獅子の仔 Ⅰ 004 クレストル Ⅰ
クレストル Ⅰ
1 帳簿
ラニスポートの中央港から北東へ伸びる大通りを行くと、円形の広場に行き着く。この広場から蜘蛛の巣状に路地が分岐し、大小の酒場や宿屋、食堂がひしめき合うように軒を連ねていた。
辺りには、潮や汗の染み付いた荷揚げの人夫や船乗りたちが、その日の憂さを晴らすべく安酒を求めて集まり始めていた。
クレストルは、その人波をかき分けながら、目当ての店を探した。数ある酒場の中から見覚えのある「けむくじゃらの牛」の看板を見つけ、その店の分厚い扉を押し開けた。
昼食時の混雑をようやく終えた店は、休む間もなく、夜に向けた準備に取り掛かっていた。店内は、焦げた豚の脂や揚げた大蒜(ニンニク)と玉葱、そして、安い葡萄酒の酸っぱい匂いが充満していた。
煤けたような色をしている天井の梁からは、よく燻製された豚肉や魚肉、羽根を毟られた鶏が所狭しと吊り下げられ、客の頭上でゆっくりと僅かに揺れていた。
知った店ではあったが、名物だった北部牛の赤肉は品書きから消え、今は、多様な燻製肉を炙り、黒パンや豆の練り物、炒めた玉葱や大蒜を添えるのが定番になっていた。
店内の奥は薄暗く、早くも客が増え始めていた。既に出来上がって、食卓に突っ伏している男も見かける。
クレストルは狭い店内を見渡し、その更に奥、ひっそりとした独り呑みの長卓台の隅に目を留めた。
周囲の煤けた壁に溶け込むようにして、くたびれた草色の外套を羽織った小柄な男が座っている。生真面目な風貌の官吏が、まだ明るい時間帯に安酒場にいるのは酷く場違いだったが、彼をこの場所に指定して呼び出したのはクレストルだった。
人波をすり抜けて長卓台に歩み寄り、店員に黒麦酒を注文すると、その男の隣に腰を下ろした。
クレストルは、この目立たない輜重官、ダグウェルが、失踪したとされるノルウィンと旧知の仲であることを掴み、この数日、彼の上司であるベリアンを通じて、出立前のノルウィンの言動を探らせていた。
ダグウェルは、重たい樫の酒杯で口元を隠しながら、隣のクレストルにしか聞こえない声量で言った。
「……『見つけた』と言っていました」
「……帳簿か」
クレストルが低い声で確認すると、ダグウェルは重々しく頷き、手元の酒杯の木目を見つめた。
「はい。融通の利かない男でしたが、帳簿を読む目は確かでした。出立の前々日、彼は青ざめた顔で家族に漏らしていました。『納税記録と、兵役台帳の数字がどうしても一致しない』と」
「それを、ボロスに報告したのか?」
「……報告したはずです。彼は職務に忠実でしたから。ですが、確証は掴めていません」
小柄な輜重官は「これ以上の深入りは避けました」と付け加えた。的確な判断だ。
現地調査の指示が出された以上、報告をしたと考えるのが順当だった。だが、タイトス公や家令たちの耳には「帳簿の矛盾」についての報告は上がってきていない。
「なぜ、現地調査を彼のような文官に任せたのか。それも、たった一人の護衛で」
ダグウェルは呟くように言った。
クレストルは苦みのある黒麦酒を一口飲み込み、押し黙った。
答えは明らかだった。ボロスには、ノルウィンが戻ってきてほしくなかったのだ。
隻眼のボロス。あの傭兵上がりは、常に自らの出世を優先する。だが、今回、タイトス公から直々の命令という好機を、何故か部下に譲った。そして、わざわざ、多忙な時期の融通の利かない徴税官を指名したが、その徴税官が他の仕事を後回しにして、熱心に調べ始めたのは計算外だったのかも知れない。
「感謝する。この話は墓場まで持っていってくれ」
クレストルは、月の銀貨を数枚、長卓の下で握らせた。
「ボウマ卿の命令で、今から南のクレイクホール領へ向かいます。古い武具の払い下げの決済という名目ですが、二か月以上滞在する長期出張です」
小柄な輜重官は、意味ありげに微笑した。
「すまんな、危ない橋を渡らせた」
ダグウェルは軽く会釈をすると、外套の❘包頭《フード》を目深に被り、足早に酒場を立ち去った。
ベリアンは、役割を終えた部下を、遠方へ隔離する手配を既に整えていた。あの武骨な大男は、情報を嗅ぎ回る存在が相手から狙われやすいということをよくわかっていた。
(ボロスは部下を死地に追いやった。これは隠蔽であり、背任だ。しかし、状況証拠だけで、その意図が未だ掴めていない)
ボロス=オロウンド卿は、公妃の仇敵、エリン=ターベック夫人が、権勢をふるっていた時代の残滓だ。エリンの抜擢で宮廷内に入り込んだ「レイン派」の何人かは、ジェロルド公の復権により排除されたが、ボロスのようにうまく立ち回り、未だ要職にある者もいる。そして、渦中のウォルモン=スタックスピア公は旗幟鮮明な公妃派である。
(何を隠そうとしたのか。ボロスがスタックスピア領の物資を横領でもしていたのか?)
クレストルは黒麦酒を飲み干して、卓上に銅貨を置き、「けむくじゃらの牛」の看板の酒場を出た。あたりは、まだ明るい。人混みに紛れ、そのまま中央港の北にある商館の並ぶ区画へと向かった。
2 調査
用心のために、人混みを抜けた後も、路地をいくつか曲がり、後方を確認してから、呑み屋の並ぶ区画を抜けた。中央港の北の区画に出ると、喧騒は遠のき、中小規模の商会の商館が並ぶ整然とした街並みになった。この一角に、木材や炭、毛皮など、森林資源を扱う商会の商館が多く集まっていた。
クレストルにとってこの辺りは、任務で頻繁に足を運ぶ馴染みのある区画だった。伐採や植林の管理、密猟者の摘発といった現地での業務だけでなく、都市部においては、木材や毛皮を扱う商人たちに目を光らせるのも、森林官の重要な仕事だった。
だが、今日、彼が材木商の扉を叩いたのは、平時の退屈な流通監視のためではない。スタックスピア領からラニスポートへ流れ込む木材の「不自然な動き」の裏を探るためだった。
「燃える森」商会の石造りの商館に足を運ぶ。この商会は、マーブランド家の旗主の分家がラニスポートで立ち上げた商会であり、若き商会長ペイル=シャーウッドは辣腕の材木商として知られていた。
商館の樫の扉を押し開けて、中に足を踏み入れると、明るい室内に、木の香りが漂ってきた。商談中の初老の番頭は、クレストルの来訪に気づくと商談を中断して、対応してくれた。番頭とは顔なじみのため、すぐ奥の執務室へと通された。
「これは、森林官殿、ようこそ、お越しくださいました」
執務室の扉を開けて入ると、部屋の奥の机で書類に筆を走らせている男は立ち上がって、出迎えた。
中肉中背に黒灰色の髪、短衣の上に焦茶色の革胴着を纏い、腰には短剣と鉈刀を差している。商人というよりは狩人のようないで立ちのこの男が、ペイル=シャーウッドだった。
彼は机の上の書類を脇にどけて、机の上に空きを作ると、対面の椅子を勧めてきた。
執務室内には、見本として置かれた杉や樫の切断面からの香りに加えて、積み上げられた木炭の香りが漂っていた。本棚には十数冊の本が並べられ、壁には何処かの森林地図が貼られて、伐採区画ごとに真鍮の標鋲が打たれていた。
「立ち話でいい」
座席の勧めを断ると、クレストルは立ったまま、部屋を見回した。
「景気はどうだ?ラニスター艦隊は老朽船の更新を見送ったと聞いているが」
「良質な樫の材木は、常に需要がありますので、さほど困ってはおりません。それよりも安価な木材の供給不足で困っております…」
ペイルは肩をすくめ、地図の一点を指差した。
「楡材や榛材の注文が急に増えていますが、あてにしていた生産地からの出荷が完全に止まっています」
「……スタックスピア領だな」
地図を見ながら本題に入った。
クレストルの一言にペイルの目が細められ、声を潜めて聞いてきた。
「ウォルモン老公の件と関わりがあると?」
ペイルは、少し思案すると、何枚かの書状を机に並べて、指で叩いた。
「こちらは納期遅れで、軍の輜重部に違約金を支払う羽目になりました。現地の仲買人からも連絡が無く、丸太一本、筏(いかだ)一艘たりとも川を下ってきません」
ペイルの報告に、ベリアンの厳つい顔が目に浮かんだ。あの御仁は、公妃の生家に縁のある商家だろうが容赦がない。
「……それは災難だったな」
ペイルは肩をすくめる。
「その件で少し調べ物をしている」
クレストルは声を潜め、切り出そうとした。
「ノルウィン様のことですね」
機先を制するようにペイルが言った。今度はクレストルが目を細める番だった。
「几帳面な方で、私どもの商会が扱っている材木の入荷量を帳簿で確認されまして、そのうちのスタックスピア領からの入荷量を気にされていました」
「帳簿と不一致があると?」
「いえ、具体的には何も仰っていませんでした」
(帳簿調査で掴んだ「帳簿の矛盾」の裏どりだな)
「木材が出荷されていないのに税収が適正との記載なら、虚偽。木材が出荷されているのに市場に出ていないのなら、横流しだ。だが、肝心の帳簿が無くてはな」
今度はクレストルが肩をすくめた。
「ところで、ノルウィンは護衛を雇っていたか?」
ペイルは顔をしかめた。
「ろくに人員も予算もつかなかったようです。ギャレスとかいう、傭兵を一人だけ連れていました」
「その男が最近、ラニスポートに戻ってきたという噂は?」
「実は気になって、うちに出入りする傭兵に調べさせましたが、現地調査に出発して以降、見ていないとのことです」
ペイルはそこで言葉を切ると、意味ありげに視線を地図に戻した。
「……まだ、あります。あくまで不確かな噂ですが、複数の筋から流れてきました。例の税の取り立てを行っているのは異国の傭兵だと言う話ですが……、虎の兜を被っていたそうです」
クレストルの背筋に、冷たいものが走った。
「ヴォランティスか」
「あくまで噂ですが……虎の兜を見間違えるとは思えません」
東方のエッソス大陸の商人がこのラニスポートを訪れることは珍しくない。ただし、ヴォランティス人の兵士となると話は別だ。かの国は、奴隷制国家であり兵士は全て奴隷だ。この地で傭兵をしているということは、脱走兵を意味する。異国の脱走兵が領内に潜んでいるというのは「西部の守護者」の権威に係る問題だ。
「木材以外にもスタックスピア領からの物流で何か異変はないか」
「以前からの話ですが、銀鉱石の出荷量が減少していました。最近、いよいよ滞ってきたとの噂を聞いています。毛皮や皮革は入ってきているようですが、穀物類は取り扱う商会を変えたようですね。掴めていません」
スタックスピア領は農業、牧畜業、林業など多岐にわたり安定した産業基盤を持ち、手堅い領地経営がされてきた。その経営の要となってきたのが、小規模ながら採掘量が安定していた銀山だった。だが、この数年、採掘が思わしく無いとの話はクレストルも耳にしていた。
「キャスタリーロックには伝わっていない。閉山ともなれば大事だ」
クレストルは思わずペイルに念を押すように言った。
「未だ噂の範囲です。しかし、私は商人ですから、物流の流れから噂の真偽を判断しますが」
ペイルは銀鉱脈の枯渇に確信を持っているようだった。
(これは、利権どころの話ではないな。公妃に早急に報告せねばならない)
「話は変わるが、ペイル、早急に動かせる、直雇いの兵士はいるか」
「残念ながら、治安も悪いため、荷馬車の護衛として全て出払っています。私どものような新興商家では信頼できる兵員も限られておりますので」
ペイルは「商会長は暇ですが」と付け加えた。
「また、追って連絡する」
クレストルは、「燃える森」商会の番頭に軽く挨拶をして商館を出た。西の空が赤色に染まり始めていた。
まだ、森林官としての業務が残っていた。毛皮を扱う商会の商館を三軒訪ねた。こちらは短時間で禁猟区の確認と狩猟の解禁時期を確認して、解禁前後の皮革と毛皮の入荷に釘を刺しておいた。現地での密猟者の取り締まりはもちろん、それを仕入れる商家の動きに目を光らせるのは森林官の重要な任務だ。
愛想のよい商会長の葡萄酒の薦めを断り、商館を出た。そのうち一軒の番頭からも「虎の兜」の異国の傭兵の噂を確認した。赤革の鞄から台帳を出して簡単に記帳した。
陽は既に西の稜線に掛かり始めていた。クレストルは馬を預けている森林局の分局へと足を速めた。北部港の北側の旧市街地にある木造の分局は、キャスタリーロックにある本庁と異なり、官吏だけでなく、樵や猟師、材木商や毛皮商たちも訪れる、行政の拠点になっていた。
その分局の軒先に小柄な少年が立っている。従士のヴィルドンだ。草色の羊毛の包頭外套に身を包んでいるが、腰に吊るした父親譲りの長剣は彼の体格にはまだ大きく、歩くたびに鞘尻が石畳を叩きそうだ。胸には分厚い帳簿を抱え、背中には膨らんだ帆布の背負い袋を担いでいる。
この少年を従士として預かることになり、二年になるが、読み書きを覚えてからは、官吏助手としても重宝している。今日は単独での調査行動のため、分局にて帳簿記載の手伝いと指導を受けさせていた。
「クレストル様! お疲れ様です」
主人の姿を見つけると、安堵したように駆け寄ってきた。
「待たせたな、ヴィル。帳簿の勉強は進んだか?」
「はい。出金と入金の関係が随分と理解できたように思います」
ヴィルドンは周囲を気にするように声を潜めた。
「お留守の間、木炭の納入に来た炭焼き師たちが、妙な噂話をしているのを耳にしました。スタックスピア領の銀山で出水事故があったらしい、と」
クレストルは内心の驚きを隠し、従士の頭を軽く撫でた。銀鉱石の流通が滞ったのは事実だろう。キャスタリーロックが知らないでは済まされない。
「すぐキャスタリーロックに戻る。行けるか」
「はい! 只今」
少年は弾かれたように分局の脇にある厩舎へ駆け出し、まもなく二頭の馬を曳いてきた。二頭とも薄角毛(うすすみげ)の高原馬で、クレストルが乗るのはやや中型の牡馬、少年にあてがっているのは老いた小型の牡馬だ。二人は鞍に跨り、夕闇が迫る街道へと馬首を向けた。
ラニスポートの北門を抜けると、キャスタリーロックへと続く石畳の街道が伸びている。わずか一マイルの距離だ。見上げれば、夕陽を背に黒々とした影となった「獅子の岩山」が、二人を見下ろしていた。並足で馬を進めれば数分でキャスタリーロックに着く。
公務の途中で徴税官が失踪した以上、必ず捜索隊を派遣することになるだろう。だが、我々がその捜索隊に加わると身動きがとれなくなる。捜索隊の騒々しい調査に、奴らは息を潜めて隠れるだろう。
(捜索隊には囮になってもらう)
クレストルは別途、その騒動に乗じて、ウォルモン公を見舞う「特使」として現地に入るのが得策だと思案した。ウォルモン公との面談と現地調査、できれば銀山の実態を把握したい。クレストルが公妃の側近であることは知られていない。「城館の騎士」であり、森林官でもあるクレストルが任命されるのは妥当な人選だ。
3 報告
キャスタリーロックの最上階まで上がるのは時間がかかる。あまり行きたい場所ではなかったが、公妃に報告するためにはやむを得ない。馬をヴィルドンに任せて、キャスタリーロック郊外の厩舎へ向かわせた。先に中層階の自宅へ帰っておくように言いつけた。
クレストルは一人でキャスタリーロックの正門「獅子の口」の大階段を上り始めた。海蝕洞から響く波の轟音と、湿った空気が体にまとわりついた。「ロバの大広間」に着くと、ここからロバに乗って上がる他の騎士たちを後目に、速足で凡そ一千の石の階段を一定の速度で上がり続けた。クレストルの鍛えた足腰であれば、息切れもせず、数十分で中層の「中央ホール」に到着する。
普段であれば、このホールから外壁の階段で二階層上がれば、自宅のある騎士の居住区画だが、今日は、さらに上へ行かねばならなかった。
クレストルは中央大広間から巨大な「巻き上げ機」に乗り込み、鎖が巻き上げられる轟音を数十分の間、聞かされた。金属の擦過音は気持ちの良いものではない。鉄の籠が軋みながら上昇する暗闇の中で、クレストルは目を閉じ、報告すべき事案を整理した。
最上階までは行かず、上層階中層で降りる。この階層は、展望台や軍の会議室などがあり、クレストルが軍の任務で出入りしても不自然ではない階層だった。そこから、人気のない外階段へと出て、手すりもなく、断崖にへばりつくように削り込まれた二百段の石段を上った。潮風が容赦なく吹きつけ、足を踏み外せば海面まで真っ逆さまだが、見晴らしは良い。何より、この階段を使えば、正規の検問を受けずに最上階に到達できる。
最上層に出ると、古代の環状要塞が月明かりを浴びて、白く浮かび上がっていた。昇降機の乗降口を見張る衛兵隊の詰所が見えたが、この時間帯の当番は、「痩せっぽっちの獅子」スキニー ライオンこと、リロイ=ヒルのはずだ。護衛騎士のなかでは最も油断のない男で、見つかれば誰何され、通行証の確認だ何だと、要らぬ時間を使うことになるだろう。
クレストルは影のように移動し、哨戒中の衛兵の巡回をくぐり抜けて、ラニスター家の邸宅区へと向かった。公妃と公子たちの家族の時間に配慮したかったが、報告を急がねばならなかった。公妃邸宅の門番である石造りの衛兵隊詰所にて、面会を要請した。
「このような時間に、何用か。立ち止まって、名乗りをされよ」
銅色の鎖帷子を着こんだ大柄な黒髪の兵士が、詰所の壁越しに適切な距離をとりながら誰何してきた。後ろには黒い硬化皮革の鎧を着た、目つきの鋭い中背の兵士が控えていた。どちらも胸には青銅の獅子の胸章をつけている。公妃直属の衛兵たちだった。
「城館の騎士、クレストル=ユーだ。公妃様に緊急に報告すべき事柄がある。お取次ぎを願いたい」
クレストルは通行証の青銅板を示して名乗った。
「……しばらくお待ちください」
大柄な黒髪の兵士が奥へ下がった。黒い革鎧の男は、こちらと距離を取りながら、剣の柄に手をかけ、視線を離さない。
やがて、松明の明かりの下、黒色の鎖帷子を着こんだ長身の中年の騎士が姿を現した。公妃の「宣誓の盾」ジェイソン=バーク卿だ。マーブランド家の旗主バーク家の出身で、熟練した二対の長剣の使い手として知られていた。
彼はクレストルの顔を確認すると、短く頷いた。
「ご苦労。ジェイン様はすぐに謁見される。来られよ」
公妃邸宅の庭園から、従者用の通用口を通り、私室へ上がった。通された部屋には、独特の薬草の匂いが立ち込めていた。痛み止めのケシと、消毒用の酢の匂い。ジェイン=ラニスターは長椅子に座っていた。数日前の出産直後よりは血色が戻っているが、その瞳には疲労の色が濃かった。
「ご苦労様。報告を」
短く発せられた言葉に応じ、クレストルも短く、事実だけを並べた。
ノルウィンが発見したと思われる帳簿の矛盾。ボロスの報告違反と口封じの現地派遣。スタックスピア領からの木材などの物流の状況。そして、虎の兜の傭兵の噂。
公妃は静かに聞いていたが、「虎の兜」という言葉に、ピクリと眉を動かした。
「……ヴォランティス」
異国の傭兵が領内をうろつく屈辱に口元が引き結ばれる。
クレストルが最後に尋ねた。
「ジェイン様。この半年、ウォルモン公からキャスタリーロックに、融資の要請が出されたことはありますか?」
「……体調が思わしくないとの報告しかありません。なぜ、そのようなことを?」
公妃はすぐ質問の意図を尋ねた。
「銀山が出水したとの噂を耳にしました」
「……根拠を言いなさい」
公妃の顔が青ざめる。
「この数年、採掘量が減ってきたのは周知の事実です。それが最近、滞ったとのことです」
公妃は推し黙った。しばらくして口を開く。
「やはり、貴方に現地に行ってもらわねばなりません」
「もとより、そのつもりでおります」
クレストルは顔を伏せたまま応えた。
「実は、先ほど、夫はラニスポート市警備衛兵士隊のクレイクホール卿に捜索令を出してしまいました。クレイクホール卿は近日中に、五十騎を率いてスタックスピア領へ向かう手筈です」
ジェインはやや困惑したように言った。
「大騒ぎになりますな。あの御仁が五十騎を率いれば、銅鑼を鳴らして歩くようなものです。敵は逃げるか、隠れるでしょう」
公妃は頷きながら提案した。
「貴方は、別途、現地に入るほうが良さそうですね。捜索隊には別の者を加えておきます」
「その件ですが、ウォルモン公を見舞う『特使』として、スタックスピア領に入るのが得策と思われます。つきましては公から印状を賜りたい」
ジェインは溜息交じりに頷いた。
「あの方は今日も宴で忙しいですが、今夜中に特使の件を承認させます。二、三日かかりますが、正式な手続きを経たほうが、目立たなくて良いでしょう」
「ありがとうございます。取り急ぎ、特使の小隊を編成致します」
「軍を動かすと目立ちますね。私の衛兵隊から五人ほど出しましょう」
「恐れながら、狩猟兵など二人ほど確保できる見通しです。野外での活動を想定しておりますので、衛兵隊からは三名ほど派遣頂けましたら十分です」
「わかりました。編成は任せます。既に衛兵長は準備しています」
ジェインは僅かに口元を緩めたが、すぐに真剣な表情に戻った。
「クレストル、現地は何があるかわかりません。深追いは禁物です。必ず生きて戻りなさい」
(004 クレストル Ⅰ 完)
煤けた石 第一部 獅子の仔 第一編 ゆりかごの宣誓
クレストルⅠ(004 悪意の輪郭)
248 AC・夏(末期) / 西部・ラニスポート 〜 キャスタリーロック
POV:クレストル=ユー (Crestel Yew)
【本作は「氷と炎の歌」のファンフィクションです】
原作者のジョージ・R・R・マーティン氏、および関連する出版社・映像製作会社等の権利者様とは一切関係がありません。
本作は「氷と炎の歌(A Song of Ice and Fire)」の世界観をベースにした非公式のスピンオフ作品であり、原作の五十年前の時代(征服暦248年以降)の七王国西部を独自の解釈で描いています。
▢ 次の話 005 べリアン Ⅰ(005 泥の中の夢)
▢ 前の話 003 ハーウッド Ⅰ (003 ゆりかごの宣誓)
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