トータル・パフォーマンスへの試みⅢ:無秩序の音楽
― 北村昌士氏による『無秩序の音楽』(1981 / 『Fool’s Mate』No.24, 昭和57年11月号)―
はじめに
本連載「トータルパフォーマンスへの試み」では、音や身体表現を世界と響き合う総合的な実践として捉え直すことを目指しています。最初の2編では、演奏や作品を超えて「生の全領域を賭ける行為」としての表現を検討しました。
第3編となる本稿では、北村昌士氏による論考「無秩序の音楽」を取り上げます。
本稿は、『Fool’s Mate』第24号(昭和57年=1982年11月号)に掲載された文章であり、当時の日本のロック/アヴァンギャルド文化を思想的に切り裂くような、極めてソリッドで哲学的な内容を持っています。
ここで北村氏が論じる「無秩序」は、単なる混乱ではなく、秩序を生む以前の純粋なエネルギー状態を意味しています。
それは、文明の衰退や理性の限界を受け入れた上でなお、新しい創造の力を掘り起こそうとする思想でもありました。
本稿では、その思想を現代的視点から読み直しながら、音楽と社会、そして身体を貫く「トータルパフォーマンス」の理念を再確認していきます。
文明の衰退と音楽の限界
「音楽文化の衰退は、それを内包する社会と文明全体の衰退を意味するものだ。そしてこの自明の道理をいかに内的に掌握し、克服するかという視座においてしか、誰もがこの限界を乗り超えることなどできないことは明白だ。」
北村氏は、音楽を文明の鏡と見なしています。
ロックもまた社会の「制度疲労」と共振し、「限界を映す装置」として自らの構造を露呈しました。
この“限界を内側から克服する”という姿勢は、現在の「音楽が情報として急速に消費される時代」においてもなお有効です。音楽が鈍化することは、すなわち私たち自身の感受性が鈍化することを意味します。

祭儀性と無秩序の力
「すべてのロック・コンサートは派手なけばけばしいお祭りであったわけだし、そのお祭り性を外側から助長することだけが、唯一ロック・シーンの延命にとって有効な役割を果たしてきたことも事実である。」
北村氏は、ロックの本質に「祭儀性(祝祭性)」を見ています。
それは単なる熱狂や娯楽ではなく、社会の秩序を揺るがすエネルギーを孕んでいました。
しかし、その祝祭は次第に制度化され、「安全な消費される祭儀」へと変質していきます。
北村氏の提案は、その祭儀性を否定することではなく、「毒を喰らわば毒を制す」――その論理を内側から徹底化することによって「無秩序」という新たなエネルギーへ転化させる試みです。

ケイオティック・ミュージックの必然
「音楽におけるケイオティックな試行とは、すなわち無秩序の様相に究極の真理のありかを探求するもの、音楽が音楽である上でのきわめて根源的な性質を、今日の文化の内側からではなく、例えば辺境地域の民族音楽などの外部系統から求める作業である。」
ケイオティック・ミュージックとは、秩序を壊すための音楽ではありません。
それは、秩序を生む以前の状態――純粋な生成の場を音で表そうとするものです。
テープ操作、即興、環境音など、当時の実験音楽が志向した方向性の核心に、北村氏はすでに触れています。
This HeatやDomeが展開した持続音や断片的構造も、この思想と共鳴していました。
彼らは「作曲」ではなく、「生成の記録」を行っていたのです。
科学・理性・虚無
「文明化による精神の空白を埋めるものはまたも文明のつくり出した過剰の物質欲求に見合った生産物であり、人間を性欲や食欲や権力欲の一元的な代償のかたまりに帰してしまうような本能的行動の助長だけが貪欲に求められてきた。」
理性の発達の果てに待っていたのは、精神の空洞化でした。
社会は身体の生を保障しても、精神の生を保障しない。
北村氏の言葉は、デジタル快楽やSNS的承認に支配された現代にも重なります。
人間が自己を忘却する速度が加速した今こそ、
「無秩序の探求」は単なる芸術行為ではなく、
生き延びるための精神的戦略としての意味を帯びています。
無秩序か、秩序の幻想か
「三島由紀夫は陽明学についての論稿の中で、このことを簡略に述べている。
一つは認識それ自体の機能を極限までおし進めるアポロン的な方法であり、
一つは理性のくびきを脱して奔る行動に身をまかせ、
そこに生ずる恍惚の一種の宗教的体験を通じて知に致達するという方法である。」
北村氏は、理性の限界を突破するための「恍惚の知」を強調します。
それは三島由紀夫の「陽明学」論にも通じる、行為を通じて知に至る思考です。
北村氏の文脈では、音楽こそがその恍惚を媒介する装置であり、
「演奏=行為=認識」という等式が成り立ちます。
理性による認識が行き詰まった時、
私たちは再び身体と行為による知へ戻るしかない。
それが彼の言う“ディオニュソス的音楽”の本質です。
音楽と虚無のあいだ
「つまり万物は絶対存在の形式をもってそこにあるのではなく、ただひたすら変化し続ける時間的存在であるということをだ。」
存在とは固定された形ではなく、変化そのものです。
北村氏は、音楽をこの“流動性の哲学”として捉えます。
それは後年のアンビエントやドローン、さらにはノイズ・アートの根底にも流れる思想です。
音楽とは秩序を完成させるものではなく、
変化を聴くための方法である。
北村氏のこの視点は、現代の生成的アートやAI音楽にも通じる普遍的命題です。

感覚拡張としての音楽
「人間はある適応能力に基づいて、感覚機能のオクターヴ (範囲)を無意識的に制御しているのだ。」
北村氏は、音楽を感覚を拡張する実験として捉えます。
音は単なる芸術ではなく、知覚を変える装置であり、
人間の「感じる能力」そのものを更新する行為だと述べます。
This Heatのテープ操作、Canの即興構造、YBO²の暴走する持続音――
それらは音楽というよりも、知覚の実験室でした。
北村氏の思想は、音を通して「身体のオクターヴ」を広げることを目指していたのです。
1981年:ロックの臨界点
「ロック・ミュージックは文化の力関係の点をめぐってその存亡を闘ったのである。音楽とは何か、社会とは何か、人間とは何かという抜き差しならぬ現実の構造をめぐって、自己と他者の立場を超え、特定の集団のファナティズムの愛玩物でもない永久の力への希求が、ロック・ミュージック、あるいはロック・シーンという装置を通じてラディカルに表出されていたように僕は思う。」
1981年のロンドン。ポストパンクとインダストリアルが交錯した時代、
音楽は「社会的発言」から「存在的実践」へと移行しつつありました。
北村氏はその瞬間を、文明と人間の臨界点として捉えています。
彼のいう「永久の力」とは、音楽が一時的な表現を超えて
存在そのものの変革を志向する力のことです。
これは、現在の音楽が再び「行為としての芸術」を取り戻すための示唆でもあります。
真のラディカルとは何か
「真にラディカルな表現者とは、自己の内的な変革のメカニズムを知り尽した者である。」
北村氏の思想の核心はここにあります。
社会を変えるより先に、自己を変える構造を理解せよという命題。
それは政治的反逆ではなく、精神的変容の実践です。
音楽はそのための「装置」であり、
自己の奥底に眠る無秩序を形に変える行為です。
北村昌士の“ラディカル”とは、行為の様式ではなく、存在の深度を指す言葉でした。
あとがき ―― 無秩序の現在形としてのネット社会
北村昌士氏が「無秩序の音楽」を記した1981年、
情報はまだ物理的な速度に縛られ、
音楽は「場」を共有するものとして存在していました。
しかし今日、私たちはその「場」を失い、
ネットワークという擬似的共同体の中で、
絶えず情報を更新し続けることを“生”の証とみなしています。
SNSやAI生成音楽は、一見「カオス的」ですが、
その多くはアルゴリズムによって制御された予定調和的な無秩序です。
クリックやリツイート、トレンドといった構造は、まさに「消費されるお祭り」のロジックをデジタル化したものと言えるでしょう。
北村氏が批判した「祭儀の制度化」は、
今やネット空間全体に移植され、
身体を介さずして“同調”する仕組みへと進化しました。
それでもなお、私たちの内部には、
「制御不能な“生のノイズ”」が残っています。
それはAIが模倣できない、人間特有の誤差と揺らぎです。
この「誤差」こそが、北村昌士の言う“無秩序の音楽”の現代的継承ではないでしょうか。
AIが秩序を生成し、人間がノイズを発する。
この役割の逆転こそ、
21世紀の「トータルパフォーマンス」へと続く新たな始点です。
結語 ― 次なる実践へ
本稿で論じた「無秩序の音楽」の思想は、
アイルランドの異形の集団ヴァージン・プルーンズらにおいて、
きわめて具体的で身体的なかたちで具現化されていきます。
次稿では、彼らのパフォーマンスと音楽を通じて、
「祭儀」「異形」「恍惚」といったテーマを現実の舞台に引きずり出す試みを追ってみたいと思います。
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