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音のない世界で、誰より自由に生きていた人

今から約30年前。
昭和の終わり頃。
短大を卒業した私は、
とある企業に入社した。

配属先は人事部人事課。
その中に、
身体障害者採用の女性がいた。
私より25歳ほど年上で
耳が不自由だった。

それまでの私は
障害のある人と関わったことがなく、
正直かなり戸惑った。
どう接していいかわからなかった。


私は勝手に
「彼女とはそんなに接することはないだろう」
そう思っていたのだった。

先輩が
「筆談すればいいから。簡単な言葉なら、口の動きでわかってもらえるよ。」
と言い、筆談で私を紹介してくれた。

彼女は笑顔で
「よろしくお願いします。私のことは聞いてるね?」
明るく大きな声だった。

私は戸惑った笑顔でうなずき、
あいさつ代わりに
頭を下げることしかできなかった。

彼女の仕事は
人事関係の書類作成とデータ管理。

パソコンに精通していた。
自分で勉強したらしい。

彼女は新人の私を何かと褒めてくれた。
人生あまり褒められたことがなかったので、
素直にうれしかった。

仕事中、課内の会話が聞こえない彼女に
私が筆談で説明することが増えていった。

「お昼です」
「お茶休憩しませんか?」

そんなコミュニケーションも段々と増えていった。


数か月経った頃
上司から
「彼女にパソコンと彼女の仕事を教わって。」
と言われた。

私は不安だったが、
彼女に教わるならなんとかなるかも…、
そんな気がしたのだった。

「EPOCALC」や「EPOACE」といった、
今の人は知らないであろうソフトを使った
データ管理が中心の仕事だった。

彼女は
パソコン用語すら知らない私に対して、
分かりやすく
根気強く
何度も何度も
分かるまで教えてくれた。
私の殴り書きの質問すら
速読し答えてくれた。


作業が長引き
昼休みに食い込んでしまった時など、
私たちは一緒にランチを食べに行った。

彼女は
席に座ると
真っ先に店員さんを呼んで

「私は、これとホットコーヒーね」

と自然に注文するのだ。

店員さんは、
彼女が耳が不自由だとは
思いも寄らないだろう。


やがて、
仕事が一通り理解できるようになったころ、
簡単な言葉なら、
私が大げさに口を動かすことで
彼女に伝えることができるようになった。

おかげで
おもしろいことも、
くだらないことも、
以前よりも簡単に
彼女と共有できるようになった。

私は入社当時
「彼女とはそんなに接することはないだろう」
勝手にそう思ってしまったが
気付けば一緒に仕事をするようになっていた。
勝手な思いとは、本当に勝手でしかなかった。


仕事終わりに
出かけるようにもなった。
洋画を観たり
美味しいものを食べに行ったり。

お互いに
家族の話など
プライベートな話もするようになった。

ある時
彼女がぽつりと話し始めた。

生まれた時から耳が聞こえなかったわけではなく、
何かのトラブルで
聞こえなくなったらしい。

その時だけは口調が厳しかった。

なんとなく
詳しく聞くことが憚られた。


音がない世界というのは、
言い方は悪いが
私には想像もできない世界だった。

人の話を聞くことも、
音楽を聴くことも、
街のざわめきも、
あらゆる音が存在しない世界。

ところが
彼女はその世界で
エネルギッシュに
たくましく生きていた。

物怖じすることなく
耳が聞こえないことを
周りの人が忘れるくらい
とにかくチャレンジしていた。
楽しんでいた。

苦悩があったかもしれないが
微塵も見せなかった。
彼女の強さだろうか。


会社の飲み会でのこと。
カラオケ大会が始まった。

中盤くらいに差し掛かった頃だったか
部長が彼女を誘って
「『銀座の恋の物語』を歌おう!」
というではないか。

二人はマイクを持って
小さなステージに上がった。

それは私にとって
度肝を抜かれる光景だった。

彼女は

みんなの手拍子を見てリズムを、

部長の口を見て歌うタイミングを、

自分の記憶からメロディーを、

それらすべてをつなぎ合わせて、

見事に歌い上げた。

信じられない…。
私は
初めて見る光景に
感動して
涙がこぼれそうになり、
それをごまかそうと
ひたすら大きな拍手を送り続けた。

後から知ったのだが
部長は
彼女が歌えることを知っていて
以前からカラオケを
コミュニケーションの手段としていたらしい。
つまり
私以外のみんなは
何度も見ていた光景だったのだ。


海外旅行だって
「ここ!」と思ったら行ってしまう。

ヴェネツィアのカーニバル
エジプトのピラミッド
オーストリアでの音楽会etc.


クルーズ船に乗りたい!と言っては
「飛鳥」「飛鳥Ⅱ」に乗って船旅も楽しんでいた。
素敵なお土産話をたくさん聞いた。
いつか一緒に行こうとも話していたが
実現はしなかった。
今思えばあの時が
一緒に行くタイミングだったのかもしれない。


仕事帰り
2人一緒にプールへ行ったりもした。
私は25mプールで泳いでいたが、
彼女は50mプールを何往復もしていた。


バレエ鑑賞にも誘ってくれた。

彼女の姪っ子がバレエをやっていたので、
コンクールに出ると言われれば
二人で応援に行き、
出演する公演があると言われれば
観に行ったものだ。

今でも忘れられない公演がある。
彼女が教えてくれなかったら
知ることのなかった

シルヴィ・ギエム
100年に一人の天才。
フランスの至宝。

彼女からたくさんのギエムの情報を吸収したが
「百聞は一見に如かず」だった。

東京会館で「ボレロ」を観た時は
感情が高ぶり、
鳥肌が立った。
涙も出てきた。
隣で彼女も泣いていた。
あんな感情は
それまで一度も経験したことがなかった。
まさに「芸術」を体感した瞬間だった。
そしてそれは
彼女がいなければ知ることのなかった感情だった。

映画もかなり観に行った。
話題の洋画はジャンルに関係なくとにかく観に行った。

彼女に勧められるミステリー小説にもハマりまくった。
どの本も、とにかく面白い。
「次は何をよめばいい?」
そう彼女に催促したほどだった。


私は出産のために退職したが、
そのあとも交流は続いた。

息子が生まれた時も
娘が生まれた時も
抱っこしに来てくれた。

子どもが歩けるようになると
デパートの屋上で遊んでくれた。

息子の少年野球の試合にも
応援に来てくれた。

ある日
彼女がうちに遊びに来た。
まだ字が書けない幼い日の娘は、
筆談をする私の真似をして
紙にペンでぐるぐる書いては
彼女に見せていた。
彼女は大笑いをしながらも、
とてもうれしそうに
娘との筆談を楽しんでいた。

なんて幸せなひと時だろう。


体調が良くないのは
少し気づいていた。

病院に掛かっていることも
知っていた。

ある日、
彼女の家に遊びに行ったところ
家の中がスッキリしていた。

片づけをしているとのこと。

以前
ビーズ刺繡の講習を
一緒に受けたことがあった。
彼女は
私が辞めた後も
一人で
ビーズ刺繡の講習を受けていた。
でも、
「もうやらないから」
そう言って残っている材料を
私に全部くれた。

その後も、
「新しいけどもう使わないから」
とバーミキュラの鍋を送ってきた。

それからどのくらい経った頃だったか、
彼女にメールを送っても返信がなかった。
忙しいのかな…。

エラーメールの通知がなかったので
彼女に届いているのではないか
そう思い、
その後もメールを送ってみたが
返信は来なかった。

年末に出した年賀状が
宛先不明で戻ってきた。
これは…
かなりショックだった…。

どうしたんだろう、
連絡が取れなくなってしまった。

どうしていいか、わからない。


今から3年くらい前だったか
有名人となった彼女の姪っ子の
Instagramが目に入り、
見ているうちに気になる一文を見つけた。

「この日は大好きだった伯母の葬儀で...」

彼女のことだ。
きっとそうだ。
彼女も姪っ子が大好きだったもの。

どうして…?
ショックだった。
スマホを持ったまま
動けなくなった。


この時から
私はショックを引きずったまま
今日まで来ている。
彼女のことを思い返すたびに
重いものを引きずっている感じになる。

彼女を忘れることはできない。
彼女に話したいことがたくさんある。

私にこれだけの影響を与えてくれた人は他にいない。
今の私が「個」として成り立っているのは、
紛れもなく彼女のおかげだ。
彼女に出会わなければ
「個」を持たない、
他人に迎合するだけの
薄っぺらい「私」でしかなかった。

私はあなたからたくさんのことを教わりました。
あなたを見て、
あなたの近くにいて、
「自分の人生を自分で楽しむ姿勢」の大切さ、
素晴らしさを教わりました。

あなたと友だちになれてよかった。
心からそう思います。
あなたがいたから、今の私は「私」でいられる。
本当にありがとう。
あなたのことを一生忘れることはないでしょう。

姪っ子のインスタを見た時の
「彼女のことだ!」
という私の勝手な思いは
本当に勝手な思いであってほしい。

入社当時に
「彼女とはそんなに接することはないだろ」
そう勝手に思ったにもかかわらず
そうならなかったように…




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