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トロッコ問題について考えてみた。



みなさんはトロッコ問題をご存知だろうか。

一本のレールの先には五人

レバーを切り替えれば、もう一方のレールにいる一人が犠牲になる。

あなたはレバーを引くべきか、引かざるべきか。

倫理学ではおなじみの思考実験だ。

さて、私の答えは少し拍子抜けするかもしれない。

「急いでその場から立ち去る」

これが私の結論だ。

ここで、決してやってはならないことがある。

それはレバーを操作することだ。

一度でもレバーに手をかけた瞬間、あなたは「当事者」になる。

結果がどう転んだとしても、法的には極めて不利な立場に立たされる。

レバーを操作すれば、自分の行為と一人の死との因果関係が生まれる。

ただし、それがどのような法的評価を受けるかは、故意、立場、緊急性、ほかの回避手段の有無によって変わる。

もちろん、情状酌量の余地はあるだろう。

執行猶予がついたり、無罪になるかもしれない。

しかし、それが確定するまでには何年もの時間がかかる。

遺族から訴えられる可能性もある。

裁判が終わるまで、社会的には「疑われた人」であり続ける。

その精神的な負担は誰にもフォローしてもらえない。

だから、立ち去る。

ただし、ここで一つ厄介な話がある。

レバーを操作しなくても、罪に問われる可能性はゼロではない。

日本法では、何もしなかったことが責任になる場合もある。

ただし、それは誰にでも一般的な救助義務があるという意味ではない。

その人に具体的な作為義務があり、救助や結果回避が可能だった場合に、不作為による責任が問題になる。

日本法では、

不作為犯

作為義務

結果回避可能性

この三点が噛み合うと、「何もしなかった」ことが「した」と見なされる。

重要なのは、無理に英雄の役割を引き受けないことである。

しかし、直接レバーを操作しないことと、通報や警告まで放棄することは同じではない。

自分の安全と責任能力の範囲内で、できることだけをする。

それもまた、生存に全振りする判断である。

重要なのは、これは見殺しとは別の話だということだ。

この記事を書いた意図は
「逃げ得」ではなくて、

「責任の引き受け可能性の限界」
にある。

ここで、最も強い反論が想定される。

「皆がそうやって立ち去れば、
助かるはずの命は恒常的に切り捨てられる。」

「それでもなお、立ち去るのか」という反論だ。

だが、この反論は一つの前提を暗黙に含んでいる。
それは、
「偶然その場に居合わせた個人が、
引き受けきれない責任を肩代わりすべきだ」
という前提だ。

私はそれを引き受けない。

なぜなら、
それは責任を放棄しているのではなく、
本来、個人に割り当ててはならない役割そのものを拒否しているからだ。

個人が英雄的判断を下すことを前提にした社会は、
構造的に無責任である。

道徳的な非難と、法的な責任は一致しない。

これは、以前の記事にも書いているが、

生存に全振りするという覚悟だ。

関連記事
『生存に全振りするという反逆』

そして、もう一つ現実的な問題がある。

遺族訴訟においては、法理よりも感情が先行することが多い。

合理性は法廷では通用するが、
裁判に至るまでの社会的コストは、確実に現実として存在する。

この時点で、状況はすでに詰んでいる。

あなた個人の判断で回避できる範囲を、はるかに超えている。

たとえば、超大型ハリケーンが接近しているとして、
あなた一人でそれを止められるだろうか。

何もできない。

ただ逃げるしかない。

トロッコ問題も、それと同じ種類の問題だ。

個人の影響の輪を超えた災害に、偶然巻き込まれてしまっただけなのだ。

ここで肝心なのは、「正しさ」ではない。

「巻き込まれないこと」だ。

個人の継続性が危ぶまれれば、影響を受けるのは本人だけではない。

あなたが事件に巻き込まれれば、
あなた自身だけでなく、
家族、友人、恋人、あなたに関わるすべての人を巻き込むことになる。

自分の身を守るということは、
自分の周囲の人間を、不必要な悲劇に引きずり込まないということでもある。

トロッコ問題は、
「命の数をどう扱うか」という問題ではない。

「個人が背負える責任の限界はどこにあるのか」を問う問題だ。

そしてその限界を超えた瞬間、
人は倫理ではなく、現実に裁かれる。

だから私は、立ち去る。

それは冷酷さではない。

自分と、自分の世界を守るための、現実的な選択だ。

しかし、この問題は他のことでも言える。

台風のときに川がどれくらい増水しているか見に行って流されてしまうとか、自ら首を突っ込んで被災してしまうケースも考えられる。

他にも、トロッコ問題は逃げるが勝ちだと書いたが逃げられない状況も出てくるかもしれない。

たとえば、線路に寝ているのが、家族や恋人だったらどうするのかは書かれていない。

そうしたときどのように行動・判断するのかが先日書いた記事でもある思考実験の記事につながってくる。

関連記事
『思考実験は無駄なのか。少し考えてみよう』

因果関係としては、線路が先にあり、日常的にトロッコが走っている。

それならそこで寝ていた人間が悪いのではないか

それとも身動きを封じてそこに寝かせた人間が悪いのではないか

それは頭では理解できるが、感情へのフォローはされないということだ。

そもそも問われるべきなのは、
なぜ誰かが線路に寝られる状況が、
そこに放置されていたのかという点だ。

この問いは、
その場に居合わせた個人ではなく、
もっと時間の上流(過去)に向けられるべきものだ。

その線路に柵はなかったのか。

監視体制はどうなっていたのか。

運行管理は?

地域社会は?

つまり

・鉄道会社(トロッコなので炭鉱かも)
・管理者
・制度設計者
・過去の意思決定

これらの100点満点中98点だったときの間違えた2点のミスが溜まりに溜まって臨界に達したときに事故が起こるのではないだろうか。

ここから先は別の記事に書いてある。


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『傾いた天秤 法と罪、裁きの構造』

『AIはトロッコ問題から逃げられない』

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