰宅してみたところ、表まであいつの電話の声が筒抜けだったのだ。

「爆発的に上がる集客の方法教えたるからさぁ、今から飲みに行こうや。俺は君が一番才能あるとみてるねん。それに誰よりも綺麗やし、正直惚れてるかもしれない。才能だけやないよ。君自身そのものにやで。もうゲッチュウしたいわ」

よくもまぁそんな下手な口説き文句でと呆れながら、僕は息を殺し最後まであいつの行動をチェックしていた。そう言う時のあいつは、相手が落ちるまで粘り強く、冗談モードからやがて迫真の演技に変わり、迫り続けるのだ。電話だと顔が見えない分、声の起伏でコントロールしやすい。狙った獲物を逃さないスイッチも入っているのだろう、最終的に会う約束までとりつけているのだ。その日も今日と同じように、僕を無理くり学校へ行かせたのだ。翌日あいつのDMをチェックしたら、ここじゃ言えないほどの恥ずすぎる内容のものがあったのだ。ただあいつはやった女とは、確実にDMが減っていくようだ。典型的なヤリモクタイプで、鑑定や育成などのビジネスという看板を盾にし、ただ女と一発やりたいだけの変態詐欺師なのだ。相手からそういう苦情が出ないよう、育成という隠れ蓑を利用している最低なやつなのだ。

仕方なく今回も僕は学校へ行くふりをして、近所の百均と古本屋とコンビニを梯子する。それでも中々時間は過ぎない。流石に十七時になればもう大丈夫だろうと帰宅してみたら、まだ表にあいつの声が筒抜けだった。

「誰がそんなん言うてるんですか。僕は独身ですよ。まっさらですよ。人の噂なんて信じちゃ、だめよだめよだめなのよーん」

いやいや島田一の介で落ちる人にも責任あるだろう。僕は注意してやろうと玄関の扉を勢いよく開けた。

「あーではそう言うことで、ではでははーい、またーよろしくー」

めちゃくちゃわかりやすい態度だった。

「克巳おかえり。えらい早かったなぁ。で、学校どうやった?」

「別に、普通」

やけに機嫌の良さそうなあいつに、呆れてものも言えず、僕は寝室の布団の中に入りパスドラをした。全然集中できずただ苛々した。胸の中が熱く燃えているようで、その炎を何とかしないと爆発しそうだった。するとリビングから水屋の棚を何度も開閉している荒々しい音が聞こえてきた。あいつはまたお母さんのお金を盗もうとしているに違いない。慌ててリビングに行くと、あいつは目を会わさず、僕の横をしれっと通り過ぎようとした。

「今、お母さんのお金とった?」

「克巳、お前なぁ、親に何ちゅう口聞いとんねん。」

「この前、ここからお金とったでしょ?お母さんから怒られたでしょ。うちのこと学校へ行け言う前に、自分はどうなのよ。占い師の仕事はどうなったの?」

「うるさいやっちゃのう。親に偉そうな口叩くなぼけ。お前今まで誰に食わしてもらってきたんじゃ」

「お母さんや」

「ちゃうわ、パパが一生懸命働いて稼いできた金でやってこれたんやろが。今はたまたま実を結んでないだけで、ここからでっかく稼ごうとしとるんじゃ。親の苦労も知らんと偉そうな口叩くな。宏海のバスケみたいにお前には天性の才能ないやろが。でも気落ちするなパパもそうや。そういうタイプは一生学習せなあかんねん、だからパパも稼ぐための学習をしとるんやないか。これは投資や。お母さんにもちゃんとそう伝えとる。ええか克巳、お前の本分は学校で勉学を学ぶことや。それができてから親に文句言え。わかったか」

ふん、よくこれだけ自分の都合のいいことペラペラと言えるものだ。呆れてものが言えない。

「何やねん、まだ何かい言いたそうやないか」

「別に。言うても一緒や。早く女のとこ行けば?」

あいつの目が一気に狼狽えた。あいつは否定も訂正もせず、無言で寝室に入り着替えを始めた。どうやら図星でも強行突破するらしい。何があいつをそこまで駆り立てるのだろう。もうお母さんに正直に話すしかなさそうだ。

「克巳お前何か誤解してるみたいやけど、まあええわ。パパ勉強会行ってくるから、ほなな」

あいつは黒のタイトスーツにボルサリーノを被り、ほんのりミント系の香水を付けていた。とても勉強会に行く格好には見えなかったが、もうどうでもよかった。

「これ少ないけど、何か美味いもんでも食べーや」

あいつは僕にポチ袋を手渡そうとしたが、咄嗟に弾いてしまった。

「口止め料なんかいらん。それにこれお母さんのお金だし。お母さんにそのまま返しとくから」

あいつは僕をしばらく睨みながら、落ちたポチ袋をゆっくり拾い、中身だけ抜き取り、袋をぐるぐる巻いてゴミ箱に投げた。

「お母さんに言うよ。」

「何のことじゃ、金か」

「どっちもや」

なんでわかってくれへんかなぁ…とあいつは頭を傾げながら結局出て行った。それまで張り詰めていた糸が切れたように、僕は大きく溜息をした。世の父親にあんな奴がどれだけいるのだろう。言ってることとやってることがめちゃくちゃなのに、どうして自分を正当化できるのだろう。親が子供に何を言っても許されると勘違いしている。ものやペット、いや奴隷としてみているに違いない。喉がカラカラになったので飲みかけのファンタを一気に流しこんだ。ふとキッチンにあったナイフが目に入った。もしさっき近くにあったなら僕はあいつを刺していたかもしれない。自分の中の殺意を感じたのは正直ショックだった。

「はーい、行ってらっしゃーい。わぁあかんあかん、ぶつかるーーー」

ちょうど入れ替わるように母の自転車の長いブレーキ音と、ドスンと壁に激突する鈍い音が聞こえた。三階建て木造アパートの一階はそれでなくてもよく周りの音が聞こえる。玄関横の窓の隙間から、たくさんのエコバッグを抱えた母が横転しているのが見えた。

「お母さん大丈夫?」

「ブレーキの握るとこ、伸びきってもてカンカン当たってるわこれ」

どうやらブレーキが切れて止まれなかったようで、母だけ直前に飛び降り自転車だけが壁の方で横たえていた。僕は母の自転車を駐輪場へ置き、母をゆっくりと起こし片方のエコバッグを持った。また三十%引きのシールの貼られたカリカリの唐揚げや、乾燥して小さくなったコロッケを大量に買ったようだ。

「克巳、あんた何か食べたん?」

母もあいつも何故か帰宅すると、食事の有無を確認する。その答えがどっちにしても、食事ネタは続かない。十九時になると母は四つ目のパートへ行くため、その前に早めの夕飯を済ませる。ルーティン化できるまで母は毎日殺気立っていた。言葉にはしないものの、話しかけるなオーラが全開だった。まるで東映の竜二で、奥さんが最近野菜の値段が上がってと言った瞬間、竜二が切れてしまうあのシーンのような緊張感があった。

母との夕飯の時間、僕がほぼ聴き役にまわる。パート先の運送会社社長、道元天空 みちもとてんくうさんはお寺のお坊さんでもあり、その日あった珍エピソードを社員にポロポロと喋るそうだ。その話は当然僕にも回ってくる。僕は話を聞いているふりをながら、母の小皿からコロッケをそっと取りそのまま口に入れる。

「わー克巳引っかかったー」

うへ、まずっ。中身はかぼちゃだった。僕はかぼちゃが大嫌いなのだ。いや、イチローと同じで野菜が全部駄目なのだ。かぼちゃコロッケとカレーコロッケは毎回引っかかってしまう。母は僕の表情を見て大爆笑しながら、天空さんの話の続きを忘れてしまったようで、口をパクパクさせている。いずれにしても浮気や不倫の話はどうでもよかった。大人はそう言う話が本当に好きだ。それよりももっと大事なことがある。あいつの今日のことだ。僕はそれを言い出そうか言い出すまいか逡巡していた。

母は食べ終えるとすぐに、古着のせどりの作業を始めた。お給料は商品が売れたらではなく、掲載するだけで手数料をもらえるようだが、単価はかなり安いらしい。昼のお弁当屋のパートと、このせどりと合わせても、家賃にもならないと漏らしていた。あいつがちゃんと家にお金さえ入れれば、母はもっと楽ができるのに…。僕が社会に出るまでもつだろうか、あいつはどうでもいいが母だけは一生守るつもりだ。成人まであと六年だ。こっちからあいつに絶縁状を叩きつけてやるつもりだ。

母は隣で出品作業をしながら、毎週録画したドラマの続きを見ている。

「まさみもええけど、東出君もええなぁ。前のドラマよりも演技上手なってるわ。」

「前、何に出てたの?」

「知らん。覚えてない。演技は受ける側の方が難しいからなぁ。」

「へぇ、そんなに受け身の印象ないけど」

「克巳ちょっと黙って、セリフ聞こえへんかったやん。今この子なんて言うたん?」

母は巻き戻しボタンを押したようだが、一番最初まで戻ってしまい、イライラしていた。こう言う時はあまり声をかけるとややこしい。

母は若い頃、女優になりたくてオーディションを受けたことがあるらしい。中井貴一や真田広之などと一緒に映った写真を何度か見たことがあるが、何の映画で何の役かもわからない。きっとただのエキストラだろう。そこもあまり突っ込まないようにしている。

「そうだ克巳、明日宏海のお墓参り行くで。あとで黒のワンピース出しといてな、アイロンかけとくから。それからお線香も買っといてな。残りあんまりなかったはずやから。それとフルーツも適当に買うといて」

僕はすぐに箪笥の引き出しに置いている線香を確認した。まだ少し残っていたが、後で出かける用事もあったので、コンビニへ寄ることにした。

「あ、それからパパ何時頃出かけたか覚えてる?ライン全然見てないみたいやわ」

「え、お母さんと入れ違いだったけど、外で会わなかったの?」

「知らん。」

「あれ?行ってらっしゃいて聞こえたけど」

「あーあれは美優ちゃんのお母さんに言うたんやん。ちょうどお店向かってたみたいで。あんたよう覚えてるなぁ。ほんでパパ何時頃家出たん?」

「五時過ぎぐらいだと思うけど」

「ちゃう、もっとや。六時頃とちゃうやろか?」

母が唇を噛みながらあいつのアリバイを聞く時は、あいつに疑惑のネタを掴んだ時だ。大体がお金、次に女、この二択だ。今日の母のトーンはおそらく後者だ。母ももう知っているのかもしれない。ここで答え合わせするのがいいのかもしれない。それにあいつ、また今日も水屋の引き出しからお金をとっていたはずだ。

「あかん」

え、と思わず声を出してしまった。

「時間ないわ、行くわ」

さっき自転車が故障したので、四つ目の清掃のパートまで走って行かなければならず、時間がギリギリになるらしい。言うタイミングを逃してしまったところに、美優からラインがきた。

“のんちゃんも誘ったで。この後飲み会するから待ってるで”

美優のお母さんは駅前で水商売をしているため、夜は彼女の家が溜まり場となる。どんちゃん騒ぎすると、壁が薄いので隣の人から、う、る、さ、い、ぞとドリカムじゃないが、壁を叩きながら怒鳴られる。一度チャイムを鳴らし苦情を告げにきたことがある。教頭先生そっくりの、いかにも堅物そうな人で、叱りながら部屋の中を覗こうとする態度がきもかった。

美優がキッチンで慣れた手つきでジュースを準備している間に、僕は完成したばかりのイエモンのフィギュアを、袋ごとのんちゃんへ渡した。のんちゃんは見た目のふわっとした雰囲気とは裏腹に豪快に袋を破り、ロビンとヒーセを両手に持ち、交互に蹴りを入れたりパンチを入れたりしている。ロックスターだろ、戦隊モノと勘違いしているようだ。

僕はいつも二人の聞き役、いやツッコミ役となった。美優がいきなり暴投を投げてきて、時々しどろもどろになることも多々ある。

「で克巳、どうするの?翔太のこと」

「しょ、翔太?どうもしないよ。何もないし」

「いや、翔太は克巳のこと好きなんよ。あたし聞いたもん」

「あたしも聞いた。翔太わざわざ休み時間に四組まできて、植木さんと次いつ会うのとか。植木さんのフィギュア僕もみたいなぁとか、ちっちゃい癖にぐいぐい聞いてくるの」

「ちっちゃいの関係ないし。でも二人ともさぁ、うちそれ聞いてどうしたらいいの?」

「だから、ちょっとだけでも学校来ればいいじゃない。そしたらわかるから」

「そうそう、翔太も克巳と次会えるのが、いつになるかわからないから、絶対焦って告ってくるよ」

「いやそれなら余計行きにくいよ。翔太はいい子だけど、うち何とも思わないし。」

「あたしも翔太無理」

「美優、うち無理とは言ってないよ。何とも思わないのよ」

「やっぱり克巳は、孝四郎さんのことが気になるんやなぁ」

「美優、それ言っちゃダメだって。」

「何それ、あんたたち、まだそんな風にみてるの?うちは絶対ないって。」

「だって克巳が孝四郎さんのこと話してるとき、目がマジなんやもん。でも孝四郎さん、きっと辛いやろうなぁ。」

「美優、克巳はやっとほとぼりが冷めてきてるんだから、これからは翔太なのよ、ね、克巳」

翔太は確かにめちゃくちゃいい子なのは知っている。純粋で真っ直ぐな性格で裏表がない。勉学ができそうで実際それほどでもないギャップも割と好きだ。紙飛行機を広げ村八へ渡したのはわざとではなく、それが手紙だと思ったからだ。大切なメッセージが書いてあると思い、それを先生に発表してもらおうとバトンを繋いだだけだと真顔で言う翔太は確かに可愛い。ちっちゃいけど。

「僕はとびかつよりもドドメ色の方がウケたよ・だってドドメ色ってうんこだし。」

変なフォローもくれたが嬉しかった。うちみたいなひねくれものには絶対合わないし、不器用な者同士、ほどよい距離感のままが一番いいのだ。

でもまさか二人が今田孝四郎 いまだこうしろうさんのことを言ってくるとは思わなかった。美優にはそんな風に見られていたのか、そんな覚えはないんだけど。それに孝四郎さんはねーちゃんの彼氏だ、いや彼氏だった人。ねーちゃんが亡くなってからも時々尋ねてくれる。猿系の浅黒い顔に逆算体型、スポーツ万能だとすぐにわかるが、逆に頭は悪そうに見える。ねーちゃんと二人でいるときは、ほとんど目を合わさず、頷くかヘラヘラ笑っているかだった。でも野球をすると表情がしまり、バッターボックスの孝四郎さんは、やけにセクシーに見えた。そのギャップにねーちゃんは惚れたんだと思う。うちも実際あのギャップに憧れている。だけど付き合いたいとかそんな気持ちにはならない。ねーちゃんの元彼だった人として、一生刻まれると思う。そもそも僕は恋愛に全く興味がない。付き合うことにどういう意味があるのか。ただの口約束だろう。果ては結婚などまるで契約のようだ。毎日業務命令を下され、奴隷のような毎日に夢もへったくれもない。母とあいつを見てそう思ったのではなく、自分が作る家族というものに昔から興味がないのだ。それに恋愛するという気持ちがどんなものか知らないし関心もない。それを二人に熱弁すると、本当の恋を知らないからだと揶揄される。オメーらも知らん癖に偉そうに。

「そっかぁ克巳はわからないよねー」

「美優、それどういう意味よ」

「だから本当の恋ってやつよ」

「出た、わかるわからんじゃなくて、うちはそもそも興味も関心もないのよ」

「もしわかったら興味を持つんじゃないの?」

「のんちゃんまで。二人ともどうしたの?今日変よ。いや、いつもか」

「何かわからないけど、理屈抜きでこの人好きかも!てなると、胸が苦しくなるのよね」

「私も美優と同じ、吉井さん見るとずっと苦しいもん」

「のんちゃんは恋じゃなくて熱狂的なファンなだけよ。」

「うち、それもないなぁ。今後本気で誰かを好きになること絶対ないと思う。」

「絶対なんてないよ克巳、で、その時が来たら私が言ってる本当の恋の意味がわかるから」

美優のお母さんはきっとそういう言い回しの表現を、お店だけでなく家庭でも娘にしてるのだろう。美優がそのまま成長すると、お母さん同様お客さんからいろんな相談を受け、バッサバッサ切り倒していきそうだ。ただこれまで美優から恋バナなど聞いたことがない。ジャルジャルのネタの話はしょっちゅう聞かされるが、彼女も恋は未経験のはずだ。のんちゃんの場合イエモン一筋だけど、可愛らしくふわふわしている印象から、高校へ進学したらすぐ彼氏ができるだろうと勝手に想像していた。たとえ来年中学を卒業しても、僕らの関係は不動のものでありたい。それは恋よりもずっと上級であってほしいと願いたい。

「もうこれで最後よ。」

そう言いながら美優がリモコンで例の曲を選曲した。

「これかっこいいのよ。みんなでサビ一緒に歌おうね」

のんちゃんがマイクを両手で握りしめている。

美優のお母さんは自宅でもDAMの契約をして、昼間に歌ったりしているそうだ。

「しゃーらーららーら〜らららー。またこの曲かぁ、いつものんちゃん最後にこれ歌うよね。熱帯魚」

「そうそうグッピー可愛いなぁ、ておい。不意のツッコミは苦手なの、ごめん。正しくは熱帯夜な。美優こないだもおかしな間違えしたな」

「日本人はいませんでしたー、いませんでしたー、い〜ませんでしたー、やろ?」

「最後のとこだけ森進一みたいに言うなよ。てかそれタイトルちゃうしな、ジャムやしな」

「なんの?」

「ストロベリーとかブルーベリーとかのあのジャムっぽいけど、あれはメタファーらしいで」

「のんちゃんまた難しいこと言うなぁ、ルシファー吉岡やったら知ってるけどなぁ」

「R1ちゃうし、メタファーは比喩な。つまり歌詞の真っ赤なジャムを塗ってというのは、血を表してるってこと。すごい深い曲なんよ。」

「もういいぜ、どうもありがとうございましたー」

「もう、変なとこで終わらんとってよ。ちゃんと解説させてよ、てか美優いつもサンドイッチマンで締めるー。」

「うんちょっと何言ってるかわかんないんですけど」

なんだかんだ言って僕は二人といると、とても和むのだ。

ここが僕の第二の学校みたいなもんだ。


第三話へ続く


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