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獅子の仔 Ⅰ 005 ベリアン Ⅰ


べリアン Ⅰ

1 家令

 巨大な岩山であるキャスタリーロックの上層階は、古代の環状要塞リングフォートの遺構を中心に、西側には城館や邸宅、庭園、学匠メイスターの塔などの建造物が並ぶ。その上層階の外延部には使われていない区画がいくつもあり、北東部の外縁、断崖に面した区画には離れの邸宅群が長らく放置されていた。

 キャスタリーロックから北東方面を見渡す「北東を睨む獅子の館」はこの北東の邸宅群の区画の中心に位置している。
 その邸宅の張出台バルコニーに立つべリアン=ボウマ卿は、海から吹き付ける強風に目を細め、眉間に皺を寄せた。禿頭を撫でる風は冷たいが、顔の下半分を覆う灰色混じりの顎髭がわずかに寒さを和らげてくれる。薄紅色の毛織の長衣ローブはその発達した肩回りの筋肉を隠し切れず、盛り上がっていた。
 八年前の戦いで砕かれた左足は、膝から脛にかけて鋼鉄製の歩行補助具ブレースで固定されていた。その精巧な作りの歩行補助具は鋼鉄の梯子状の枠、滑車、環状の支柱、革のベルト、木製の副木などが組み合わさり、連動して彼の巨体を支えていた。右手には、硬く重い鉄木アイアンウッドを六角形に削り出した棒杖が、節くれだった大きな手に握りしめられていた。

「……眺めは悪くない」
 「北東を睨む獅子の館」の張出台の手すりを六角の棒杖で軽く叩いた。乾いた音が風に乗って消える。眼下には、雲海が広がり、その切れ間から、はるか北東へ続く❘「西部」《ウェスターランド》の山並みと森林、街道が見渡せる。この邸宅の名の由来である巨大な獅子像は蜘蛛の巣が張ってはいるが、堂々たる石像で、その名のとおり、北東を睨んで牙を剥いていた。この邸宅は他の区画から離れているため、海からの風が吹く音と鳥の鳴き声以外、何も聞こえなかった。 

「埃を被っておりますが、石組みはしっかりしております」

 背後で恭しく頭を下げたのは、初老の男、カサル=ドゲットだ。白髪交じりの髪を撫でつけ、古めかしいが清潔な黒革の短衣チュニックを着ている。かつてジェロルド公の時代に紋章官や書記官を歴任した官吏で、公妃が、信用できる家令として紹介してくれた人物だった。

 「屋根の雨漏りもなく、暖炉も生きております。掃除と、傷んだ家具の入れ替えさえすれば、すぐにでもお住まいになれます」

「急ぐ必要はない」
 ベリアンは風に吹かれながら言った。

「我らが主君は未だ赤子。ここに移り住むのは数年先になる。……カサル殿、あなたに家令長をお願いしたい。当面はエストレン卿と貴方にティルト様の側近として矢面に立って頂く。私はもう少し自由に動ける時間が欲しい」

「承りました。第四公子のつつましい派閥の代表が私とエストレン卿ですな」
痩せた家令は笑いもせず、恭しく頭を下げた。

「これからはあなたとも連絡を密にさせて頂く」
 ベリアンはこの小柄な家令と言葉を交わしたのは初めてであるが、その穏やかだが、笑わない目は静かな覚悟を感じさせた。宮廷人ではないベリアンたちには得難い協力者だった。

「私は所詮、武官だ。ヴェールなどの腹が全く読めない」
 率直に家令長たちへの苦手意識を伝えた。キャスタリーロックの家令長ヴェールは、エリン=ターベックが抜擢した男だ。その後も家令として生き残り、現在の地位に就いた。

「目敏い男です。出来うる限り情報を与えないことが肝要かと」
 頷きながらカサルは答えた。

「あの男の視野の外に居るようにするが、他に何か良策は」
 さらに尋ねる。宮廷での闘いはこの家令に聞くべきだろう。

「ご提示の策で十分です。徹底して主客を入れ替えて見せることです」

「心得た。そのように留意する」

「ヴェールは、確かに老獪で、用心深い男ですが、最後は必ず保身を優先します」
 その言葉には家令長への軽蔑の念が混じっていた。

 (幸い、自分が公妃の側近であることは知られていない。もう少しの間その事実を抑えておきたい)

「この邸宅から下層階へ降りる階段の整備を取り急ぎお願いします。この区画の邸宅のうち、いくつかは、将来、我らの別宅としても使いたい。邸宅の中庭は剣術の訓練場、小型馬に乗れる馬場、東の別館には書斎と書籍棚も欲しい。あと、離れの展望台にワタリガラスの巣箱をおけるように手配頂きたい」

「承知いたしました。後日、図面にてご提案を具体化したものをお見せします。目立たぬよう、費用を押さえて、時間をかけて、準備いたします」

 カサルは深く一礼したのち、「ところで、東の別館の食堂と会議室は、外から完全に隔離される構造になっています。ここだけは皆様が集えるように整備しておきます」と付け加えた。

 「ここの整備は、お願いする。輜重官に過ぎない私が上層階に来る機会はできうる限り減らしたい」

 ベリアンは軽く会釈して、露台から降り、邸宅の下層階へ向かった。
 不自由な左足を庇いながら、この邸宅の内部階段を使って一階層降りた。地下倉庫へと続く階段に見えるが、その先は外壁の裏道に通じている。樫の扉を押し開けると、狭い踊り場が外に突き出ていた。備え付けられた外周階段が、岩肌に彫り込まれたように下へ続いている。海風が容赦なく吹き付けるこの階段を、重心移動に集中して、一段、一段と慎重に降りた。鋼鉄の歩行補助具が軋んで音を立てるたび、額に脂汗が滲み、三階層分を降りるころには、汗まみれになっていた。

 通行人名簿に名前が載るのを避けるために「巻き上げ機」ウインチを使わずに、回り道をしているが、高所が得意ではないべリアンには堪えた。 
 なんとか踊り場に辿り着くと、ひょろ長い体格の赤毛の従士が、角板の手燈ホーンランタンを掲げて心配そうに待ち構えていた。

「ご無事でしたか」
 赤毛の青年は駆け寄って、細い手を伸ばしてべリアンを引き上げようとした。

「この高所では大丈夫とは言い難いな」
 苦笑いしながら、差し出された手を断った。この従士の腕力では、自分の体重を支えることはできない。
 この若い従士、マイロン=ヘイスティングスは、剣術も馬術もそこそこだが、「嵐の地」ストームランズの旗主家の出身で、学匠メイスターを志した経歴と器用な手先を見込んで、「古の都」オールドタウンで出会った際に採用した。

 なんとか自力で踊り場に辿り着くと重い樫の扉を押し開けた。中は薄暗い坑道だった。 
 この上層階中層には、輜重部など軍関係者の出入りもあり、次席輜重官であるベリアンが出入りしても不審には思われなかった。だが、この北東区画は坑道が迷路のように入り組んでいる。マイロンが掲げる角板の手燈ホーン ランタンの明かりだけを頼りに進み、しばらくして、ようやく整備された区画へ出た。

 この階層の「巻き上げ機」ウインチの乗降広間には、当番の官吏が二人いるだけだった。 
 下層へ向かう鉄の籠に乗り込み、鎖が巻き上げられる轟音を聞きながら十数分揺られた。その間、ベリアンはマイロンと輜重品の調達状況や在庫管理について、矢継ぎ早に確認を交わした。
 到着した乗り換えの広間で、別の「巻き上げ機」に乗り換え、さらに十数分。鉄の籠は風に吹かれた鳥籠のように頼りなく揺れた。この浮遊感と軋みに慣れることはこれからもないだろうと、べリアンは冷や汗を拭った。

 中層にあるキャスタリーロックの中央大広間に到着し、ようやく鉄籠から解放された。今度は、地上まで降りるための「足」が必要だった。ベリアンの巨体を乗せて急な階段を降りられるように大型のロバを指定したが、しばらくして、足腰の強い重荷運搬用のラバが連れてこられた。

 ベリアンは不機嫌そうなラバに跨り、マイロンは徒歩で付き従い、暗く長い「大螺旋」の階段を降り続けた。途中でラバとマイロンの息を整えるために小休止を取り、四十分かけて「ロバの大広間」まで降りた。キャスタリーロックは、地上に降りるだけで優に一時間はかかる。まさに難攻不落だが、住む者にとっても牢獄のような要塞だ。
 検問所を過ぎ、地上階に降りて「獅子の口」の大門をくぐると、晩夏の湿った空気が体にまとわりつき陽光に目が眩しかった。門前の広場は、集落や商店、厩舎などが立ち並び、騎士や兵士、官吏や商人が行き交い、「西部」ウェスターランズの行政府として活況を呈していた。

 何も言わずとも、赤毛の従者は、厩舎に預けていたラバと馬を曳いてきた。ベリアンは黒鹿毛の大柄なラバに、マイロンは痩せた栗毛の汎用馬に跨った。
 ベリアンは大型の軍用馬や汎用馬も所有しているが、最近はこの安くて頑丈なラバに乗ることが増えた。見栄を張るよりも実用性を重んじる、それが今の彼の生き方だった。
 ラバに乗った禿頭の巨漢と、痩せた馬に乗った赤毛の痩せた従士は並足で出発した。

2 邸宅

ラニスポートの北の大門「獅子の門」から市街地に入ると、旧市街の整然とした石畳、歴史ある石造りの商館が立ち並び、行き交う人々の活気に当てられた。ここは、キャスタリーロックのラニスター家とその分家たちが作り上げた、西部の経済の中心だ。
 大柄なラバと痩せた馬に乗った主従は、賑わう北の広場を迂回し、北部区画の北西郊外へと向かった。「獅子の丘」と呼ばれるこの界隈は、ラニスター公や旗主諸侯たちの邸宅が並ぶ閑静な住宅街だ。手入れされた生垣、磨き上げられた門扉。誇らしげに掲げられた名家の紋章。だが、その一画に、場違いのように荒れ果てた大きな邸宅があった。

 石塀に囲まれたその広大な邸宅は、かつてのラニスター公の四番目の息子のために建てられた『四の獅子の城館』と呼ばれていた。由緒ある邸宅だが、ここ数十年間、放置されていた。

 門前の雑草が生えた石畳の馬留めにラバと痩せた馬を繋ぐ。既に先客がいるのか錆びた鉄門が僅かに開いていた。マイロンが鉄門を顔を真っ赤にして押したが、微かに開いただけだった。見かねて、べリアンが片手で押し込むと、錆びた鉄門は軋みながら開いた。

 ラバと馬の番をマイロンに任せて邸宅の敷地に足を踏み入れた。邸宅内の庭園は人の身長程もある雑草が生い茂る林となっている。搔き分けて立ち入った形跡があり、その獣道のような痕跡を辿ると、割れた石畳や淀んだ池、蔦で覆われた東屋、傾いた木造の厩舎があり、黒鹿毛の軍用馬と愛嬌のあるラバが繋がれていた。そして、三つの棟からなる石造りの廃墟のような城館が並び建っていた。

「……酷い荒れようだ。中庭は森になりかけている」
 呆れたような、しかしどこか愉しむかのような呑気な声が奥から響いてきた。

 先客は、三つの城館を見渡す裏の庭園に来ているようだった。あの男だろう。雑草をかき分けて、裏の庭園に回り込むと、その中心にある盛り土の上によく知った男が腕組みをして立っていた。
 岩のように発達した筋肉、分厚い胸板、丸太のような腕。伸び放題の茶色の髭と髪に、汚れた焦茶色の麻の作業服にくたびれた革の長靴(ちょうか)、革手袋という出で立ちで、まるで野生の熊のようだった。こちらに気づくと、軽く会釈して、草をかき分けて寄ってきた。

「ボウマ卿、お疲れ様です」
 この髭面の男が、ハーウッド=エストレンだ。西部の騎士や兵士には「斧槍のハーウッド」ハーウッド ザ ハルバード「嵐の地の災い」ストームランズ ベインと謳われる勇士だが、あまり身なりに気を遣う男ではない。
 幼少時から公妃に付き従ってきた生粋の公妃派であるハーウッドの前では、普段、「笑う獅子」タイトス公の柔弱を大っぴらに嗤う騎士や兵卒も口を慎む。

 八年前の戦で二人の人生は交錯した。重装歩兵の指揮官であるべリアンは左足に傷害を負い、ハーウッドは初陣で勇名を馳せた。べリアンとて、まだ若く、左足の自由を多少失っても、乗馬と指揮には自負があり、戦場に復帰する自信はあった。だが、あの戦場で若きハーウッドが斧槍を振るい劣勢の全軍を鼓舞する姿を見たとき、後進に道を譲ることを決め、前線を退いた。
 ハーウッドは未だにベリアンを、もと上官として立てる義理堅さを失っていないが、その武勇と声望は、とうにベリアンを凌駕していた。

「いい邸宅ですな。塀の厚さと高さは十分です。壊れていますが、離れに見張り台も有る。警備の観点から視線が通る角度に計算されている。何箇所か崩れていますが、そこを直しさえすれば、問題ありません」

 ベリアンの複雑な胸中など知る由もなく、ハーウッドは屈託のない笑顔で話しかけてきた。

「うむ」
 ベリアンは歩行補助具を軋ませて、雑草を踏みしめた。

 熊のような男の後ろには、ラニスポート市警備衛兵隊シティ ウォッチの幹部、ヴァラー=ラネット卿とその指揮下の衛兵が控えていた。この城館の引き渡しの手続きのためだ。

ハーウッドはラネット卿にせかされて、手続きの確認を始めた。
「ラネット卿、この城館の登記はティルト=ラニスター様に変更をお願いします。管理人は、このハーウッド=エストレンの名義に変更を。書類上の不備は?」

 ヴァラー=ラネット卿は肩をすくめた。
 「問題ありません。近隣の偉いさん方からは『不気味な幽霊屋敷をなんとかしろ』と苦情が出ていました。エストレン卿が管理してくださるなら、大歓迎です」

 ラネット卿は書類に署名を済ませると、書類の写しを部下に渡した。
「では、これにて。うちの大猪が、隊長や兵士長級を率いて出払ったせいで、市内の巡回が手薄になっておりますので」
 留守の総帥への恨み言を言うと、部下を連れて慌ただしく雑草をかき分けて去って行った。

「この邸宅の整備に人手は出せんぞ。兵を使え」
 二人きりになると、上官時代のぞんざいな物言いそのままに、ハーウッドに伝えた。兵というのは、タイトス公の手配により配属された三十人の兵士と五人の騎士のことだ。

ハーウッドは目を丸くして言った。
 「あの若い騎士五人のなかには、嫌がる者もいるでしょうね、『大工仕事は平民の仕事だ』とか言って拒否し出すと面倒ですな。まあ、自分が率先してやってみます」

「エストレン卿が大工をされるのですか」
 後ろから声がした。いつの間にか、従士のマイロンが、馬と二頭のラバを曳いて庭までやってきていた。

「おう、「剛勇」ブレイブを連れてきてくれたのか」
 ハーウッドは大柄な鉄色芦毛のラバの頭を撫でた。鼻先が真っ白で、愛嬌がある顔立ちをしていた。「剛勇」ブレイブは、飼い主への挨拶もそこそこに、辺りの雑草をムシャムシャと食べ始めた。

「勝手にすみません。この庭の草を食べたそうにしていましたので」
 マイロンが曳いてきたもう一頭のべリアンのラバも一心不乱に辺りの雑草を食べていた。べリアンのラバは、ハーウッドのラバと異なり、暗い鹿毛で背中にくっきりと黒い十字の背線があり、軍馬のような精悍さを気に入っている。

「『斧槍のハーウッド』がラバに乗っているのか」
 自分の事は棚に上げて、揶揄するように言った。

「平時はラバが一番です。私を乗せても疲れないし。賢い。粗食にも耐えるうえに、働き者だ」
 意に介さない様子で、ラバの背中を撫でている。見栄よりも実益を取る、もと上官の教えどおりで結構だが、「西部」ウェスタ―ランズで最も勇名を馳せる騎士が、間抜け面のラバに乗るというのもどうなのだろうか。

「ただ、彼らは、自分で動かないと、誰も動いてくれなさそうですな」
 のんびり愚痴を言いながら何やら思案している様子だ。

 マイロンが城館の壁を撫でながら進言した。
「壁の基礎はしっかりしています。さすがは由緒ある公子の邸宅です。ただ、屋根と床板は相当傷んでいます」

思案するハーウッドに段取りを示した。
「本格的な修復は後回しだ。まずは傷んだ部分の撤去をしてくれ。この状況では必要な資材の見積もりもできん。撤去作業が済んだら見積もりと発注だ。それはこっちに言ってくれ」

「ここで野営地設営の訓練でもしますかね。彼らの人柄も知らないといけない。実は先日、十人ほど若い少年兵を選抜して揃えました。剣も録に扱えませんが、将来性重視で一から鍛えるつもりです」

「ふむ。ところで、なぜ従士の後任を置かない?」
 ハーウッドは、前任の従士が騎士叙勲を受けて、独立して以降、従士を置いていなかった。

「名家の方々から同時に五人ほどの申し出があり、話がややこしくなりましてね。全部断りました」

名が上がると気を使うことも増えるようだ。
「石工あがりの兵士がいる。輜重部の中堅だ。一定期間、従士にするといい。従士という風情ではないが、有能な副官になってくれるだろう」

「それは助かりますが、私とうまくやれますかね」
 何を心配しているのか、余計なことを聞いてくる。

「心配ない。多少偏屈だが、お前には献身的に仕える」

 ハーウッドは天性の牽引力を持っていた。豪快に見せて、理知的で温厚、何より場の空気を支配するカリスマがあった。そして戦場での狂気を孕んだ武威。ジェイン様は軍の編成を私ではなく、ハーウッドに任せた。
 正直、部隊の指揮官としては、自分の方が経験が豊富なため忸怩たる思いがある。自分が指揮すれば、正確な進退をみせる集団にして見せる。だが、ハーウッドならどのような指揮を見せるのだろうか。

 この城館の復旧作業はハーウッドに任せて、新米兵たちの最初の任務とすることにした。空を見上げる。次の現場こそが、自分の仕事場になる筈だった。

3 港湾

 ラニスポートは、区画が異なれば風景が変わる。時間の過ぎる早さすらも。旧市街地の整然とした石畳の官庁街、石造りや煉瓦造りの商館が並ぶ中央商業区、「獅子の丘」の華やかな邸宅群、大広場の賑わいと呑み屋街の猥雑な活気。だが、港湾の南西部は、それらの活気とは対局にあった。
一部が崩れたまま放置された城壁と、「下顎の大角塔」が歪んで聳え立ち、その麓には、寂れた港湾の三つの区画が、広がっていた。そこには、淀んだ溜池、腐った海藻、乾いた泥、時代に取り残されたような倦怠感が漂っていた。

「……酷いものですな」
 隣を歩く男が、リネンの手ぬぐいで鼻を押さえながら呻いた。ワデル=クリフトンは小柄で神経質な男だが、海上輸送や港湾の運営に造詣が深い、輜重部の中でも屈指の辣腕だ。

「百年前にダルトン=グレイジョイレッド クラーケンに焼き払われて以降、主だった商館や船主は他へ移り、ここは放棄されたまま。閉じた商店に、開いている店も中古品の転売か、腐りかけの魚くらい……」

「嘆くな、ワデル。文句を言う暇があったら、何をすべきか考えろ」
 ベリアンは、左足に装着した鋼鉄の歩行補助具を軋ませながら歩を進めた。

 その後ろを、ラバと馬を曳いたマイロンが黙ってついてきた。鉄木の六角の棒杖で地面を突き、泥の下にある旧港湾設備の石の基礎を確認した。

(さすがはラニスポート、基礎の石積みだけは生きている)

「マイロン、ラバをこちらへ。『下顎の大角塔』まで行く」
 従士に声をかけると、暗い鹿毛のラバに乗る。ワデルは灰色のロバに乗り、その後をマイロンが痩せた栗毛の馬に乗って続いた。

 タイトス公が、生まれたばかりの息子に扶持として与えた、寂れた三つの区画を横切る。ラバとロバと馬に乗った男たちが、ゆっくりと進む。

「古びた揚船場」オールド ドック
 旧式の造船所からは槌音が絶えて久しい。時代が止まったかのような雰囲気が漂っており、小規模商会の不揃いな商館が並んでいた。

「槌音の無い造船所群とは風情がありますな。こころが安らぐ」
 ワデルは巨大な箱型の木造の収納庫を見上げて嫌みを言った。
 その脇を三つの騎影が進む。

「曇天の埠頭」クラウディ ピア
 停泊する船もまばらで、桟橋は古く腐りかけているうえに、間が狭く、小規模船しか停泊できない。港湾には船の残骸が沈んでいるらしい。

「小型船をわざわざ、不便な奥の港に停める需要が無い」
 まばらに停泊している小型船を横目で見ながら進む。

「寂れた波止場」ダル ワーフ
活気のない商店が並んでおり、異臭がする。桟橋は疎らだ。

「城壁下の下水路が詰まっている可能性もありますな」
 ワデルは鼻を手ぬぐいで再び覆った。

「思ったより活気はありましたな、造船所と商館と商店と市場以外は」
 ワデルの尽きない嘆きに苦笑で返す。

ワデルは辛辣だが、どれも港湾管理者としては正しい指摘だ。

「……広さだけは十分だな」
溜息とともに呟いた。
(寂れた区画とはいえ、ラニスポート港湾でこれだけの面積を統括する有力者はいない)

 「下顎の大角塔」の無残な姿がのしかかるように迫ってきた。ラニスポート城壁の南西の要として築かれたはずの監視塔だが、百年前の鉄人による略奪で破壊されて以来、潮風に晒されたまま無惨に傾いている。

 ラバから降りて、先日、崩落事故が起こったという城壁を検分した。崩落現場には、ラニスポート市警備衛兵隊シティ ウオッチの衛兵が立ち番をしていた。痩せた初老の兵士と槍をもった小太りの若い兵士の二人組は、一行を目にすると敬礼して出迎えた。

 やや威厳を込めて衛兵に挨拶をした。
「キャスタリーロックの次席輜重官、ベリアン=ボウマ卿である。今日は輜重部でも検分させてもらう」

 初老の衛兵は敬礼して、状況を説明した。崩落が起きた場所を指し示し、不自然な崩落だったとの指摘を聞く。老朽化による崩落でなく、何らかの破壊行動があったのではと、容易ならぬことを言った。

「事態は藪の中だな。だが、だからこそ、警備の拠点として整備せねばならぬな」

 不審を訴える初老の衛兵をいなすようにして、話しを前に進めた。全く自分らしくないと内心で苦笑した。崩落部分の城壁は石の目地は痩せ、確かに老朽化しているが、基礎は問題ない状況だ。この区間の城壁は「ラニスポートの城壁」として知られる重厚な造りではなく、やや低い。この区域は大外壁と港湾中央部の隔離壁の外にあるため、防衛上、あまり重視されなかったことも放置されてきた原因だろう。

(公妃様は見越しておられたのか?)

 ただの荒地ではなく、防衛上の「弱点」が含まれている土地。それはつまり、キャスタリーロックが介入して整備する口実になるということだ。

「……これがラニスポートの『下の顎』か」

 監視塔を見上げる。中層階あたりから傾きがあるように見えた。塔の内部の柱がどこかで歪んでいるのだろう。

「基礎は全く問題ありませんな。問題は上層のほうです。」
 ワデルはしゃがんで花崗岩の基礎を小さな金槌で叩いて確認していた。

「塔に上がるか。済まんが、ラバと馬の番を頼む」
 衛兵にラバと馬を預けると、ワデルとマイロンを連れて監視塔の鉄の扉を鍵で開けて中へ入った。錆びた扉は重く、べリアンが力をこめて押し込むと擦過音を上げて開いた。

 塔の内部は暗いが、意外と広く、一階は物資庫となっていた。普段はこの扉から出入りすることは無いためか、出入口にも、水の入った樽と、干し肉、大蒜、玉葱、人参が壁から吊り下げられており、ライ麦の袋に薪が積まれていた。

 空気はこもっており、カビと古い油の匂いが漂い、床の樫の木材黒ずんでたわんでいた。べリアンの体重に悲鳴を上げる。

 石階段が、壁に張り付き、二階へと続いていた。下から見上げる天井は樫の木が張られ、太い梁が十字に交差していた。壁の手すりを頼りに螺旋階段を上がった。

 二階は兵士たちの詰所となっていた。いきなり下の階から現れたべリアンたちに驚いた若い衛兵が慌てて敬礼してきた。

「すまんな、少し邪魔する」
 べリアンは室内の状況を見た後に見上げて、天井の梁を確認した。三階部分から明らかに梁が歪んでいた。

「二階までは使えそうですな。城壁上との連絡はここからのようです」
 ワデルは外に出る扉を指し示した。
 樫の木の扉を開けて数段の階段を上がると、城壁の上に出た。高さ十二メートル、幅三メートルほどの防壁だった。一般の城壁としては十分な分厚さだが、ラニスポートの城壁としては狭い。城壁の上に出て監視塔を見上げた。

「三階は使えるのか」
 詰所から付いてきた若い衛兵に聞いた。

 「はい、身軽な兵士しか上がりません。見張りのために一日数回上がる程度です。四階はほぼ、瓦礫の山となっています。危険ですので出入り禁止です。隊長が床板の張り替えを申請していますが、工事そのものが危険なため、後回しにされています」

「ふむ。少し城壁上を歩いてみるか」
 ワデルと二人で城壁上を歩いた。思った以上にしっかりしている。

「ワデル。市の評議会への申請はどうなっている?」
 二人になると予算の確保について尋ねた。

「公妃様の根回しもあり、認可されました。申請項目は『過日の崩落事故を契機とした南西区画の城壁および監視塔の緊急修繕工事』としています」

「拠出の割合はどうなった?」
「予算はキャスタリーロックから五割、軍の予算から二割、市の予算から二割、ラニスポート市警備衛兵隊シティ ウォッチの予算から一割です。評議会の会頭から、『キャスタリーロックと軍で措置して頂けるとはありがたい、防衛整備は喫緊の課題ですから』と感謝されました。数十年放置しておいて何を言うかと思いますが」

 本来なら市の予算で措置すべきところだが、長年の放置に「今回の崩落事故」で輜重部がしびれを切らして補修に乗り出したという体裁だ。

「これで大手を振って、ここに人と資材を入れられる」 ベリアンは笑った。
 公子の領地整備にキャスタリーロックの予算を使えば、金庫長たちがうるさい。市の予算を使えば、評議会が介入してくる。だが「市の防衛設備の修繕」という名目でそれぞれに分担させれば、誰も文句は言わない。

 先日、「偶然にも」、城壁の一部崩落事故が起きて、事態が動き出した。「ワデル、よく聞け。この城壁と監視塔を直すついでに、そこへ至る「搬入路」も整備する」
 ベリアンは眼下の泥だらけの道を指差した。わだちが深く刻まれ、荷馬車の車輪が沈むような悪路だ。

「重い石材を運ぶには、地盤を固めて、排水溝を掘らねばならん」

「……当然です。ぬかるみでは石材運搬車が動けませんから」

「その道は、工事が終わった後も残る…この区画の通りを舗装できるというわけだ」

 ワデルは目を丸くし、やがて人の悪い微笑みを浮かべた。
「……なるほど。ついでに、波止場の浚渫(しゅんせつ)も必要ですな。資材を海から運ぶために」

「その通りだ」

 振り返って、城壁の上から外に目をやった。そこには、さらに大きな課題が広がっていた。城壁の外にへばりつくように広がる貧民街、通称「塩の吹き溜まり」ソルティ ボトムだ。

 流木や廃材、船の残骸で組まれた小屋がびっしりと並び、路地には汚水が流れ、ぼろを纏った子供たちが泥遊びをしている。煮炊きする煙が低く垂れ込め、腐った魚と人間の体臭が混じった強烈な臭気が鼻をつく。その向こうには、塩気を含んだ白い砂地と荒れ地が続き、さらに遠くには収穫の乏しい海岸農地と、寒村が点在していた。

 ベリアンの横に並んだワデルが、渋い顔で呟いた。

「あの貧民窟の連中を追い出そうとすれば、暴動が起きます。彼らは失うものがない分、凶暴です。あの集落の海側の土地は古い塩田の名残りで、農地としては死んでいます。塩分が強すぎて、ライ麦すら育ちません」

 「追い出す必要はない」
 ベリアンは、再び城壁内の寂れた港湾を睨んだ。

「……ここには、他の区画の港にはない利点がある」

「利点ですか。既にゴミ溜めとして機能はしてますが」

「水深だ」

 ベリアンはワデルの放言を遮って、六角の棒杖で港湾を指し示した。

「今は海底の瓦礫が邪魔をしているが、少し攫えば『曇天の埠頭』は十分な水深がある」

 数年後の図面を頭の中で描いた。ここには大型船を着けられる。精錬した鉄塊、家畜、木材、石材…これまで、陸路で運ばれてきた重い資材は全て、海路でこの港湾から陸上げさせる。
「この港を「鉄屑と炎の港」に育てたい。「塩の吹き溜まり」ソルティ ボトムの貧民たちには仕事を与えればいい。城壁修繕の作業員、荷運び、飯炊き……。彼らは金を持たないが、労働力にはなる。住処を追われる恐怖に怯える彼らに、仕事とパンを与えれば、忠実な手足になるだろう」  

「あとは、市の評議会にいる友人の協力と港湾の発展の仕掛け人となる商人集団が必要だ。軍人上がりの自分にはできない事だ」
 ベリアンは懐から手帳を取り出した。やるべきことが、びっしりと書き込まれている。その文字を眺めていると、不意に左足が疼いた。
 八年前、足が二度と、元どおりに治らない事実に向き合えずにいた自分がいた。さほどの縁も無かった公妃から唐突に「鋼鉄の歩行補助具」が下賜された日のことが脳裏に蘇った。震える手で、古き都オールドタウンで作らせたという特注品の装具を手にした。

 その後、輜重官になる道を選ぶと、公妃からは学匠メイスターの教えを受ける機会を与えられ、数学や経済、建築、理学を学んだ。ベリアンは、今でもキャスタリーロックの書庫を利用できる手形を与えられている。この恩義は全力で返さなければならない。これほど血が沸き立つのはいつぶりだろうか。

「ワデル、目立つなよ。あくまで、城壁工事の『ついで』だ」
 ベリアンは念を押した。

「了解しました、しっかり時間をかけて、周辺整備を徹底的にやります。海底を攫い、道を作り、倉庫を建てる……その全てが『城壁の補修のため』に必要です」

 ベリアンは不自由な足で、しっかりと大地を踏みしめた。この「曇天の埠頭」クラウディ ピアに、明日にも槌音(つちおと)が響き始めるだろう。

(005 ベリアン Ⅰ 完)


煤けた石 第一部 獅子の仔  第一編 ゆりかごの宣誓
005 ベリアンⅠ(005 泥の中の夢)
248 AC・夏(末期) / 西部・キャスタリーロック 〜 ラニスポート
POV:ベリアン=ボウマ (Beryan Bowma)


【本作は「氷と炎の歌」のファンフィクションです】
 原作者のジョージ・R・R・マーティン氏、および関連する出版社・映像製作会社等の権利者様とは一切関係がありません。
 本作は「氷と炎の歌(A Song of Ice and Fire)」の世界観をベースにした非公式のスピンオフ作品であり、原作の五十年前の時代(征服暦248年以降)の七王国西部ウェスターランズを独自の解釈で描いています。


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▢ 前の話 004 クレストル Ⅰ(004 悪意の輪郭)  

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