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止まっていた時間にも哲学はある

副題:不登校、ニート、失敗、遊び、そのすべてが俺を作った


人生で初めての記憶は、生まれる直前だったように思える

それが本当に正確な記憶なのか、後から身体が作り直した感覚なのかは分からない。

けれど俺の中には、痛い・熱い・眩しいという感覚だけが、妙に生々しく残っている。

クラシックな音楽が流れていたのを覚えている

産湯は、とにかく熱かった

俺にとって世界は、最初から優しい場所ではなかった。

熱くて、痛くて、眩しい場所だった。

***

次に目を覚ましたのは保育器の中で、遠くから祖母の声がした

後になって、黄疸で一ヶ月入院していたことを知った

保育器の中はとにかく暑かった

祖父にフライ屋の前で落とされた記憶がある

すごく痛かった

祖母は少し雑なところがあって、髪の毛を洗ってもらうのが痛かった

ちなみに、湯も熱かった

歩行器に乗るようになると、よく動いた記憶がある。

たまごボーロが好きだった

幼少のころ、

俺は1人で過ごす時間が多かった

自分がいま、1人でいることに気がついたのは2歳か3歳のころ

NHKの教育番組をよく見ていた

車が好きだった

物心ついたころには父はいなく母は弁当屋の仕事で家を空けがちだった

だから考える時間があった

図鑑や迷路やなぞなぞの本をよく読んでいた

妹や弟が欲しくて、幼稚園で牛乳パックで弟と妹を作った

母はそれを見て泣きそうになったらしい

習い事はたくさんしていた

けれど、縄跳びは10回も飛べなかったし、補助輪なしで自転車に乗れるようになったのは小学二年生のころだった

同じころ、母親が再婚して父親ができた

ファミコンをしたり、釣りをしたり、おやつを作ってもらったりした

割り算が出来るようになったのは小学四年生のころ

父親に怒られながら教わったら、意外と出来た

思い返してみれば、出来ないことだらけで

自分が出来るようになったからといって、出来ない人を馬鹿にすることは出来ないのだと思っていたように思える

それから、
中学の2年間の不登校も、社会人になってからの長いニート時代も

「止まっていた」のではなく「考えていた」時間だった

いろいろなことに興味を持ち

いろいろな仕事も経験したけれど

何をやっても長続きしなかった

世間から見たら不適合者かもしれない

だけど振り返ってみれば

俺の生き方は「亀仙流」の教えに重なる

よく動き、よく学び、よく遊び、よく食べ、よく休む

人生を面白おかしく張り切って過ごせ

これを俺は結果的に体現していた

三年寝太郎とも共通する生き方だった

三年寝太郎の物語は一見すると怠け者の寓話だ

でも本当は違う

見えない時間の中で内省と準備を重ね

やがて大きな行動へとつながっていく

それはまさに

現代における「静かなる哲学」の体現だ

人より多く失敗したし人より多く挑戦した

けれど俺にとっては全てが師だった

漫画もゲームもスマホも全てが学びの材料だった

無駄なことなど何一つなかった

その総合力で俺はこれからも戦っていく

***

この生き方は

現代社会の正解主義に対するアンチテーゼだ

人には人の人生がある

絶対の正解など、どこにもない。

だが、何でも正解になるわけでもない。

人は、自分の選んだ道の代償を引き受けたとき、初めてそれを自分の正解にできる。

失敗を恐れてはいけない

何もしないことがいけないんじゃない

失敗を恐れて動かないことがいけないんだ

だって「何もしない」も一つの行動だから

挑戦して失敗した人を笑ってはいけない

その人は前に進もうとした人なのだから

***

物理学者アインシュタインの言葉として知られる

「失敗や挫折をしたことがない人とは何も新しいことに挑戦したことがないということだ」

HONDA創業者・本田宗一郎の言葉として知られる

「失敗することを恐れるより何もしないことを恐れろ」

俺の人生を読むための補助線として哲学者がいた

そして哲学者たちの言葉もまた

今の時代に生きている

カントはこう言った

私たちは世界そのものではなく

世界の現れしか知覚できない

つまり見えているものがすべてじゃない

「内なる世界」にも真実があるということだ

ヘーゲルはこう言った

対立と統合を繰り返して

精神はより高次に発展する

つまり

失敗と成功、混乱と調和を繰り返してこそ

人間は本当の意味で成長できるということだ

デカルトはこう言った

思考している自分の存在は疑いえない

これが確実な出発点だ

つまり考え続ける限り俺は生きている

誰にどう思われようと、ここに確かに“俺”がいる
ということ

***

現代に生きる俺たちは

常に「正解の型」に当てはめられようとしている

でも、俺の人生が教えてくれたのはこうだ

人には、それぞれの「哲学」がある

見えない時間にも意味がある

失敗にも価値がある

思索することこそが、生きている証だ

それは「哲学」なんて言葉を使わなくても

俺の生き方そのものが哲学になっていたのだと

今なら、はっきり言える

哲学とは、本の中だけにあるものではない。

うまく生きられなかった時間を、どう引き受けるか。

失敗を、どう自分の一部として組み直すか。

動けなかった時間を、ただの停止ではなく、思索の時間として読み替えられるか。

その問いに、自分の人生で答えようとすること。

それが、現代における生きた哲学なのだと思う。

俺は、うまく生きてきた人間ではない。

けれど、うまく生きられなかった時間を、なかったことにはしない。


最終命題


止まっていた時間にも、哲学はある。

そして、その時間をなかったことにしない者だけが、自分の人生を思想に変えられる。


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