三重県赤木城へ行ってきました。前編
三重県熊野市の赤木城へ行き、丸山千枚田、熊野古道通り峠に立ち寄ってきました☺️
赤木城
続日本100名城です✨
藤堂高虎築城、山奥なのに石垣造りな姿は(熊野のマチュピチュ)とも言われるそう。
私はいつもご縁がないけれど、雲海が立ち込めて(天空の城)になることもあるみたいです。
憧れで、前々から行きたい💓と思っていました。
※そんなんばっかりですが、そうなんですもん💦
歴史
ちょっと長くなりそうです🙇スミマセン🙇
1585年、紀州は羽柴秀吉によって平定されます。

2年前父と。
奥熊野地方に勢力を持っていたのは新宮を本拠とする堀内氏。
(こないだの鬼ヶ城城主の有馬氏を滅ぼしたお家だ!)↓
堀内氏は秀吉に臣従したので本領は安堵。和泉、大和、紀伊の領主となった羽柴秀長の配下となりました。
そして、熊野地方でも太閤検地が行われました。
早々に北山地域に一揆が起き、秀長は自ら出陣して討伐にあたりましたが、九州攻め最中であったため、中途半端な対応に終わったそうです。
また2年後、一揆が起こります。その際に秀長の代官が熊野の木材で私服をこやしていたことが発覚したみたいです。
そこで北山代官として一揆討伐を再開したのが、藤堂高虎。

王子様やん💓
この時にこの赤木城が築城されました。
つまり対・一揆勢の陣城。

主郭の二重桝形虎口から見た麓。
藤堂高虎の一揆討伐は峻烈で、赤木城南西の田平子峠では捕えられた一揆方の人々が処刑梟首されました。

この時、高虎は周辺の村々に
(赤木城の完成を祝いに登城せよ)
と触れを出し、祝儀に登城してきた地侍や村人たちを一挙に捕縛して田平子峠で打首に処したという話もあるそうです💦えー😱

ちなみに、この北山地方での一揆、北山一揆は、大坂冬の陣の際にも起こっています。
この時は吉野の修験者や山伏などを通じて、豊臣方として蜂起し、徳川方についた浅野氏の新宮城を乗っ取ろうとしたとのこと。
この一揆殲滅時にもこの赤木城が徳川方浅野氏名の拠点として利用され、一揆に加担した沢山の人々が田平子峠で処刑されたそうです。
⛰️⛰️⛰️⛰️⛰️
すごい、なんというか反骨心のある地域ですね。
中央政権には近いけれど、支配されにくい山奥。木材などの資源も豊富で、豊かに自治してきた地域だったのかな。
同じ三重、伊賀の忍びとかと通じるものがちょっとあるような。
あとは思ってたんと違う藤堂高虎像。
忠誠心に溢れてるんかもしれないけど、若く、尖ってる。こういった地域を支配するには一筋縄ではいかなかったんだろうけれど。
さて、
赤木城へ攻め入ります。
🏯🏯🏯
対一揆勢のコンパクトながら複雑な虎口、堅固な石垣造りの陣城。
きっと実践的な陣城でありながらも、権力を誇示する目的もあったんだろう。
🏯🏯🏯
って感じでしょうか☺️
警戒心のあるお城を見ると、一揆方はゲリラ戦を展開していたんだろうな、とも思えます。
駐車場にはトイレもパンフレットもあり、いきなり伝鍛冶屋敷跡がみえています。とても整備されています。また独り占めみたいです。

登ると早速石垣造りの東郭


連続桝形の虎口



北側には土の遺構の堀切もあります。

石垣祭り、もう少しお付き合いください。
続きます。
