谷川岳と真田昌幸と滝川一益
やっぱり、こっち繋がりかなと。
本能寺の変の時、谷川岳辺りは誰がおさめてたんだっけ?
真田昌幸か。
沼田城か。
大河ドラマ『真田丸』でやってたな。
面白いとこ!
〈堺雅人〉主演×〈三谷幸喜〉脚本
— Prime Video(プライムビデオ) (@PrimeVideo_JP) April 26, 2026
NHK 大河ドラマ『真田丸』
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好奇心にあふれ、冒険を好み、
戦国の世を駆け抜けた《真田信繁(幸村)》
大坂の陣で戦国時代最後にして
最強の砦「真田丸」を
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また観てみようかな〜。
本能寺の変の時の真田家の動向は?
本能寺の変(1582年)が起きた当時、真田家(真田昌幸)は非常に危うい立場に立たされており、この大事件をきっかけに「表裏比興の者」と評される昌幸の巧みな生存戦略が本格的に始まります。
当時の状況を時系列で整理すると、以下のようになります。
### 1. 事件直前の状況:織田家への従属
本能寺の変のわずか数ヶ月前、真田家が長年仕えていた武田勝頼が滅亡しました。昌幸は生き残りのため、織田信長に恭順を誓い、織田重臣の**滝川一益**の与力(配下)となっていました。
### 2. 変報を受けた時の動き:冷静な情勢分析
京都で信長が討たれた際、昌幸は上野国(現在の群馬県)の岩櫃城や沼田城、あるいは本領の真田郷(長野県)周辺にいたと考えられています。
昌幸はいち早く変報を察知したとされますが、慌てて挙兵するのではなく、まずは滝川一益の動向を注視しました。
### 3. 事件直後の決断:滝川一益との決別
信長の死により、関東や信濃を統治していた織田軍の基盤が崩壊します。
* **神流川(かんながわ)の戦い:** 北条氏直が大軍を率いて織田領(上野国)に侵攻してきました。昌幸が仕えていた滝川一益はこれに敗北し、伊勢へと敗走します。
* **離反と自立:** 昌幸はこの混乱の中で一益を見限り、真田家の自立と領土防衛のために動き出します。
### 4. 「天正壬午(てんしょうじんご)の乱」への突入
本能寺の変によって、信濃・甲斐・上野の「旧武田領」は支配者がいない空白地帯となり、**徳川・北条・上杉**による激しい争奪戦が始まりました。
真田昌幸はこの三つ巴の争いの中で、驚異的な立ち回りを見せます。
1. まず**北条**に帰属する。
2. その後、密かに**徳川**と通じて北条を裏切る。
3. さらに上杉とも交渉を行う。
### まとめ
本能寺の変の時の真田家は、**「織田の従属下から脱し、巨大勢力に囲まれた絶体絶命の危機を、外交交渉と巧みな裏切りによって乗り越えようとしていた時期」**と言えます。
この時の混乱を切り抜けた経験が、後に徳川の大軍を二度にわたって退ける「上田合戦」などの軍略・知略へとつながっていくことになります。
滝川一益と伊勢
織田信長の重臣として知られる**滝川一益**(たきがわ いちます)にとって、伊勢国(現在の三重県の大半)は彼の出世の起点であり、軍事・政治の両面で長く深く関わった重要な拠点です。
一益と伊勢の関係について、主要なポイントを整理しました。
## 1. 伊勢平定の「尖兵」としての活躍
永禄10年(1567年)頃から、信長による北伊勢侵攻が本格化します。一益はこの方面の指揮を任され、巧みな調略と軍事力で北伊勢の有力勢力(北伊勢四十八家など)を次々と屈服させました。
* **桑名城の攻略:** 北伊勢の玄関口である桑名を掌握し、一益はこの地の拠点化を進めます。
* **蟹江城・長島への影響力:** 木曽川河口域の兵站(ロジスティクス)を抑えることで、後の長島一向一揆討伐においても中心的な役割を果たしました。
## 2. 北伊勢の支配者(長島城・亀山城)
伊勢侵攻後の元亀から天正年間にかけて、一益は**長島城**を本拠地とし、北伊勢5郡(あるいは北中部)を支配する「北伊勢の旗頭」となりました。
* **長島一向一揆との戦い:** 長島城を拠点に、長年にわたる一向一揆との死闘を制しました。一揆平定後は、焼け野原となった長島の復興と領国経営に尽力しています。
* **海軍力の構築:** 桑名や蟹江といった港湾都市を支配下に置いたことで、織田家最強の「滝川水軍」を組織しました。これが後の九鬼嘉隆らとの連携や、大坂本願寺攻めにおける海上封鎖(木津川口の戦いなど)に繋がります。
## 3. 「進むも退くも滝川」
一益の軍才は高く評価され、**「進むも滝川、退くも滝川」**という言葉が語り継がれています。
これは「攻めれば一番乗り、退却戦(しんがり)を務めれば無事に味方を逃がす」という意味で、特に伊勢の険しい地形や水郷地帯での戦いにおいて、彼の卓越した指揮能力が発揮されたことを象徴しています。
## 4. 本能寺の変と伊勢
天正10年(1582年)、一益は武田征伐の功績で「関東管領」相当の地位(上野国・信濃の一部)を与えられ、一時的に伊勢を離れます。しかし、直後に「本能寺の変」が勃発。
* **神流川の戦い:** 北条氏に敗北し、命からがら伊勢へと逃げ帰ります。
* **清洲会議での失脚:** 伊勢に戻ったものの、会議に間に合わなかったことや、その後の羽柴秀吉との対立により、最終的には伊勢の領地(長島城など)を没収され、表舞台から退いていくことになります。
### まとめ
滝川一益にとって伊勢は、**「水軍」と「調略」を武器に織田家内での地位を確立した場所**です。彼が整備した桑名や長島の基盤は、その後の近世伊勢の発展(桑名藩など)にも少なからず影響を与えています。
滝川一益の伊勢での足跡は?
滝川一益が伊勢で残した足跡は、単なる軍事占領にとどまらず、その後の地域のインフラや街づくりの基礎となっています。特に彼が拠点とした北伊勢エリアには、今もその名残を感じられる場所が点在しています。
主な足跡を、地域別に詳しく紹介します。
## 1. 桑名(桑名城と城下町)
一益にとって伊勢支配の最大の拠点が桑名です。
* **桑名城跡(九華公園):** 一益が本格的に築城・整備を行い、信長から「北伊勢の要」として託されました。現在の城跡は本多忠勝時代のものが主ですが、水堀を多用した機能的な構造の原型は一益時代に遡ります。
* **「十楽の津」の統治:** 当時、桑名は自由都市(十楽の津)として栄えていました。一益はここに介入し、軍事拠点化しつつも商業を保護しました。この時期に培われた水運の利向が、後の徳川時代の宿場町としての繁栄に繋がっています。
## 2. 長島(長島城と一向一揆の記憶)
織田軍にとって最激戦地の一つであった長島は、一益が戦後に心血を注いで復興させた地です。
* **長島城跡:** 現在は長島中学校の敷地となっており、校門付近に「長島城跡」の石碑が立っています。一益は一揆平定後、ここに居城を移しました。
* **大智院:** 一益の末裔やゆかりの人々が関わる寺院がこの周辺に残っており、一益がこの地の湿地帯をいかに開拓し、領地として安定させたかを物語っています。
## 3. 鈴鹿・亀山エリア(峯城と亀山城)
北伊勢の支配を固めるため、内陸部の重要拠点も抑えていました。
* **峯城(みねじょう):** 鈴鹿市にある山城跡です。羽柴秀吉との対立(賤ヶ岳の戦いの前哨戦)において、一益軍が籠城し、秀吉の大軍を相手に驚異的な粘りを見せた舞台です。現在も深い空堀や土塁が良好に残っており、一益の戦術眼を体感できるスポットです。
* **亀山城:** 伊勢国の中央部を監視する要所として、一益が滝川益重(一族)らを配置して守らせました。
## 4. 水の民との繋がり(蟹江城と水軍)
厳密には尾張国ですが、伊勢長島と一体の「水郷地帯」として一益が支配したのが**蟹江城**です。
* 一益は木曽三川(木曽川・長良川・揖斐川)の河口域を完全に制圧しました。彼が組織した「滝川水軍」は、伊勢湾の制海権を握り、織田信長の天下統一を兵站面から支えました。
### 一益の足跡を辿るなら
もし実際に現地を訪れる機会があれば、**桑名(九華公園)から長島城跡**を巡るルートがおすすめです。
* **九華公園(桑名城跡):** 水に囲まれた美しい公園で、一益がかつて見たであろう伊勢湾の広がりを感じられます。
* **峯城跡:** 登山が必要ですが、織田家屈指の軍略家と呼ばれた一益が、どのように地形を利用して防御陣を敷いたのかが今も鮮明に刻まれています。
一益は清洲会議後に失脚したため、伊勢での支配期間は限られていましたが、彼が整備した**「水運と城郭」のセット**は、その後の近世伊勢の原型となりました。
戦国時代、伊勢神宮の遷宮はどうなっていたのか?
戦国時代、伊勢神宮の式年遷宮は、歴史上もっとも困難な時期を迎えていました。
一言で言えば、**「幕府や朝廷の困窮により、長きにわたって中断していた」**のが実情です。
滝川一益や織田信長が伊勢に深く関わるようになるまでの、遷宮の悲劇的な状況とその後の復活について解説します。
## 1. 遷宮の中断(空白の100年)
式年遷宮は本来、20年に一度行われる国家行事ですが、室町時代中期から戦国時代にかけて完全にストップしてしまいました。
* **内宮(ないくう):** 1462年を最後に、**123年間**中断。
* **外宮(げくう):** 1434年を最後に、**129年間**中断。
* **原因:** 応仁の乱などの戦乱により、幕府の財政が破綻し、費用の捻出ができなくなったためです。当時の神宮は、社殿が朽ち果て、瑞垣(垣根)が壊れてイノシシが入り込むほど荒廃していたと伝えられています。
## 2. 救世主「慶光院」の活動
この絶望的な状況を救おうとしたのは、国家権力ではなく、**「慶光院(けいこういん)」**と呼ばれる尼僧たちでした。
* **勧進(かんじん):** 彼女たちは「勧進聖(かんじんひじり)」として全国を歩き、有力大名や庶民から寄付を集めました。
* **外宮の再興:** 1563年、尼僧・**周養(しゅうよう)**の尽力により、まずは外宮の遷宮が129年ぶりに実現します。この資金集めには、当時の戦国大名たちの協力もありました。
## 3. 織田信長と遷宮の復活
一益の主君である**織田信長**が伊勢を平定し始めると、遷宮の歴史は大きく動き出します。
* **内宮の再興:** 外宮が再興されたものの、内宮は依然として中断されたままでした。信長は伊勢を領国化した際、慶光院の**清順(せいじゅん)**らの訴えを聞き入れ、遷宮費用の拠出を約束します。
* **信長の資金援助:** 1582年、信長は遷宮のために「三千貫文」という巨額の寄付を行いました。しかし、その直後に**本能寺の変**で倒れたため、信長自身が完成を見ることはありませんでした。
## 4. 豊臣秀吉による完成
信長の遺志を引き継いだのが豊臣秀吉です。
秀吉は全国を統一した強大な権力と財力を背景に、1585年(天正13年)、ついに**内宮・外宮の両宮同時遷宮**を成し遂げました。これにより、100年以上続いた「空白の期間」が完全に幕を閉じたのです。
### 一益と遷宮の関わり
滝川一益自身が遷宮の儀式を直接主導したという明確な記録は少ないですが、彼が北伊勢を統治し、治安を回復させたことは、神宮への参拝路を確保し、寄付(勧進)をスムーズに行わせるための物理的な基盤となりました。
戦国時代の伊勢は、**「武士の抗争の地」**であると同時に、人々の祈りの象徴である**「神宮が消滅の危機から蘇る場所」**でもあったのです。
なんか、めちゃ勉強した〜。
ここまで、あんまり考えたことなかったもんね。
本能寺の変→清洲会議→滝川一益→谷川岳→真田昌幸→滝川一益→伊勢
伊勢に辿り着いたぞ〜!
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