届いていた|エピローグ 小さな灯り
Chapter 22 - day_zero: 小さな灯り
私が歩いてきた日々は、ずっと川の流れに逆らいながら息をしているみたいだった。
そんな私があの人と出会ったのは、大学の図書館だった。紙の匂いがする、静かな場所。
あの人は私と同じように、見えない流れに抗いながら息をしているのがわかった。私が流れに足をとられて立ち止まってしまった時、あの人もただ同じ歩幅で隣に立ち止まってくれた。
社会という大海原は、私たちが想像していたよりもずっと暗く、冷たかった。
私たちが乗った小舟は、行き先もわからないまま、その広く暗い海を漂っていた。
漕ぎ出してまもなく、あの人は最初の大きな波に飲まれた。
社会の息苦しさに耐えきれず、暗い水底へと沈みかけたあの時。共倒れを恐れたあの人は、私の指先から、一度だけその手を離した。
繋いでいた手がふっと軽くなり、冷たい海水だけが指の間に残ったあの時の絶望を、私は今でも覚えている。
けれど、あの人は一人で溺れ続けることはなかった。もがき、泥水を飲み込みながらも、自らの力で水面へ顔を出し、もう一度、私の手を強く握り直してくれた。
そうして幾度となく波に揉まれながら、私たちはこの小舟にしがみつき、二人でここまで生きてきた。
──だから、怖いよ。私はもうすぐいなくなる。
そばで私の手を握る顔には、あの時、波に飲まれて手を離した日と同じ、深い絶望の影が落ちていた。
だけど、あの時とは、違う。
あの時は、水面に私がいたからあなたは手を伸ばせた。でも、今度ばかりは、私が先にいなくなってしまう。私のいない真っ暗な海に一人残されれば、今度こそ、誰の手も届かない底へ沈んでしまう。
窓の外から、蝉の鳴き声が響いてくる。私の意識は、冷たい水底へとゆっくり沈み始めていた。
暗い水の底に、ドアの形をした光のようなものがあった。引き寄せられるように、手を伸ばした。
目を閉じるたびに、私はいつも同じ「八月」の部屋に立っていた。
均質で無機質なホテルの天井の下で、あの人は一人で激しく溺れていた。
私はあの人に近づき、その痛々しいほど擦り切れた頬に手を伸ばした。けれど、私の指先はその輪郭を虚しくすり抜け、その温もりに触れることはできない。ここは見るだけの場所だと、私の身体が知っていた。
今ここにいるのに、あの人の目は遠くを見ていた。
──あなたを、そこにひとりぼっちにはできない。
触れることも、声をかけることもできなかった。でも、一つだけできることがあった。ずっと言えずにいた気持ちを全部、あなたにぶつける。
その瞬間、さっきまで聞こえていたセミの鳴き声が、不意に耳元で爆発したように大きく弾けた。空間が、波立つ水面のように激しく揺らぎ始める。
こらえきれずに溢れたものが頬を伝い、私の叫びはセミの鳴き声に紛れて消えた。
「このままじゃ、ダメだよ」
耳をつんざくような八月のセミの声が、不意に遠ざかった。
ドアの形をした光の輪郭が、ゆっくりと元の形を取り戻していく。
気がつくと、私は再び静かな白い病室のベッドに横たわっていた。
窓の外からは、夏の終わりのセミの声が微かに聞こえる。先ほどの暴力的で耳障りなノイズではなく、遠く離れた場所から届くような、穏やかな響きだった。
私の体を包む空気が、波立つ水面のようにかすかに揺れたのを感じた。
その波紋の向こうから、幾つもの時間が流れ込んでくるようだった。
深い底でようやく泣けた、あの人の嗚咽が聞こえた。
暗闇の中から目を覚ましたあの人が、ホッとした表情で私の手を強く握り返してくれた。
玄関の扉が開いて、あの人が台所から迎えてくれる当たり前の日々が続いていた。
──あぁ、届いたんだ。あの人は、きっと顔を上げてくれる。
そばに視線を移すと、私の手を震える両手で固く包み込んでいた。その眉間には深い絶望の影が落ちていて、私が消えてしまった後の暗闇を恐れているのが痛いほど伝わってくる。
だけど、なぜか、大丈夫だと思った。
──この人なら、きっと浮かび上がってくる。あの時だって、もがきながら自分で顔を出した。今度は、私が先に待ってるから。
声には出さなかった。ただ、その気持ちだけを指先に込め、包み込んでくれている両手の中にそっと残した。
病室の空気が、長い時間をかけてきた波がようやく凪ぐように、静まり返っていた。
カサネが、行われた。
私は、ゆっくりと、目を閉じた。
広く暗い海の、遠くに、小さな灯りがあった。
