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鴨とは何か

副題:鴨南蛮蕎麦から考える、幸運と受け取り方の哲学

帰ってきたのは、地元ではなかった。

かつて日常だった場所は、今では少し非日常になっている。  
見覚えはある。  
記憶もある。  
けれど、そこにいる自分はもう、昔の自分ではない。

懐かしさはあるが、身体がそこを現在の居場所として受け取っていない。

一方で、今の日常は、かつて憧れだった海の近くの暮らしである。

昔は、海の近くに住むことは少し特別なことだった。  
日常から離れた場所。  
休日に向かう場所。  
生活ではなく、憧れとして眺める場所だった。

けれど今では、その場所で腹が減る。  
その場所で店に入る。  
その場所で温かい蕎麦を食べる。  
その場所で、どうでもいいはずの文章を読んで、なぜか考え込んでしまう。

帰郷とは、必ずしも生まれた土地へ戻ることではないのかもしれない。

むしろ、今の自分が腹を減らし、温かいものを求め、何気ない食事の中で問いを拾える場所へ戻ること。  
そこではじめて、人は現在の自分に帰ってくる。

藤沢に戻ってから食べた鴨南蛮は、ただの夕飯ではなかった。

それは、かつての憧れが今の日常になっていることを、静かに確認する一杯でもあった。


藤沢に戻ってから食べた鴨南蛮。帰郷は、地元ではなく、日常に戻った場所で完了する。

鴨南蛮蕎麦を食べにきた

腹が減っていた
温かいものが食べたかった
歩いた身体に、汁気と塩気と脂を入れたかった

理由はそれだけだった

けれど席に着き、店に置かれていた文章を読んでいるうちに、私は鴨そのものについて考え始めていた


鴨とは何か


合鴨
本鴨
真鴨

普段ならひとまとめに鴨と呼んでしまうものの中にも、品種の違いがあり、流通の違いがあり、野生と飼育の違いがある

人間は名前をつけることで世界を簡単にする



そう呼んだ瞬間、複雑な差異は一つの言葉に収まる

しかし実際の世界は、そんなに単純ではない

いま食べようとしているものは、ただの鴨ではない
そこには人間が食べやすいように整えてきた時間がある
野生の身体と、飼育された身体の差がある
狩猟と流通の違いがある
食文化の積み重なりがある

私は鴨南蛮蕎麦を食べに来たはずだった

だが目の前に現れたのは、料理ではなく、分類された世界だった


鴨がネギを背負ってくるということ


鴨南蛮といえば、どうしても思い出す言葉がある

鴨がネギを背負ってくる

都合のいいものが、さらに都合のいい条件まで伴ってやってくる
そんな意味で使われる言葉だ

鴨だけでもありがたい
そこに葱までついてくる

つまりこれは、幸運が単体で来るのではなく、幸運を完成させる条件まで一緒に来る状態を指している

考えてみれば、鴨南蛮という料理そのものが、すでにその構造を持っている

鴨の脂
葱の香り
温かい汁
蕎麦の喉越し

どれか一つだけでは完成しない

鴨だけなら重い
葱だけなら弱い
蕎麦だけなら淡い
汁だけなら物足りない

だが、それらが一つの器の中で出会うと料理になる

鴨がネギを背負ってくるとは、単なる幸運の比喩ではない

あるものが、それ自身を活かす条件とともに現れることなのだと思う

人間関係でも、仕事でも、買い物でも、旅でもそうだ

何かを得るだけでは足りない
それを活かせる場が必要になる

良い皿を手に入れても、置く場所がなければ重荷になる
良い知識を得ても、それを使う問いがなければ飾りになる
良い出会いがあっても、それを受け取る余白がなければ通り過ぎる

鴨だけではなく、葱も必要なのだ


棚から牡丹餅とは何か


似た言葉に、棚から牡丹餅がある

こちらはもっと受動的だ

何かを努力して取りに行ったわけではない
ただそこにいたら、思いがけず幸運が落ちてくる

けれど、この言葉も本当は単純ではない

牡丹餅が落ちてくるには、まず棚がなければならない
棚の上に牡丹餅が置かれていなければならない
そして自分が、その下にいなければならない

偶然とは、何もないところから発生するわけではない

偶然にも構造がある


牡丹餅
落下
その場にいる自分

この配置が揃って初めて、棚から牡丹餅は成立する

そう考えると、棚ぼたも完全な他力ではない

自分がそこにいたこと
その場所に足を運んだこと
受け取れる状態でいたこと

それらがなければ、落ちてきた牡丹餅は自分のものにはならない

今日の鴨南蛮もそうだった

腹が減っていなければ店に来なかった
店に来なければ鴨についての文章を読まなかった
文章を読まなければ、鴨とは何かなど考えなかった

つまり思考とは、棚から落ちてくる牡丹餅に近い

ただし、落ちてきたものを拾うには、こちら側にも腹が必要なのだ


一石二鳥とは何か


一石二鳥という言葉もある

一つの石で二羽の鳥を得る

これは効率の言葉だ

一つの行為が、複数の成果を生む

だが、ここにも少し怖さがある

一石二鳥は、あまりに合理的に聞こえる
少ない労力で多くを得る
それは現代人が好きな考え方だ

けれど、一石二鳥は本来、鳥を狙う言葉でもある

つまりそこには、偶然ではなく狙いがある

棚から牡丹餅は落ちてくる
鴨がネギを背負ってくる
だが一石二鳥では、こちらが石を投げる

ここで人間は、受け取る側から働きかける側へ移る

私は鴨南蛮蕎麦を食べに来た

一つ目の目的は、腹を満たすことだった
二つ目の成果は、思考が生まれたことだった

これは一石二鳥に近い

しかし私は、最初から論考を書くために蕎麦屋へ来たわけではない

腹が減ったから来た
温かいものが欲しかったから来た
その結果、思考までついてきた

ここが面白い

一石二鳥には、狙って二つを得る場合と、結果として二つになってしまう場合がある

前者は効率
後者は豊かさ

今日の鴨南蛮は、後者だった

食事をしに来ただけなのに、思考までついてきた

それは、鴨がネギを背負ってきたようでもあり、棚から牡丹餅のようでもあり、一石二鳥のようでもあった


漁夫の利とは何か


さらに、もう一つ近い言葉がある

漁夫の利

二者が争っている間に、第三者が利益を得る

これは鴨ネギや棚ぼたとは少し違う

鴨ネギは、幸運が条件まで連れてくる
棚ぼたは、幸運が上から落ちてくる
一石二鳥は、一つの行為が複数の成果を生む

しかし漁夫の利は、他者の争いが自分の利益になる

ここには社会がある
対立がある
消耗がある
そして、その隙間に利益が生まれる

だから漁夫の利は、幸運の中でも少し後ろ暗い

自分は何もしていないようでいて、他者の不和や失敗の結果を受け取っているからだ

もちろん、現実には漁夫の利が悪いとは限らない

誰かが争っている時に、冷静な第三者が全体を収めることもある
混乱の中で、誰かが新しい秩序を引き受けることもある
市場でも、人間関係でも、組織でも、空白を見つけた者が利益を得ることはある

けれど、漁夫の利には、幸運の倫理が問われる

その利益は、自分の努力によるものなのか
他者の争いに便乗したものなのか
それとも、混乱のあとに残された余白を引き受けたものなのか

ここを見ないと、幸運は少し濁る

鴨南蛮蕎麦を食べながら考えるには、少し重い話かもしれない

けれど、ことわざが面白いのは、こういう濁りを隠していないところだ

幸運には、明るいものだけではない

条件が揃ってやってくる幸運もある
上から落ちてくる幸運もある
一つの行為から複数生まれる幸運もある
他人の争いの隙間に生まれる幸運もある

幸運は、いつも清潔な顔をしているわけではない

だからこそ、人は幸運を得た時に、自分が何を受け取ったのかを考えなければならない


果報は寝て待て


では、これらはどこへ向かうのか

おそらく、果報は寝て待てに接続する

果報は寝て待てとは、何もしなくていいという意味ではない

むしろ逆だと思う

やるべきことをやったあと
動くべき時に動いたあと
整えるべきものを整えたあと

それでもなお、自分の力だけではどうにもならない領域が残る

そこで人は待つ

待つとは、放棄ではない
待つとは、世界の側に余白を返すことだ

鴨がネギを背負ってくるのを、無理やり作ることはできない
棚から牡丹餅を、意図して落とすことはできない
一石二鳥も、狙いすぎれば一羽も得られないことがある
漁夫の利も、他者の争いを期待し始めた瞬間に、少し卑しくなる

幸運には、こちらが支配できない部分がある

だが、完全に無関係でもない

腹が減ったから店に行く
店に行ったから文章に出会う
文章を読んだから問いが生まれる
問いが生まれたから、鴨南蛮蕎麦がただの夕飯ではなくなる

果報は寝て待てとは、何もせず寝ていれば幸運が来るという話ではない

それは、自分の行為と世界の偶然が交差するまで、焦って意味を奪いに行かない態度なのだと思う

待つためには、何もしていないだけでは足りない

腹を減らしておくこと
歩いておくこと
問いを持っておくこと
目の前の文章を読むこと
違和感を拾うこと
面白いと思った瞬間に、立ち止まること

そこまでして初めて、待つことは怠惰ではなくなる

待つとは、世界がこちらに届くための空間を残すことなのだ


鴨とは何だったのか


鴨とは何か

最初は食材だった

合鴨
本鴨
真鴨

そう分類される、肉であり、品種であり、流通する商品だった

けれど考えていくうちに、鴨は別のものになった

鴨は、幸運の比喩だった
鴨は、条件を背負ってくる存在だった
鴨は、食事と思考を同時に運んできたものだった

鴨南蛮蕎麦を食べに来た私は、空腹を満たしに来たはずだった

だが実際には、空腹だけではなく問いまで満たされてしまった

これが、鴨がネギを背負ってきたということなのかもしれない

そして、こういう出来事は狙って起こすものではない

腹が減ったら食べに行く
目についた文章を読む
違和感があれば立ち止まる
面白ければ考える

その程度でいい

果報は寝て待て

ただし、寝る前に、腹は減らしておいた方がいい

空腹がなければ、鴨は来ない
問いがなければ、葱にも気づかない
他者の争いばかり見ていれば、漁夫の利だけを待つ人間になる
効率ばかり求めれば、一石二鳥の鳥しか見えなくなる
棚ぼたばかり願えば、自分がどの棚の下に立っているのかも忘れてしまう

幸運とは、ただ降ってくるものではない

それは、世界の側で起きた出来事を、こちらが意味として受け取れる状態になっていることだ

今日の鴨南蛮蕎麦は、ただの夕飯ではなかった

それは、偶然が意味になる瞬間を、温かい汁の中で見せてくれた一杯だった

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鴨南蛮蕎麦を食べながら思考が立ち上がった今回の記事は、その理論の実践編とも言える。

この記事が書けたこと、そして鴨について考察したこと。

この二つは私にとって小さな暁光だったのかもしれない。

夜が完全に明けたわけではない。

それでも、問いがまだこちらに届く。

腹が減り、店に入り、文章を読み、考えてしまう。
その程度のことが、まだ私を世界につなぎ止めている。

果報は寝て待て。

けれど、待つ者の内側に、問いの火が残っていなければならない。

今日の鴨南蛮蕎麦は、その火を少しだけ明るくした。


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