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草鞋を編む暮らし② 綯う(なう)ということ

小学校低学年の夏休みだったと思う。
母がティッシュペーパーを細く裂き、縄綯いを教えてくれた。
実家は麻も栽培する農家で、母は子どもの頃から麻を綯う手伝いをしていたという。
ティッシュペーパーでも、うまく綯えるようになると面白くて夢中になった。
まさか、その何十年後に藁で縄を綯い、草鞋を作るようになるとは思わなかった。

初めて大石先生が縄を綯う姿を見たとき、その所作の美しさに見入った。
一定のリズムで、サッサ、サッサと藁が縄になっていく。無駄も迷いもなく、ただ自然だった。

何をお手本にするかはとても大切だ。
私は縄を綯うとき、先生の姿を思い浮かべる。あの静かで迷いのない所作を、自分自身の中にも少しずつ映し込むような気持ちで綯っている。

均一に綯うのは極めて難しい

草鞋の出来は、縄綯いで決まると言っても過言ではない。鼻緒や踵の返し輪など、肌に触れる部分ほど、細く、丈夫で、均一な縄が求められる。

けれど、相手は自然素材の藁だ。
一本として同じものはない。
その不揃いな藁が、手の中で少しずつ整い、美しい一本の縄になっていく。

今年採れた稲わらはしなやかで柔らかく、とても綯いやすい。乾燥が進んだ藁だと途中で切れてしまうこともある。
それが縄綯いの面白さであり、奥深さでもある。

藁と対話するように、綯っていく。
同じ作業の繰り返しに見えて、同じ縄は二度とない。

だから飽きることがない。
一日中藁を綯っていてもいいと思えるほど、この時間が好きだ。

富山「土徳の里」での草鞋編み合宿


先日、小学校低学年の子ども三人と、その親御さんたちと一緒に縄綯いをする機会があった。
夜八時を過ぎ、そろそろ眠くなる時間だったが、子どもたちは夢中で手を動かしていた。
その姿を見ながら、ふと幼い頃の自分を思い出した。

後日、ある記事で、
「幸せは、没頭の面積で決まる」
という話を目にした。
子どもたちが夢中になるのも、私が一日中続けていても飽きないのも、その時間の中に何か満たされるものがあるからなのだろう。

身近な自然素材を手に取り、ただ黙々と綯う。
それだけのことなのに、
心は静かに満たされていく。

(③につづく)


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