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2026年上半期|アニメ:機動戦士Vガンダム

2026年上半期に体験したエンタメ作品の中で特に気に入ったものを個別で書いてみました。

上半期まとめはこちら

アニメでは機動戦士Vガンダムが一番グッときました。

全体を通して感じたことは人はいつ別人に変わるんだろうということでした。


最初に要約を書いておきます。
後半に感想を書いていますので、ぜひご覧ください。

要約
今回の『機動戦士Vガンダム』の視聴は、戦争を題材にした作品としてではなく、「人が変わってしまう過程」を見つめる体験として強く受け取られている。感想の中心にあるのは、カテジナやファラ・グリフォン、シュラク隊など、それぞれ異なる形で戦争に呑み込まれていく人々への視線であり、善悪よりも変化そのものへの関心が表れている。また、最終話でシャクティとカテジナをめぐる場面に深く心を動かされていることから、「互いを完全には理解できなくても、感情は届いてしまう」という構造にも強く惹かれていることが読み取れます。さらに、影のない平面的な画面と牧歌的な世界観が残酷な出来事を包み込む表現にも注目しており、内容だけでなく映像表現と感情の関係にも関心が向いている。この作品は、「他者の経験を身体を通して理解できるのか」という問いや、演劇・プレイバックシアター・漫画朗読劇における「説明せずに伝える表現」の研究と深く接続する一作であり、今後の創作や研究の重要な参照点になり得る作品だと考えられます。


機動戦士Vガンダム
総監督:富野由悠季

作品との再会

子どもの頃にも見ていた『機動戦士Vガンダム』を、dアニメストアで期間限定配信されていたことをきっかけに見返しました。

時間も限られていたので、かなり駆け足での視聴です。

それでも見終わったあとに最初に出てきた言葉は、

「いやー、すごい。」

でした。

暗い。辛い。みんな死んでいく。

そんな印象は子どもの頃よりも強く受けました。

けれど今回強く残ったのは、「戦争が悲惨だった」ということより、「人が変わってしまう様子」がとても丁寧に描かれていたことでした。


老人と子どもから始まる物語

序盤でまず驚かされるのは、ゲリラ組織の姿です。
中心にいるのは老人たち。

動きもヨタヨタしていてどこか頼りなく、「この人たち、本当に戦えるのだろうか」と思ってしまうような集団です。

そこへ子どもたちが入り、気づけば主力として戦うようになる。
ほんとウッソ・嘘みたいな、物語としては極端な設定です。

だけど、大人がつくった状況を子どもが引き受けていくという構図は、
現実の戦争ともどこか重なって見えました。

この作品は最初から、英雄の物語ではないことを示していました。
誰もが十分ではないまま、それでも戦わざるを得ない世界が描かれています。


人はどの瞬間から別人になるのか

今回、一番考えさせられたのはこの問いです。

ウッソが憧れる女性カテジナさん。
彼女は窓辺にいる少し意識の高い普通の女性として登場します。

だからこそ、最後の姿があまりにも悲しい。
相手を騙してナイフで刺したり、顔を歪めて醜い行為を行ったり、そこまで行き着いてしまったことが、虚しく悲しい。
最終話目も見えなくなって、カサレリアに放浪している姿には哀れな気持ちも出てきました。
そして、カテジナがいつ、どのタイミングで、強烈にこんなにも変わっていってしまったのか、その変化がはっきりとわかりませんでした。
期間限定視聴の中で、見落としていたのかもしれないし、それくらい自然に変わっていったのかもしれません。

憧れの人が、いつの間にか全くの別人になってしまう。
まるで最初から彼女の中にあった何かが、少しずつ表へ出てきただけのようにも感じました。

そして、作中明確に変わってしまった女性がもう一人います。
ファラ・グリフォンです。

そのファラ・グリフォンはカテジナとは違う変化がありました。

酒場で出会った彼女は、ごく普通の人に見えます。
その後、ギロチンを実行する家系を背負う人物としての姿があり、宇宙漂流を経験したあとには精神そのものが壊れてしまう。

変化のきっかけがはっきりしています。

それでも酒場の彼女、宇宙漂流前の彼女、漂流後の彼女は、まるで別人でした。・・・それにしても、あの宇宙漂流の場面はなんともみっともない画面ですよね。射出される瞬間の惨めさがすごい・・・。

この作品は「悪人」を描いているのではなく、「変わってしまった人」を描いている。
だから見ていて苦しいのだと思います。

でも、子供の頃って大人のちょっとした変化が本当に強烈に感じましたよね。ウッソやシャクティたち、子供達の視点から世界をみてい多のかもしれません。


あっけない死と、英雄的な死

シュラク隊も印象的でした。
一人、また一人と亡くなっていきます。

その死に方はさまざまでした。
英雄的な最期もある。
本当にあっけなく終わる人もいる。
どちらも同じ重さを持っていました。

英雄だから価値があるのではなく、あっけない死にも、その人の人生がある。戦争とは、死そのものが日常になってしまう環境なのだと感じました。


最後の「冷たい手」

最終話の場面が、今回もっとも心に残りました。

視力を失ったカテジナがシャクティに触れる。
そのあと、ウッソがシャクティの手を握って言います。「氷でも触ったの。冷たいよ。」ウッソは、そこで何があったのか知りません。カテジナが来ていたことも知らない。けれど視聴者とシャクティだけが知っている。

だからこのウッソの言った「冷たい」という言葉は、シャクティだけではなく、カテジナにも向けられているようにも聞こえます。

人は互いを完全には理解できません。知らないまま終わることもあります。それでも感情だけは届いてしまう。説明されないからこそ、この場面は強く残りました。


優しい画面と残酷な世界

『Vガンダム』は影の少ない平面的な画面で描かれています。

どこか絵本のようで、世界名作劇場のようでもあります。
牧歌的な風景。犬と暮らす故郷。中世を思わせるギロチン。その穏やかな世界の中で、人が次々と死んでいく。道具たちだけでみていくと、暗黒の世界名作劇場という感じでしょうか。
このギャップが作品全体の空気をつくっています。

美しい背景だから悲劇が際立つのではありません。
美しい世界の中で人が壊れていくからこそ、「戦争は事件ではなく環境なのだ」と感じさせられるのです。


おわりに

今回は時間が限られていたこともあり、細かな場面を見逃しているところもあると思います。だから、また折に触れて見返したい作品になりました。

自分にとっては「人はどの瞬間から別人になるのか」を問いか続ける作品として残っています。

『Vガンダム』を見返して思ったのは、人は互いを完全には理解できないということです。だけど、理解しきれないからこそ、身体が反応する瞬間や、説明できない感情が生まれる。その余白が、人と人をつなぐ表現の力なのかもしれません。

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