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考える世界史 第69節 講義:第一次世界大戦後の欧米諸国②~繁栄のアメリカ・ファシズムのイタリア・社会主義のソ連~

  1920年代、世界の三大国はそれぞれ全く異なる道を歩み始めていました。戦場とならず、連合国への物資供給で莫大な利益を上げたアメリカ合衆国は、世界最大の債権国として「永遠の繁栄」を謳歌します。自動車、ラジオ、映画。大量生産と大量消費が織りなす大衆文化の黄金時代です。しかし、その輝かしい摩天楼の足元では、移民排斥や人種差別という不寛容な影が色濃く蠢いていました。
  一方、戦勝国でありながら経済が破綻したイタリアでは、ムッソリーニ率いる「ファシズム」という新たな全体主義が産声を上げ、暴力によって民主主義を踏みにじります。そして東方のロシアでは、レーニンの死後、スターリンが凄惨な権力闘争を勝ち抜き、計画経済と恐怖の粛清による独裁体制を築き上げようとしていました。
  資本主義の繁栄、ファシズムの暴力、社会主義の実験。この三つの異なる道がやがて1930年代に激突するとき、世界は再び破滅の淵に立たされることになります。

第11章 二つの世界大戦

第69節 講義:第一次世界大戦後の欧米諸国②~繁栄のアメリカ・ファシズムのイタリア・社会主義のソ連~

導入:三つの道

  皆さん、こんにちは。前回の講義では、ヴェルサイユ体制の下で戦後イギリスが経験した民主化と帝国の再編、そしてドイツがルール占領とハイパーインフレの地獄を経て国際協調に復帰するまでの激動を見てきました。
  今日は、この同じ1920年代に、イギリスやドイツとは全く異なる軌跡を描いた三つの大国に焦点を当てます。アメリカ合衆国、イタリア、そしてソ連です。
  アメリカは、第一次世界大戦で戦場にならなかったことで世界最大の債権国となり、資本主義世界の新たな覇権国としての地位を確立しました。一方、イタリアは戦勝国でありながら「持たざる国」としての不満からファシズムに傾斜し、ソ連は資本主義世界から隔絶された空間で社会主義建設に邁進しました。
  資本主義の繁栄、ファシズムの暴力、社会主義の実験。この三つの道がどのように形成され、やがてどこへ向かうのか。来るべき世界恐慌と第二次世界大戦への決定的な伏線を、今日の講義で読み解いていきましょう。

パート1:1920年代のアメリカ合衆国~「永遠の繁栄」~

第1 債務国から債権国へ
  第一次世界大戦以前、アメリカはヨーロッパから資本を借り入れる「債務国」でした。しかし、大戦中に連合国に兵器や軍需物資を大量に供給し続けた結果、莫大な利益を蓄積し、世界最大の「債権国」へと転換しました。その経済力は圧倒的で、1929年にはアメリカの工業生産が世界全体の42パーセントを占め、1923年末には世界の金の約半分をアメリカが保有していたといわれます。世界の金融の中心は、ロンドンのシティからニューヨークのウォール街へと完全に移動したのです。前回の講義で見たドーズ案やヤング案は、まさにこのアメリカの圧倒的な資金力がヨーロッパ経済を支えていたことの証左でした。
  1920年の大統領選挙以降、民主党のウィルソンに代わって、「正常への復帰」を掲げる共和党が政権を握りました。ハーディング、クーリッジ、フーヴァーと3代連続で共和党の大統領が続きます。彼らは外交面ではヨーロッパの紛争に巻き込まれない孤立主義を堅持しつつ(国際連盟不参加)、ワシントン会議やドーズ案など自国の経済的権益に関わる場面では積極的に国際秩序を主導しました。さらに注目すべきは、自国の「裏庭」であるラテンアメリカに対しては、孤立主義どころか、海兵隊を派遣してバナナ=プランテーションの権益を守るなど、武力を伴った容赦ない干渉を行っていたことです。ニカラグアではサンディーノ将軍がこれに抵抗しました。つまり、アメリカの「孤立主義」とは「ヨーロッパの紛争に縛られない」という意味であって、自国の利益に関わる地域には極めて積極的に介入する「二面性」を持っていたのです。国内経済では自由放任主義を採り、大企業を優遇して規制を最小限に抑える政策をとりました。また、1922年には輸入品に対して高い関税を課す関税法が制定され、競争力のある工業製品にまで高関税が設定されました。これはアメリカの国内産業を保護する一方で、ヨーロッパ諸国の対米輸出を困難にし、ヨーロッパの経済復興を阻害する要因ともなりました。

第2 大量生産・大量消費社会の到来
  この時代のアメリカを象徴するのが、フォードによる自動車の大量生産です。1903年にフォード自動車を設立したヘンリー=フォードは、自動車生産の工程を徹底的に合理化しました。個々の作業を細かく分けて単純化し、労働者による分業を徹底した上で、ベルトコンベアを使用した組立てラインで各種作業を同時進行させる流れ作業(フォード=システム)を導入したのです。この大量生産方式により、T型フォードの低価格化が実現しました。1908年の発売以来、約20年間で1500万台以上を販売するという驚異的な記録です。労働者が自分の約半年分の給料で新車を買えるようになり、自動車はもはや富裕層だけの贅沢品ではなく、一般市民の足となりました。
  自動車だけではありません。電気アイロン、洗濯機、冷蔵庫などの家電製品が次々と家庭に普及し、ローン(月賦販売・分割払い)の仕組みが整えられたことで、手に入れたいモノがいつでも手に入るという消費スタイルが定着しました。「いま手元にお金がなくても、将来の収入で払えばいい」。この発想はアメリカの消費社会を爆発的に拡大させました。
  しかし、この繁栄には危うい側面がありました。好景気に酔いしれた人々は、株式投機にのめり込んでいったのです。家庭の主婦までが株の売買に手を出し、ニューヨークでは靴磨きの少年たちさえ今日の株価を話題にしていたといわれます。人々は銀行や証券会社からお金を借りてまで株を買い、株価は実態以上に急上昇しました。モノを買うにもローン、株を買うにも借金。アメリカの繁栄は、借金(信用)の上に成り立つ「砂上の楼閣」だったのです。プロの投資家たちは、この株価の高騰がいつかはじけるバブルであることを見抜いていました。そして1929年10月、その予感は現実のものとなります。

第3 大衆文化の開花
  経済的繁栄は、新しい大衆文化を花開かせました。自動車の大量生産の成功により、1920年代のアメリカにはいち早く「マイカー時代」が到来しました。自動車は人々の生活を豊かにし、行動範囲を劇的に拡大させましたが、同時に資源の大量消費という問題の種も蒔いていました。
  ラジオ放送が始まり、政治や文化の情報が瞬時に全国の家庭に届くようになりました。ラジオは、のちにローズヴェルト大統領が「炉辺談話」として直接国民に語りかけ、世界恐慌下の不安を和らげるための強力な政治的ツールとなります。新しいマスメディアは、大衆社会における政治指導者の求心力維持と大衆動員に絶大な効果を発揮する一方、その力が独裁者の手に渡れば、大衆操作の危険な武器にもなりうるものでした。
  ハリウッドでは映画産業が急成長しました。チャップリンの『キッド』や『街の灯』、ウォルト=ディズニーのミッキー=マウスなど、今日に至るまで愛される作品がこの時代に生まれています。野球などのプロスポーツ観戦が娯楽として定着し、黒人音楽に起源を持つジャズが広く流行しました。文学では、第一次世界大戦の虚無感を描いたヘミングウェイの『武器よさらば』が発表されています。都市には摩天楼がそびえ立ち、アメリカは「永遠の繁栄」という楽観に満ちた空気に包まれていたのです。

パート2:アメリカ社会の光と影

第1 保守化と排外主義の台頭
  しかし、この繁栄には暗い裏面がありました。繁栄を謳歌したのは主にWASP(ホワイト・アングロサクソン・プロテスタント)と呼ばれる伝統的白人層でした。彼らは、都市に流入する東欧・南欧系の「新移民」(カトリックやユダヤ教徒が多い)や、第一次世界大戦を機に南部から北部の工業都市へ大量に移動してきた黒人労働者に対して、自分たちの雇用や伝統的価値観が脅かされるという強い危機感を抱いたのです。大戦中の労働力不足を補うために南部の黒人が北部に流入した結果、シカゴなど北部の多くの都市では白人と黒人の間で激しい人種暴動が発生しました。この「繁栄への防衛本能」が、排他的なナショナリズムへと転化していきました。
  まず、南北戦争後に結成された白人至上主義の秘密結社KKK(クー=クラックス=クラン)が1920年代に復活し、数百万人の会員を集めて黒人やカトリック教徒、ユダヤ人、新移民を激しく攻撃しました。

第2 移民制限と禁酒法
  1924年には強力な移民法が制定されました。南欧・東欧系の新移民の受け入れ枠が大幅に制限されるとともに、日本人などアジア系移民は全面的に入国が禁止されました(排日移民法)。これは日米関係を著しく悪化させ、のちの対立の遠因ともなります。
  また、戦後の社会主義思想への警戒(赤狩り)から、イタリア系移民で無政府主義者とみなされたサッコとヴァンゼッティが、証拠不十分なまま殺人罪で死刑を宣告され、1927年に刑が執行されるという冤罪事件も起きています(サッコ=ヴァンゼッティ事件)。
  さらに1919年には、ピューリタン的な道徳観や戦時中の穀物節約を口実として、酒類の製造・販売を禁止する禁酒法が制定されました。しかし、その実態はアル=カポネに代表されるギャングによる密造・密売の横行を招き、かえって治安を悪化させる結果となりました。禁酒法は1933年に廃止されています。
  このように、1920年代のアメリカは、大量生産・大量消費の「繁栄」と、移民排斥・人種差別の「不寛容」が表裏一体となった複雑な社会でした。

パート3:イタリアのファシズム

第1 戦勝国の不満と戦後の混乱
  舞台をヨーロッパに移しましょう。イタリアは第一次世界大戦に連合国側で参戦した戦勝国です。しかし、パリ講和会議で得られた領土は「未回収のイタリア」(南チロル・トリエステ)のみで、熱望していた港市フィウメやアフリカ植民地の分配は認められませんでした。国民は「骨折り損の平和」として強い不満を抱きました。1919年には、愛国詩人ダヌンツィオが義勇兵を率いてフィウメを武力占領する事件を起こしましたが、これも最終的には失敗に終わり、国民の不満はさらに鬱積しました。
  戦後のイタリア経済は深刻なインフレと失業に見舞われ、ロシア革命に影響を受けた労働者が北部で工場占拠闘争を、貧農が農地占拠闘争を展開しました。社会党左派は分離して1921年にイタリア共産党を結成し、革命の機運が高まりました。既存の自由主義政府はこの混乱を収拾する力を持たず、国民の間に「強い指導者」を求める声が広がっていったのです。

第2 ムッソリーニとファシスト党の台頭
  この社会不安の中で、共産主義革命への恐怖に怯える資本家、地主、軍部、そして中間層が、強力な指導力を求めました。彼らの期待を一身に集めたのがムッソリーニです。
  ムッソリーニは1919年にミラノで「戦闘者のファッショ」を結成し、1921年にこれをファシスト党(国家ファシスト党)へと改組しました。「ファシズム」とは「結束」を語源とする言葉で、強力な国家権力の下に国民を束ねるという思想を意味します。ファシスト党は「黒シャツ隊」という私兵組織を操り、暴力によって労働運動やストライキを物理的に粉砕しました。1922年には反ファシズムを掲げる労働者のゼネストを黒シャツ隊が実力で鎮圧しています。共産主義を力で押さえつけてくれる存在として、資本家層からの絶大な支持を集めたのです。
  ファシズムの特徴を整理しておきましょう。第一に、暴力的な手段で民主主義を抑え込む独裁体制であること。第二に、自民族や国家を非合理に賛美する排外的なナショナリズムであること。第三に、軍備を拡大して対外侵略を強行する膨張主義であること。そして第四に、余暇組織や団体旅行などのレクリエーションを国家主導で整備し、巧みな宣伝活動を通じて大衆の支持を動員する「大衆動員」の手法を重視したことです。ファシズムは、単なる暴力による抑圧ではなく、大衆の不満や不安に付け入り、熱狂を組織することで権力を維持する体制でもありました。この特徴は、のちにドイツのナチズムにもそのまま受け継がれていきます。

第3 ローマ進軍と一党独裁の確立
  1922年10月、ファシスト党員が武装して首都へ向かう「ローマ進軍」を決行し、ムッソリーニは政権を獲得して首相に就任しました。共産主義革命を恐れる資本家や地主の支持を背景に、ムッソリーニは合法的に権力を手に入れたのです。
  権力を握ったムッソリーニは、段階的に独裁体制を固めていきました。1924年にはユーゴスラヴィアとの交渉で念願のフィウメを併合し、国民の愛国心に応えました。そして1926年には、ファシスト党以外の全政党と労働組合を解散させ、議会政治を停止して一党独裁体制(全体主義)を確立しました。国家の最高機関としてファシズム大評議会が設置され、あらゆる政治的決定がこの機関を通じてムッソリーニの意思の下に一元化されました。また、対岸のアルバニアを事実上の保護国としています。
  ムッソリーニは大衆の支持を維持するために、余暇を楽しむための組織や団体旅行などのレクリエーションを国家主導で整備し、大衆を動員しつつ懐柔する手法を採りました。これは、のちにナチス=ドイツが「歓喜力行団」として模倣するモデルとなっています。
  1929年には、1870年のイタリア統一(教皇領の併合)以来、半世紀以上にわたって対立してきたローマ教皇庁との和解を実現しました。ラテラノ条約(ラテラン条約)により、教皇を主権者とするヴァチカン市国の独立を承認し、カトリックをイタリアの国教として認めたのです。イタリア国民の大多数はカトリック教徒ですから、教皇庁との和解は国内のカトリック信者の絶大な支持を取りつける政治的な大成功でした。
  ムッソリーニのイタリアは、やがて1935年にエチオピアに侵攻し、国際連盟の経済制裁を受けてドイツのヒトラーと接近していくことになりますが、それは後の講義で扱います。

パート4:ソ連の成立と社会主義建設

第1 戦時共産主義の破綻とネップへの転換
  第一次世界大戦後のロシアは、革命に続く内戦と外国の干渉戦争の渦中にありました。ボリシェヴィキ政権は内戦を勝ち抜くため、「戦時共産主義」と呼ばれる極端な統制経済を実施しました。私企業の一切を禁止し、食料配給制を敷き、農民からは穀物を強制的に徴発しました。共産主義の理論に基づいて市場経済を完全に排除しようとしたのです。しかし、この政策は農民の労働意欲を根底から奪いました。どれだけ穀物を作っても政府に取り上げられるなら、誰が懸命に働くでしょうか。農業・工業生産は壊滅的に落ち込み、都市では深刻な食糧不足が発生しました。
  1921年、ついにかつて革命を支持した水兵たちが蜂起するという衝撃的な事件が起きました。レニングラード(現サンクトペテルブルク)近郊のバルト海艦隊基地で発生したクロンシュタットの反乱です。革命の最も熱心な支持者であった水兵や労働者が、戦時共産主義による極度の食糧不足と自由の抑圧に反旗を翻したのです。この反乱は、ボリシェヴィキ政権にとって深刻な警告でした。自らの支持基盤からさえも不満が噴出しているという事実を、レーニンは重く受け止めました。
  そこでレーニンは1921年、大胆な方針転換に踏み切ります。ネップ(NEP=新経済政策)の導入です。穀物の強制徴発を現物税に改め、余剰農産物の自由販売を認め、中小企業の私営化を許容して、資本主義の要素(市場経済)を部分的に復活させました。社会主義革命を成し遂げたはずの国が、生き残るために資本主義の手法を借りるという、思い切った政策転換でした。
  この政策によって生産は回復し、1927年には戦前の水準に復帰しました。ただし、都市にはネップマン(小ブルジョワ・商人)、農村にはクラーク(富農)と呼ばれる新たな富裕層が出現し、社会主義の理念との矛盾が生じることにもなりました。

第2 ソ連邦の成立とコミンテルン
  1922年末、ロシア、ウクライナ、ベラルーシ、ザカフカースの4共和国が結合し、史上初の社会主義連邦国家であるソヴィエト社会主義共和国連邦(ソ連)が成立しました。
  また、1919年にはレーニンの主導でモスクワにコミンテルン(第三インターナショナル)が設立されていました。コミンテルンは各国で共産主義政党を組織させ、世界革命を推進するための国際組織です。その影響・指導の下で、1920年にはフランス共産党やインドネシア共産党(アジア最初の共産党)が、1921年には中国共産党やイタリア共産党が相次いで結成されました。コミンテルンの存在は、ソ連が社会主義革命の「輸出」を目指していることの象徴であり、資本主義諸国にとっては大きな脅威と映りました。
  なお、コミンテルンは1935年の第7回大会で、それまでのブルジョワ民主政打倒という方針を大きく転換し、ナチス=ドイツなどファシズムの脅威に対抗するため、各国共産党に民主主義勢力との協力による反ファシズムの「人民戦線」形成を求める新方針を採択します。この転換が、スペインやフランスでの人民戦線内閣の成立や、中国での第2次国共合作(抗日民族統一戦線)への道を開くことになりますが、これは後の講義で扱うテーマです。

第3 レーニンの死と権力闘争
  1924年、レーニンが病死すると、激しい後継者争いが勃発しました。対立したのは、赤軍の創設者トロツキーと、党書記長スターリンです。
  トロツキーは「世界革命論」(永続革命論)を主張しました。後進的な農業国であるロシア単独での社会主義の完成は不可能であり、工業の進んだ西欧先進国(とくにドイツ)での革命を支援し、国際的な革命の連鎖の中でロシアの社会主義も完成する、という考え方です。トロツキーは、革命の理論家であり赤軍の英雄でもありましたが、党組織の実務には関心が薄く、党内の人脈づくりを怠りました。
  これに対してスターリンは「一国社会主義論」を提唱しました。広大な国土と豊富な資源を持つソ連は、西欧の革命を待たずとも、単独で社会主義の建設が可能である、という主張です。1920年代に入ると西欧での革命の波は完全に退潮しており、「世界革命をいつまでも待つ」よりも「いま、自分たちの手で社会主義を建設する」というスターリンの現実路線は、国際的孤立に不安を感じる党員や、祖国を自力で強くしたいというロシア・ナショナリズムの感情に合致して、広範な支持を得ました。
  しかし、権力闘争の帰趨を決定的に左右したのは、思想の内容よりも、組織の掌握力でした。スターリンは党書記長として党官僚の任命権を握っており、この人事権を巧みに利用して政治局を自派で固めていきました。地道だが確実な組織工作によって、スターリンは1927年までにトロツキーを党から除名し、1929年には国外追放としました。トロツキーはその後も亡命先から反スターリン運動を続けましたが、1940年にメキシコで暗殺されます。理論家は組織者に敗れたのです。

第4 第1次五カ年計画と農業集団化
  権力を掌握したスターリンは、ネップを廃止して私企業を再び禁止し、1928年から第1次五カ年計画を開始しました。国家が生産目標を定めて経済活動を完全に統制する計画経済体制の下、重工業を中心とする急速な工業化を推し進めたのです。炭坑の開発やコンビナート(関連する産業を集合させた工業地帯)の建設が進められ、その成果は目覚ましいものでした。第2次五カ年計画が終わる1937年には、ソ連の工業生産高はアメリカに次いで世界第2位にまで躍進したのです。ただし、量を重視した工業化であったため、製品の質は低いものでした。しかし、この成果は世界恐慌で資本主義国が苦しんでいた時期だけに、世界の強い注目を集めました。市場経済は予測不可能で不安定であるから、国家が計画的に経済を統制すべきだという考え方が広がり、資本主義諸国の経済政策にも「計画」という概念が導入されていくことになります。
  農業部門では、自立的な農民であるクラーク(富農)を「階級の敵」として徹底的に弾圧・追放し、農民をコルホーズ(集団農場)やソフホーズ(国営農場)へ強制的に編入しました。この過酷な政策と農民の激しい抵抗により、農村は壊滅的な打撃を受けました。とくにウクライナでは、過酷な穀物の強制徴発によって大量の餓死者が発生しました(ホロドモール)。工業化の急速な成功と、農業集団化の凄惨な犠牲。スターリンの社会主義建設は、光と闇の両面を併せ持つものだったのです。

第5 スターリン体制の確立
  1936年、スターリンはソ連の新憲法(スターリン憲法)を制定しました。この憲法は、台頭するファシズムの脅威に対抗する意図もあって、市民の権利や自由を謳い、形式的には極めて民主的な内容を備えていました。しかし、実態はスターリンの独裁の下で、市民の権利や自由は徹底的に蹂躙されていたのです。
  1930年代に入ると、スターリンは自らの権力を絶対的なものにするため、秘密警察(内務人民委員部)を駆使して大粛清を展開しました。旧反対派の幹部だけでなく、赤軍の上層部、一般党員、さらには一般市民や外国人共産主義者までが対象とされ、裁判にもかけられないまま処刑・流刑に処されました。古参の革命指導者や赤軍将校のほとんどが銃殺され、犠牲者は1000万人を超えるともいわれます。こうしてスターリンは、個人崇拝と恐怖政治を伴う絶対的な独裁体制(スターリン体制)を確立しました。
  「世界で最も民主的」とされたヴァイマル共和国がヒトラーの独裁に転落し、「プロレタリアの解放」を掲げたソ連がスターリンの恐怖政治に陥る。1920年代から30年代にかけての世界は、民主主義の理想がいかに脆いものであるかを、残酷なまでに示していたのです。

パート5:難関大合格への「思考の深化」

第1 1920年代アメリカの「繁栄」と「不寛容」の構造(東大2020年第2問関連)
  東京大学の論述問題では、1920年代のアメリカにおける移民・黒人排斥運動の概要が問われています。ポイントは、繁栄と不寛容が別々の現象ではなく、表裏一体の構造であったことを示すことです。
  論述の骨格は以下のように組み立てることができます。まず、第一次世界大戦を契機にアメリカが世界最大の債権国となり、大量生産・大量消費社会が実現した「繁栄」の実態を述べます。次に、その繁栄を享受したのが主にWASP層であり、彼らが南部から北部に移動してきた黒人労働者や、東欧・南欧からの新移民に対して、自らの雇用や伝統的価値観が脅かされるという危機感を抱いたことを指摘します。そして、この危機感が具体的にKKKの復活、1924年移民法による新移民の大幅制限とアジア系移民の全面禁止、禁酒法の制定(飲酒を好む新移民文化への敵視という側面)、サッコ=ヴァンゼッティ事件に見られる社会主義者への弾圧として現れたことを述べます。「繁栄」を享受する側が、それを脅かす存在を「排除」することで秩序を維持しようとした構造を明確に示すことが、高得点のカギです。
  なお、東大2005年第2問では、大量生産・大量消費時代に導入された代表的な生産方式の名称(ベルトコンベア方式/フォード=システム)を問う出題もあり、用語としても正確に押さえておく必要があります。

第2 イタリア・ファシズムの台頭と社会階層の利害
  なぜ民主主義国家イタリアで暴力的な独裁政権が誕生したのか。この問いに答えるには、各社会階層の利害関係を構造的に整理する必要があります。
  イタリアは、ドイツと同様に19世紀後半に統一を達成した「後発資本主義国」であり、市民階級が未成熟で議会制民主主義の伝統が国民に深く根づいていませんでした。第一次世界大戦後、深刻な経済不況とインフレの中で、ロシア革命に影響を受けた労働者・貧農が工場占拠や農地占拠といった急進的な階級闘争を展開しました。
  これに対し、財産を奪われることを恐れた資本家、地主、軍部は、既存の自由主義政府が無力であることに失望し、暴力(黒シャツ隊)を用いて物理的に労働運動を粉砕するファシスト党を支持しました。さらに、インフレと社会不安に苦しむ中間層(官吏、中小企業主、商店主など)も、共産主義に対する恐怖からファシズムに流れました。
  ファシズムとは、「共産主義の防波堤」を熱望する既得権益層と中間層の恐怖心が生み出した劇薬でした。民主主義が十分に成熟していない社会において、経済的危機と社会不安がいかに容易に全体主義への道を開くか。この構造は、のちのドイツにおけるナチスの台頭にもそのまま当てはまる普遍的なパターンであり、入試論述でも極めて重要な視点です。

第3 世界革命論から一国社会主義論への転換
  レーニンやトロツキーの当初の前提は、後進国ロシア単独での社会主義の完成は不可能であり、西欧先進国での革命波及が不可欠とする「世界革命論」でした。1919年にモスクワに設立されたコミンテルン(第三インターナショナル)は、各国で共産主義政党を組織させ世界革命を推進するための国際機関であり、まさにこの思想の具現化でした。しかし1920年代に西欧での革命は退潮し、スターリンは現実を見据えて「一国社会主義論」を提唱しました。この路線の勝利が、西欧の資本や技術に頼らず、農民から強制的に富を搾取して重工業化を達成する五カ年計画と農業集団化へと直結しました。コミンテルンを通じた世界革命の推進から、ソ連一国での社会主義建設へという路線転換は、のちのソ連外交(人民戦線戦術や独ソ不可侵条約)を理解する上でも重要な前提となります。

第4 全体主義の構造的比較
  ここで、イタリアのファシズムとソ連のスターリン体制を比較する視点を整理しておきましょう。この二つの体制は、イデオロギーの上では激しく対立していました。ファシズムは反共産主義、ソ連は反ファシズムを掲げ、互いを敵視したのです。しかし、政治手法を見ると、両者は驚くほど似通っています。一党独裁、特定のイデオロギーの確立、言論・思想の統制、指導者崇拝、大衆動員。これらは、左右を問わず「全体主義」に共通する構造的特徴です。
  ある教科書は、「ファシズムと共産主義は、一党独裁の体制においてそっくりだ」と指摘しています。左翼の運動が暴力的になると、その反動で右翼の運動も暴力的・排外的になる。こうして左右両極が互いを鏡のように映し合いながら、民主主義を破壊していったのが、戦間期ヨーロッパの悲劇でした。
  さらに視野を広げると、1920年代のアメリカ型自由放任資本主義が世界恐慌によって自壊したのち、ソ連型の「国家による経済統制」という手法が、形を変えて各国に影響を与えたことも重要です。ソ連の五カ年計画による急速な工業化は、資本主義国が世界恐慌で苦しんでいた時期だけに、世界の強い注目を集めました。「市場経済は予測不可能で不安定なので、計画経済を取り入れるべきだ」という考え方が広がり、アメリカではローズヴェルトのニューディール政策(修正資本主義)、ドイツでは四カ年計画の下での軍事産業の育成(統制経済)、フランスでも人民戦線内閣による労働者の権利拡大と、体制の異なる国々がそれぞれの形で国家による経済介入を強めていったのです。「自由放任」から「国家による統制」へ。この転換は20世紀の国家のあり方を根本的に変えるものであり、現代の経済政策を考える上でも極めて重要な論点です。

まとめ

  今日の講義のポイントを整理します。
  1920年代のアメリカは、第一次世界大戦を経て世界最大の債権国となり、工業生産は世界全体の42パーセントを占めるまでに成長しました。共和党政権の下で自由放任主義と高関税政策が採られ、フォードのベルトコンベア方式(フォード=システム)に象徴される大量生産・大量消費社会が到来しました。T型フォードは約20年間で1500万台以上を販売し、ラジオ、映画、ジャズなどの大衆文化が開花しました。ローン(月賦販売)の普及が消費を爆発的に拡大させた一方で、借金に依存した株式投機が過熱し、やがて来る世界恐慌の伏線となっていました。
  しかしその繁栄の裏では、WASP層を中核とする排他的ナショナリズムが高まり、KKKの復活、1924年移民法による新移民制限と排日移民法、禁酒法の制定とギャングの台頭、サッコ=ヴァンゼッティ事件に見られる赤狩りなど、「不寛容の時代」でもありました。繁栄と不寛容は別々の現象ではなく、表裏一体の構造であったことが重要です。
  イタリアでは、戦勝国でありながら「未回収のイタリア」以外の領土的不満と、ダヌンツィオのフィウメ占領の失敗、戦後の経済破綻による労働運動の激化(イタリア共産党の結成)に対し、共産主義革命を恐れる資本家・地主・中間層がムッソリーニのファシスト党を支持しました。ファシズムとは「結束」を語源とし、独裁体制、排外的ナショナリズム、対外侵略を特徴とする全体主義です。1922年のローマ進軍で政権を獲得したムッソリーニは、1926年に一党独裁体制を確立し、1929年のラテラノ条約でローマ教皇庁とも和解してヴァチカン市国の独立を承認しました。
  ソ連では、戦時共産主義の破綻とクロンシュタットの反乱を受けてレーニンがネップ(新経済政策)に転換し、資本主義の要素を部分的に復活させて生産を回復しました。1919年にはコミンテルンが設立され、世界革命の推進が図られましたが、1922年にソ連邦が成立した後、レーニンの死をめぐって世界革命論のトロツキーと一国社会主義論のスターリンが激しい権力闘争を展開しました。人事権を握るスターリンが勝利し、1928年から第1次五カ年計画を開始。計画経済の下で重工業化を推進し、1937年には工業生産高で世界第2位にまで成長しました。しかし農業ではコルホーズ・ソフホーズへの過酷な集団化が強行され、ウクライナでは大飢饉(ホロドモール)が発生しました。1936年のスターリン憲法は民主的な内容を謳いましたが実態は独裁であり、大粛清によって1000万人以上が犠牲になったともいわれます。
  ファシズムと社会主義は、イデオロギーの上では激しく対立しましたが、一党独裁・言論統制・指導者崇拝・大衆動員という政治手法において驚くほど似通っていました。これらは「全体主義」と総称され、20世紀の歴史における民主主義への最大の挑戦でした。

次回予告

  繁栄のアメリカ、ファシズムのイタリア、社会主義のソ連。三つの大国がそれぞれ異なる道を歩み始めた1920年代。しかし、激動はヨーロッパとアメリカだけの話ではありません。
  オスマン帝国という巨大な「病人」が崩壊した西アジアでも、新たな国家形成の嵐が吹き荒れていました。トルコでは救国の英雄ケマルがスルタン制とカリフ制を廃止し、政教分離やトルコ語のローマ字化など急進的な西欧化改革を断行してトルコ共和国を建設します。イランでは軍人レザー=ハーンがパフラヴィー朝を創始し、アラビア半島ではワッハーブ派のイブン=サウードがサウジアラビア王国を建国します。エジプトではワフド党が激しい反英独立運動を展開しました。
  次回、第70講「第一次世界大戦後の西アジア」。帝国支配のくびきを脱し、自立を模索するイスラーム世界の激動に迫ります。それでは、本日の講義はここまで。復習として、「1920年代のアメリカの繁栄と排外主義の関係を説明せよ」という問いに答えられるようにしておいてください。解散。

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