トータルパフォーマンスへの試み II:構造の再編成― イーノ、ディス・ヒート、ザ・ワークにみる生成の思想 ―
――ブライアン・イーノ〈Obscure〉からディス・ヒート、ザ・ワークへ
1975年前後、ブライアン・イーノが主宰した〈Obscure〉レーベルは、
ロック・ミュージックの構造的再編成を先取りするような実験の場でした。
彼が行ったのは、単なるジャンル越境ではなく、
音楽を「生成のプロセス」として捉え直す思想的な転位でした。
『Discreet Music』(1975)は、テープ・ループの反復と微細な変化を通じて、
作曲を“決定”ではなく“生成”として提示した最初の試みのひとつです。
ここでは作曲家の意識よりも、システムそのものが音楽を生む。
この概念は、やがてスティーヴ・ライヒやテリー・ライリーのプロセス・ミュージックとも交差し、
同時代のロック・アーティストにとって決定的な示唆を与えました。
Obscureの思想的連鎖
〈Obscure〉には、ゲヴィン・ブライヤーズ、マイケル・ナイマン、デヴィッド・トゥープ、マックス・イーストレイら、
現代音楽とロックの狭間で活動する作曲家・音響家が集まっていました。
ブライヤーズの『The Sinking of the Titanic』(1975)は、
沈みゆく船の音を再構成する“記録の再作曲”であり、
歴史を音として再演する装置でもありました。
それは「音響の中で過去と現在が同居する構造」を露わにし、
音楽を社会的・記録的な現象として再定義するものでした。
北村氏が言う“構造変革”とは、まさにこうした音楽の「生成と記録の等価化」――
すなわち、演奏と環境、記録と即興を同一平面上で扱う認識の転換にほかなりません。

「生成としての音楽」がロンドン南部に渡る
1970年代後半、こうした動きはロンドン南部ブリクストンの実験的コミュニティに広がります。
そこには、ディス・ヒートのメンバーたち――チャールズ・ヘイワード、チャールズ・バレン、ギャレス・ウィリアムズ――がいました。
彼らは、イーノが切り開いた“音響の等価性”の思想を受け継ぎながらも、
それをより直接的な社会的実践へと転化しました。
テープ・ループ、ノイズ、録音の編集、そして即興演奏。
スタジオはもはや「記録の場」ではなく、「思考の延長」と化しました。
ヘイワードの言葉にある「音楽の内部に世界の構造が内在する」という理念は、
この“生成としての音楽”を社会の現実へと接続する試みだったのです。
ディス・ヒートの「音の政治学」
ディス・ヒートの音楽を聴くと、
そこには社会的な緊張、暴力、孤立、そして希望が音の層として埋め込まれています。
『Deceit』(1981)はその極点であり、
世界の“構造的偽り”を音響として再現するように設計されています。
ヘイワードのドラムはまるで地層のように重なり、
テープが空間を引き裂き、ギターは断片的なノイズとなって回帰する。
それは、音響による社会構造の解体と再構築とでも呼ぶべきものでした。
この時代、ポリティカル・ロックやポストパンクは多く存在しましたが、
ディス・ヒートが特異だったのは、政治的主題を直接語るのではなく、
構造そのものを音で再現してみせたことにあります。
社会の構造を“模倣する音楽”ではなく、“構造そのものを音響化する音楽”。
それが彼らの到達点でした。

ザ・ワークと「感情の政治」
同じく北村氏が注目したもうひとつのグループが、
ティム・ホジキンソン率いるザ・ワーク(The Work)です。
ヘンリーカウでの構築的・理性的な実験を経て、
ホジキンソンはより直接的で感情的な衝動を持つ音楽を志向しました。
彼は言います――
「効果的な政治的音楽は、まずエモーショナルであるべきだ。」
ザ・ワークの『Slow Crimes』(1982)は、
即興と不協和の中に、人間の身体と社会の衝突を刻み込みます。
楽器が統制を拒み、リズムが分裂し、
音楽そのものが“生きた抵抗”として立ち上がる。
それは、アート・ベアーズが「構造の知性」で到達した地点を、
ザ・ワークが「情動の爆発」として突破した瞬間でした。

「構造」と「感情」の再統合
北村氏は、このディス・ヒートとザ・ワークの両者に、
ロック・ミュージックが再び「人間の現実」に回帰する兆しを見ています。
一方のディス・ヒートは、世界の構造そのものを音で描こうとした。
他方のザ・ワークは、感情の直接性から社会の構造を撃とうとした。
この二つの方向性は、決して対立するものではなく、
むしろ「構造」と「感情」の二極を再統合する運動**だったのです。
クリス・カトラーの言葉を借りれば、
「ロックは真に芸術的である。だが、それは確立された“芸術”には属さない。」
この言葉こそ、当時のロンドン地下シーンの哲学を端的に表しています。
音楽は制度に従属しない――それ自体が社会構造に対する思考であり、抵抗の形なのです。
後記:AI時代の「構造」と「自己」をめぐって
2020年代の音楽を見渡すと、AIやアルゴリズムによって
制作から配信までが自動化され、音楽が“制御可能なデータ”として扱われる時代になりました。
再生回数やトレンドが価値を決め、
リスナーは「最適化された音」を浴びるように聴いています。
こうした状況を前に、私はふと、
北村氏がかつて細野晴臣との対談で語っていた言葉を思い出します。
「なんでもかんでもコンピューターで制御するのはどうなんでしょう。」
この発言は1980年前後のテクノロジー黎明期のものでしたが、
今読むと、まるでAI時代の預言のように響きます。
北村氏が描いた「世界構造と自己の弁証法」は、
まさにいま私たちが再考すべきテーマです。
機械が“世界の構造”を代行しようとする今こそ、
人間の側が「自己の自由」を取り戻す必要があります。
ディス・ヒートやザ・ワークのように、
混沌を引き受け、音を通して世界を再構築しようとする意志――
それはもはや過去の前衛ではなく、
現代における人間の再定義の方法なのだと思います。
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