生存に全振りするという反逆
導入|生活が変わると、人は思想よりも生存に寄る
久しぶりに記事を書こうと思った。
12月に引っ越しや就職が重なり意識がそちらに集中していたため、こうした思索の時間が遠ざかっていたように感じる。
記事のストック自体は200以上あるので毎日投稿を続けることは可能だったが、細かな修正まで手が回らないと判断したため、中途半端になるくらいならいっそのこと投稿を休んでしまおうと考えたというわけだ。
しかし、新年になり早くも一月が終わった。
今はまだ新しい仕事を覚える日々ではあるが、少しだけ自分の思索に戻ってこられたように感じる。
生活が変わると、人は思想よりも生存に寄る。
そのとき初めて、自分がどれほど“意味”ではなく“生き延びること”に支えられていたかが見えてくる。
第一章|なぜ英雄になりたくないと思ったのか
さて、話を本題に近づけよう。
みなさんは日本が戦争になったらどうするか考えたことはあるだろうか?
憲法9条のもとで、日本が国際紛争を解決するために自ら戦争を始めることは、法制度上想定されていない。
しかし、周辺有事に巻き込まれる可能性までゼロとは言えない。
日本周辺で想定される有事としては、台湾海峡や朝鮮半島での軍事衝突、急激な体制変動などが挙げられる。
田舎に逃げるとか、海外に逃げるとか
それも良い選択だと思う。
特に、守るべき存在がいる人にとっては自分が倒れたら悲しみが連鎖してしまうから。
また、まだ守られるべき存在の人や自分は戦力にはならないだろうと自覚している人もいると思う。
そういう人たちは是非とも生き延びてほしい。
生き延びたあなた方が日本という文化を守り、次世代に継承するのだ。
それが、生きるという選択をした人々にとっての戦争なのだから、後ろめたく思う必要はない。
それでも戦場に出て戦うという選択をする人もいると思う。
元の生活を取り戻したいとか、慣れ親しんだ街を壊した敵国を許せないと考える人もいて当然だと思うからだ。
でも私は、英雄になどなりたくはないと考えている。
私には愛国心があるし、戦場に出ることだろう。
仮に国から動員を求められるほど事態が切迫すれば、私は前線に出ることになる気がする。
自分から志願するかもしれない。
しかし、死にたいわけではない。
生存を常に意識した立ち回りになるとは思う。
では、なぜ英雄になりたくないと思ったのか
死んだ英雄より、生き残った無名の方が合理的ではないか。
この考えに触れたとき、多くの人は一瞬うなずきかけて、すぐに違和感を覚える。
それでも前に出ろ。
それでも命を賭けろ。
そう言われ続けてきた社会の空気と、合理性が正面衝突するからだ。
生き残るという選択は、論理的には正しい。
だが感情的には、どこか卑怯に見える。
このズレは、個人の弱さではない。
評価と意味の配分が、最初からそう設計されている。
生存に全振りするという考えは、戦場だけの話ではない。
偶然居合わせた個人に、他者の生死を決める責任が押しつけられたとき、どこまでその役割を引き受けるべきなのか。
その問題については、トロッコ問題を通して考えている。
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『トロッコ問題について考えてみた。』
第二章|名誉はどこで命より重くなるのか
勲章や階級は、なぜ必要とされたのか。
それは、単なる美談の副産物ではない。
国家は、すべての功績を土地や金銭だけで報いることはできない。
そこで、功績を目に見える形に変え、人々の模範として社会に示す象徴的な報酬が重要になる。
もちろん、勲章が金銭報酬の代用品としてだけ生まれたわけではない。
それは国家への奉仕を可視化し、人々を共通の価値へ結びつけ、次の行動を方向づける制度でもあった。
前近代の戦争における報酬は分かりやすかった。
土地、俸禄、略奪の黙認
だがどれも、配り続けることができない。
土地は有限で、俸禄は財政を圧迫し、略奪は秩序を壊す。
そこで登場したのが、財政コストがほぼゼロで、希少性だけが極端に高い報酬だ。
それが勲章だった。
近代国家、特に徴兵制を採用する国家にとって、全兵士を金で報いるのは不可能だった。
だが全兵士に意味を与える必要はある。
報酬は概念的には二層化される。
給与や恩給などによる物質的保障
勲章や称号による象徴的差異化
この差異化の装置として、勲章は異常なほど優秀だった。
増やしすぎれば、希少性と権威が失われる。
胸につければ、一瞬で功績が可視化される。
そして、その評価は人格の一部であるかのように記憶される。
ナポレオンが1802年に創設したレジオン・ドヌール勲章も、軍人だけでなく、文民の功績まで国家が可視化する制度だった。
そこには単なる精神論ではなく、名誉を通じて個人の功績と国家への奉仕を結びつける、極めて現実的な機能がある。
国家は知っている。
人間は、金だけでなく、評価のためにも命を賭けるということを。
これは社会的動物としての人間を前提にした、冷酷な合理性だ。
名誉は生活を支えない。
だが行動を方向づける。
国家が欲しいのは後者だ。
勲章は、過去の功績への象徴的な支払いであり、次の奉仕を促す広告にもなりうる。
名誉が通貨として機能する社会では、人は財布ではなく、視線の中で生きる。
第三章|前線で判断軸を手放さないということ
戦場に立った人間にとっても、人の目は消えない。
むしろ強化される。
上官の目
仲間の目
部隊の評判
臆病者として記憶される恐怖。
ここで重要なのは、人はときに肉体的な死よりも社会的な死を強く恐れるということだ。
逃げた兵は生き残ることがある。
だが逃げたという物語が残れば、帰る場所が壊れる。
戦争がえげつないのは、三つの恐怖を同時に叩いてくる点にある。
肉体が壊れる恐怖
仲間を失う恐怖
意味を失う恐怖
だから名誉は、戦場に入る前から作用する。
実在の勲章よりも、想像上の評価が先に人を縛る。
誇りを持って死ぬか。
臆病者として生きるか。
この二分法は、現実を極端に単純化している。
だが単純だからこそ、判断を奪う。
本当に極限を越えた人間は、一時的に視線の世界から切り離される。
名誉も恥も消え、残るのは呼吸と音と次の一歩だけだ。
問題は、そこから戻ってきた後だ。
多くの人は考える。
あのときの自分は、どう見えるだろうか。
生存に全振りするという選択は、勇敢でも臆病でもない。
ただ、評価軸を自分の手元に残し続けるという行為だ。
英雄譚に回収されない生き残り方は、後から重い意味を引き受ける。
それでも判断を手放さなかったという事実だけが、静かに残る。
だが、人間に「物語に殉じること」を求めるのは、戦場だけではない。
平時の社会にも、敗北者は生き残る資格がないかのような物語が存在する。
第四章|経済的敗北に殉じないということ
市場もまた、ときに人間へ同じ物語を与える。
信用取引で巨額の損失を出した。
事業に失敗した。
借金を返せなくなった。
財産も信用も失った。
そのとき人は、単に金を失ったとは考えない。
自分の判断力を失った。
家族からの信頼を失った。
社会に戻る資格を失った。
人生そのものを失った。
そんなふうに、経済的な失敗を存在の失敗へ変換してしまう。
けれど、返せない借金と、生きられない人生は同じではない。
返済不能は、支払い能力の問題である。
破産・免責は、人格を裁くための制度ではない。
支払不能になった債務関係を法的に整理し、経済生活を再建する機会を確保するための制度である。
それでも人が死を考えるのは、借金があるからだけではない。
「すべてを返せない人間には、生きる資格がない」
「勝負に負けた人間は、敗北者として終わるべきだ」
そんな物語に、自分自身を閉じ込めてしまうからだ。
もちろん、一生返せないと思えるほどの借金を、数年で返してしまおうという気概があってもいい。
何もないところから金持ちになるには、それほどの執念が必要なのかもしれない。
だが、返し切る覚悟を持つことと、返せなければ死ぬしかないと思うことは違う。
前者は生きる力であり、後者は物語への服従である。
一発で取り返すことが、反逆なのではない。
むしろ、一発逆転に再び賭けることは、市場の勝敗に自分の価値を預け直すことでもある。
損失を確定すること。
助けを求めること。
制度を使うこと。
生活を小さく作り直すこと。
恥を抱えたまま働くこと。
それもまた、市場が用意した勝者と敗者の物語に従わない生き方である。
損失を確定すること。
助けを求めること。
制度を使うこと。
生活を小さく作り直すこと。
恥を抱えたまま働くこと。
それもまた、市場が用意した勝者と敗者の物語に従わない生き方である。
市場で敗北しても、生命まで市場に差し出す必要はない。
金を失っても、未来を語り直す権利までは失っていない。
死とは、その後の自分を語る権利を他者に譲ることである。
だから生き残ることは、借金を返すことよりも先にある。
派手な成功にも、派手な破滅にも殉じず、地味な生活をもう一度組み立てる。
それもまた、生存に全振りするという反逆なのだ。
終章|派手な死より、地味な生を選ぶという選択
戦場であれ、市場であれ、人は自分より大きな物語に命を差し出すよう求められることがある。
生き残ることは、逃げではない。
物語に殉じないという、静かな反抗だ。
名誉や勲章は、人の視線を制度化した装置にすぎない。
それ自体が人を救うわけではない。
それでも生きてしまった者には、別の責任が残る。
語られなかった生を引き受けること。
判断を他人に委ねなかった事実と共に、生き続けること。
人は死をくぐっても、意味からは簡単に逃げられない。
そこに、人間の強さと残酷さが同時にある。
生存に全振りするとは、ただ命を長らえることではない。
命だけを残して、判断も意味も他者に明け渡すことではない。
生き延びた後の自分を、誰の物語として生きるのか。
その決定権を手元に残し続けることまで含めて、生存なのである。
派手な死より、地味な生を選ぶ。
それは臆病ではなく、生存に全振りするという反逆だ。
後記|死ぬ度胸ではなく、生きる勇気
この記事を見返して、豊臣秀吉の朝鮮出兵を思い出した。
朝鮮出兵の動機については諸説ある。
その一つに、天下統一後、功績を上げた家臣へ与える新たな所領を国外に求めたという見方がある。
苦労に報いた家臣には、より多くの石高を与えたい。
けれど、日本の土地には限界がある。
そこで、秀吉は外に目を向けたという説明である。
ただし、秀吉自身の動機を確定できる史料はなく、土地不足だけで朝鮮出兵を説明することはできない。
それでも、有限な報酬が外部への膨張圧力を生むという構造は、第二章の話と重なる。
そして、最近書いた記事の一文で
「死ぬ度胸はないけど、生きる勇気ならある。」
という一文がある。
これは、この記事のタイトルの
『生存に全振りするという反逆』
に通じるものがあると思う。
最終命題
死とは、語りの権利を他者に譲るということ
生き残ることは、物語に殉じないという反逆である。
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