「美味しそう」と「美味でした」――死んだ文化と、生きている口語のあいだで
「美味しそう☺️」
ある日、いつものようにSNSにそうポンと書いた一言から、
俺は地味〜に深い日本語の沼に落ちていった。
美味しそう(おいしそう)
美味そう(うまそう)
どっちも同じ「うまそう」じゃん、くらいにしか思ってなかったのに、
この送り仮名の違いが、実はぜんぜん「どうでもよくなかった」と知った。
もしかしたら、美味そうを(びみそう)と読んでる人もいるかもしれない。
美味でしたは(びみ)と読む人も(うま)と読む人もいるかもしれない。
それは地域によっても年齢によっても微妙に変わってくるだろう。
でもこれって、方言の名残なのかも。
心の中で「美味」の読み方ひとつでざわついている。
そんな心の中を眺めながら、俺はふと気づいてしまった。
ここには、日本語の深層構造が、そのままむき出しになっているのではないかと。
1. 「美味しそう」「美味そう」「うまそう」という人格の違い
まず、送り仮名だけで、語り手の「顔」が変わる。
• おいしそう
いちばん柔らかい。ひらがなベースで、距離が近い。
日常会話・SNS向けのニュートラル。
• 美味しそう
正統派。きちんとしているけれど、固すぎない。
「美味しい」の連用形+「そう」。文章でも安心。
• 美味そう
頭の中では「うまそう」と読んでいることが多い。
ちょっと男前でラフなニュアンス
人によっては「美味しい」より「うまい」寄りに聞こえる。
• うまそう
完全口語。友達同士、居酒屋、ラフなSNS
「うっまそ」「うまそ〜」と伸ばしやすい世界
意味としては全部「おいしそう」なのに、
送り仮名と漢字の組み合わせで、
語り手の人格・距離感・温度まで変わってしまう。
これは、現代版の「身分ことば」みたいなものだ。
時代劇で「拙者」「あっし」「おら」が階級を示していたように、
今は「美味しそう」「美味そう」「うまそう」が、
タイムライン上でゆるく“キャラ”を表現している。
2. 「美味でした」と「びみそう」という、文化の死骸
さて問題の「美味」。
漢字としてはこう読める。
• 音読み:びみ
→ 「美味(びみ)」=うまい味、上品な“美味”
古い文章なら、
これは誠に美味なり。
というふうに、
名詞としての「美味=うまい味」として使われる。
一方、現代の私たちは、
• 「美味しい」=おいしい
• 「うまい」=うまい
という口語の感覚で生きている。
だから「美味でした」と書くとき、
頭の中身はたぶん「おいしかったです」「うまでした」だ。
ところが漢字だけ拾うと「びみでした」と読めてしまう。
同様に「美味そう」も、
書いた本人は「うまそう」なのに、
文字だけ見た人が「びみそう」と誤解析してしまう。
ここで浮かび上がるのが、あの一言だ。
文化は死んでも口語は生きてる。
「美味(びみ)」という漢語文化は、
もはやほとんどの日本人の身体感覚からは離れている。
でも漢字だけは辞書の中に生き残っていて、
たまにこうして現代の口語と接触事故を起こす。
「美味でした」「美味そう」は、
死にかけた漢語と、生きている口語のフランケンシュタイン表現なのだ。
3. 呉音・漢音・唐音――いつ来た音なのか
ここでいったん、読みの層を整理してみる。
日本語の「音読み」は、実は一枚板ではない。
• 呉音:古い。仏教と一緒に南朝ルートで入ってきた音
例:極楽(ごくらく)
• 漢音:いわば“本場の標準中国語”として、唐の都・長安あたりから持ち帰られた音
例:意味(いみ)、美味(びみ)
• 唐音:さらにあと、宋・元・明あたりの生々しい中国語が禅僧や商人を通じて入ってきた音
例:行脚(あんぎゃ)、蒲団(ふとん)
だいたいの順番は、
呉音 → 漢音 → 唐音
で、「日本に入ってきた時代」がずれている。
こうやって見てみると、
• 美味(びみ)は、漢音層のことば
• でも私たちの日常感覚では「おいしい/うまい」に吸収されている
つまり、「美味」は歴史的には立派な漢語なのに、
現代口語の世界ではほぼ死にかけの文化コード、という位置にいる。
4. 唐モロコシと唐辛子――“唐”ブランドの正体
ここで、もうひとつの「唐」が出てくる。
• トウモロコシ(唐もろこし)
• トウガラシ(唐辛子)
どちらも、実体はアメリカ大陸原産だ。
コロンブス以後、世界をぐるっと回って日本へ来た。
にもかかわらず、日本語名には「唐」がついている。
これは歴史上の“唐”という王朝を指しているというより、
「大陸経由でやってきた異国のもの」
というラベルとしての“唐ブランド”だ。
同じ構造をもつ言葉はたくさんある。
• 唐草模様
• 唐紙
• 唐菓子
「唐」は、いつの間にか
「向こう側から来た、ハイカラなもの」
のタグになっていた。
「唐音」が、中国語の発音史のラベルだとすれば、
「唐辛子」「唐もろこし」の唐は、
交易史・舶来文化側のラベルだ。
音の層にも、物の名前にも、
日本人は「唐」というタグを貼って、
「自分たちの世界ではない場所」から来たものを区別してきた。
5. 1946年の国語改革――文語の断絶と、口語のしぶとさ
ここで、あの年が出てくる。
1946年の教育の統一の名残かな。
戦後すぐの国語政策で、ざっくりこんなことが起きた。
• 当用漢字の制定:難しい漢字を削る
• 現代仮名遣い:発音に近い書き方に揃える
• 文語体(〜なり、〜べし)を教育の中心から外し、口語体を標準にする
その結果どうなったか。
• 漢文・和歌・古典の世界は、
「読める人だけが読む博物館」的な場所に押し込まれる。
• 一方、教室では「標準語の口語」が一斉に配られる。
つまり、文語文化の連続性が一回ぶった切られた。
でも、しゃべりは勝手に生きていく。
方言も、家の中の話し言葉も、
テレビやネットで生まれた新語も、
誰の許可も待たずに増殖し続ける。
「美味(びみ)」は、
この断絶の縫い目に挟まって残った存在だ。
• 漢語としての「びみ」は、文化史側の死にかけたコード
• でも「美味しい」「うまい」の感覚は、口語としてしぶとく生きている
そこで、
美味でした(びみでした? おいしかったです?)
美味そう(びみそう? うまそう?)
という、
文語の亡霊と口語の生命力が混線した表現が生まれる。
6. 「滋味」というラストゾーン
最近知った言葉として「滋味」があった。
• 滋:うるおう、じわじわ満ちる
• 味:そのまま味
「滋味」は、
ガツンとした“うまさ”とは少し違う。
• ラーメンに対して「うまっ!」
• 出汁のきいたお吸い物に対して「滋味深い」
みたいな違いがある。
即効性の快楽ではなく、
時間をかけて身体と心にしみてくる味。
ここにはまだ、
• 漢語としての「滋味」
• それを日本語として「じみ」と読む舌の感覚
が、ギリギリ同じ座標に重なっている。
美味・旨味・滋味
このあたりの語彙は、
「言葉の歴史」と「舌の歴史」がまだぎりぎり接触している、
ラストゾーンみたいな場所だ。
7. 音読み・訓読みでは足りない世界
最後に、読みの種類そのものを少し整理する。
教科書的には、
• 音読み
• 訓読み
の二種類だけど、実際にはもっと層がある。
音読みの中にも、
• 呉音・漢音・唐音・慣用音
訓読みの中にも、
• 普通の訓
• 熟字訓(今日=きょう、大人=おとな、土産=みやげ)
• 国訓(日本側が勝手に意味を与えた読み)
さらに、
• 名乗り(人名だけの読み)
• 当て音(珈琲=コーヒー)
• 当て訓・義訓(寿司=すし、出汁=だし)
まで入ってくる。
つまり、
「音読み/訓読み」という二項対立では、
日本語の現場で起きていることを全然言い切れていない。
「美味」「滋味」「唐辛子」あたりを触っているだけで、
• 発音史
• 交易史
• 宗教史
• 食文化史
みたいなものが、ぜんぶ薄く折りたたまれて入っている。
おわりに:死んだ文化と、生きている口語の交差点で
「美味しそう」と「美味そう」を送り仮名ひとつで使い分ける。
「美味でした」を「びみ」と読むべきか、
「おいしかったです」の上品バージョンとして使うか迷う。
その小さな違いの裏側で、
• 呉音・漢音・唐音
• 唐モロコシ・唐辛子
• 漢語・唐語・当て字
• 1946年の国語教育の断層
みたいな、歴史のレイヤーが静かに重なっている。
文化は簡単に死ぬ。
古典も、漢文も、禅語も、
「教えなければ読めないもの」になっていく。
それでも、口語はしぶとく生きている。
「うまそう」「美味しそう」「滋味深い」
そんな何気ない一言の中に、
千年以上前の中国語や、戦後教育の痕跡や、
知らない土地から運ばれてきた穀物の歴史が
うっすらと影を落としている。
送り仮名を一文字変えるたびに、
私たちは気づかないまま、
かなり分厚い歴史と取引しているのかもしれない。
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