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視座は仮の正解であっていい。救われた言葉を、いつか疑えるようになること

副題
正解を渡さない文章と
読者の中に残る小さな種について


はじめに


私は
異なる視座を置くことで
あなたがあなた自身の人生を
少しだけ見つめ直せるようにと思って書いている

何かを教えたいわけではない

正解を渡したいわけでもない

こう生きればいい
こう考えれば救われる
この見方が唯一正しい

そんなふうに言いたいわけではない

むしろ私は
そういう言葉の危うさを知っている

正しい言葉は
人を救うこともある

けれど
使い方を間違えれば
人の逃げ道を塞ぐこともある

だから私は
正解ではなく
視座を置きたい

それも
絶対の視座ではない

仮の視座である

今まで考えたことがなかった見方に触れたとき
人は少しだけ世界を違う角度から見られることがある

その視座によって
今の苦しみが少し整理されるなら
今の自分を責めずに済むなら
今まで言葉にならなかった感情に
少しだけ形が与えられるなら

それは
しばらくのあいだ
仮の正解にしてもいい

ただし
永遠の正解にしなくていい

もっと良い視点に出会ったら
そちらへ行けばいい

この記事は
そのために置かれた
小さな試食のようなものである

口に合えば
少し持っていけばいい

今の自分には違うと思えば
置いていけばいい

それでいい


第1章

人は無から意味を取り出すことが難しい


人は
無から意味を取り出すことが難しい

何もない場所に座り
ただ沈黙し
自分の中から立ち上がるものを待つ

それができる人は
かなり深い場所にいるのだと思う

それは
禅に近い

けれど
すべての人が
禅のような静けさに入れるわけではない

特に現代では
なおさら難しい

通知が鳴る
仕事がある
生活がある
身体が疲れている
返信できていない言葉がある
洗っていない皿がある
財布の中身が気になる
流しの下が気になる
見ないことで成立していた現実がある

人は
完全な無に
いきなり座ることができない

だから
何かが必要になる

ひとつの言葉
ひとつの比喩
ひとつの経験
ひとつの問い
ひとつの視座

完全な無ではない

けれど
意味で固められすぎてもいない

無と意味のあいだに置かれる
仮の足場

私は
記事というものを
そういう場所として考えている

読者は
私の文章を読んでいるようで
実は
自分の反応を読んでいる

どこで引っかかったのか

どこで痛んだのか

どこに違和感を覚えたのか

どこを読み飛ばせなかったのか

どの一文が
なぜか心に残ったのか

そこに
読者自身の現在地が出る

だから
記事は無ではない

けれど
正解でもない

無にいきなり座れない人のために置かれた
仮の意味である

その意味では
記事を読むことは
禅そのものではないが
禅に入る前の小さな代行になりうるのかもしれない


第2章

魚を与えるのでも
釣り方を教えるのでもなく


よく言われる

魚を与えるのではなく
魚の釣り方を教えよ

たしかに
それは大切な考え方だと思う

答えだけを渡しても
相手は次に困ったとき
また答えを求めることになる

方法を渡せば
相手は自分で生きていけるかもしれない

けれど
私が書いているものは
そのどちらとも少し違う

私は
魚を与えたいわけではない

魚の釣り方を教えたいわけでもない

ただ
かつて魚を食べた人間が
そのとき何に救われ
何を満たされ
何をまだ満たせなかったのかを
言葉として残しておきたいのだと思う

単なる体験談ではない

食べた
おいしかった
助かった

それだけではない

なぜ
私はそれを求めていたのか

なぜ
その味だけが忘れられなかったのか

なぜ
満たされたはずなのに
別の空白が見えてしまったのか

なぜ
飢えは消えたのに
寂しさは残ったのか

そこまで見に行く

つまり
魚を食べた経験を通して
飢えの構造を残す

これが
私の書き方に近い

読者にとって
それは直接の答えではない

明日からこうしなさい
こう考えれば解決します
この手順で人生は変わります

そういうものではない

けれど
誰かがその文章を読んだとき
自分の飢えに気づくことがある

私は何を求めていたのか

なぜこれほど寂しかったのか

なぜこの言葉に反応したのか

なぜこの比喩が痛かったのか

そのようにして
読者は自分の中へ戻っていく

私は
魚を渡すのではない

釣り方を教えるのでもない

魚を食べた夜の記憶を残す

その記憶に触れた誰かが
自分の飢えを少しだけ別の角度から見られるなら
それでいい


第3章

答えは己の中にある
の一歩手前


ここまで来ると
私の文章は
実践哲学に近づいているのかもしれない

答えは己の中にある
探せ

そう言いたくなるところまで
近づいている

けれど
私はまだ
そこまでは言いたくない

なぜなら
それは少し強すぎるからだ

答えは己の中にある
探せ

この言葉は
力強い

けれど同時に
読者に探索を命じてしまう

自分と向き合え
自分の答えを見つけろ
逃げるな
探せ

そういう圧が生まれる

それは
私の書き方とは少し違う

私が置きたいのは
命令ではない

もっと静かなものだ

ここに置いた言葉に
あなたの中の何かが反応したなら
その反応を見てもいい

これくらいでいい

見なければならない
ではない

向き合わなければならない
でもない

変わらなければならない
でもない

ただ
反応したなら
見てもいい

この距離感が大事なのだと思う

人には
まだ見られないものがある

まだ触れられない傷がある

まだ言葉にすると崩れてしまう記憶がある

そこへ
いきなり入っていく必要はない

ただ
ある文章に触れたとき
なぜか胸が痛む

なぜか腹が立つ

なぜか読み返してしまう

なぜか否定したくなる

その反応が出たなら
そこには何かがあるのかもしれない

その何かを
すぐに分析しなくてもいい

ただ
ある
と知るだけでいい

私の記事は
その程度の入り口でありたい

答えはあなたの中にある
探せ

ではない

答えは私の中にはない

けれど
あなたの中に何かが反応したなら
そこに手がかりはあるかもしれない

この一歩手前の距離

それが
私にとっての文章の倫理なのだと思う


第4章

仮の正解という考え方


正解はない

そう言い切るのは簡単だ

けれど
正解はない
と言われると
人は不安になる

では
何を頼りに生きればいいのか

どの見方を信じればいいのか

今この苦しみを
どう扱えばいいのか

何もないままでは
人は歩けない

一方で
絶対の正解がある
と言われると
今度は人を縛る

この道しかない
この考え方が正しい
この言葉に従えばいい

そうなると
思想は足場ではなく
檻になる

だから
その中間にあるものが必要になる

それが
仮の正解である

今まで考えたことがなかった視点を得られたなら
それを
より良い視点に出会うまでの仮の正解にしてもいい

今の自分を少し支えてくれるなら
持っていていい

今の苦しみを少し整理してくれるなら
使っていい

今の視界を少し開いてくれるなら
しばらく信じてもいい

けれど
永遠に信じなくていい

もっと深い視点に出会ったなら
そちらへ行けばいい

正解を変えることは
裏切りではない

それは
自分の見える世界が
少し変わったということなのだから

思想とは
永遠に信じるためのものではなく
より良い視点に出会うまでの
仮の正解であっていい

これは
逃げではない

むしろ
思想を固定しすぎないための
かなり誠実な態度だと思う

人は変わる

年齢も変わる
生活も変わる
失うものも変わる
守りたいものも変わる
許せなかったものが許せる日もある
許していたものが許せなくなる日もある

そのたびに
必要な視座も変わる

だから
過去の正解を
未来の自分にまで背負わせなくていい

仮の正解でいい

その時期を越えるために必要だったなら
それは十分に意味があったのだ


第5章

少し違う
から哲学が始まる


たとえば
十年前に読んだ記事がある

そのときの自分は
その記事に救われた気がした

あの言葉がなければ
もう少し長く
自分を責めていたかもしれない

あの視座がなければ
あの人を悪者にすることでしか
自分を保てなかったかもしれない

あの比喩がなければ
自分の寂しさに
名前をつけられなかったかもしれない

だから
その記事は確かに必要だった

けれど
十年後に読み返す

すると
少し違うと思う

この見方は
今の自分には少し狭い

あのときは救われた
けれど
今はもう少し別の角度から見たい

あの言葉は嘘ではない
でも
今の自分には
別の言葉が必要になっている

この
少し違う
という感覚

そこに
哲学が始まっているのかもしれない

哲学とは
最初から正しい答えを持つことではない

むしろ
一度救われた答えを
もう一度疑えるようになることだと思う

過去の自分を救った言葉を疑うことは
過去の自分を否定することではない

あのときは必要だった

でも
今は少し違う

この二つを
同時に抱えられること

そこに
成熟がある

昔履いていた靴のようなものだ

その靴で歩けた道がある

その靴がなければ
越えられなかった場所がある

だから
その靴は無意味ではなかった

けれど
足が変わる

道が変わる

荷物の重さが変わる

すると
かつての靴が
少し合わなくなる

それは
靴が間違っていたということではない

自分の歩き方が変わったということだ

思想も同じだと思う

かつての自分を救った言葉を
今の自分の目で見直せること

その言葉に感謝しながら
少し違うと思えること

それが
考えるということなのだと思う


第6章

価値観の種としての記事


私が書きたい記事は
読者をひとつの思想に閉じ込めるものではない

むしろ
いつかその思想から離れるための
小さな種を植えるものなのかもしれない

その種は
すぐには芽を出さない

読んだ直後は
ただ少し心が軽くなるだけかもしれない

あるいは
よくわからないけれど
何かが残るだけかもしれない

それでいい

種とは
そういうものだ

その場で花になる必要はない

その場で答えになる必要もない

ただ
読者の中に残る

何年かあと
別の出来事に出会ったとき
ふと思い出す

あのとき読んだ文章は
こういうことだったのかもしれない

あるいは
あのときは救われたけれど
今は少し違うなと思う

そのとき
読者の中で
何かが動き始める

それは
私の思想を信じ続けることではない

むしろ
私の言葉から
読者自身の思考が離陸することだ

記事を書くとは
読者の中に
そのような種を置くことなのかもしれない

今すぐ効く薬ではない

即座に人生を変える答えでもない

けれど
あとから効いてくることがある

ある日
読者が自分の経験の中で
あの文章とは少し違う
と思う

その違和感が
読者自身の哲学になる

だから
私は自分の記事を
完成された正解として渡したくない

むしろ
未完成のまま置きたい

読者の人生の中で
別の形に育ってもいいように

いつか
違うと思われてもいいように

むしろ
違うと思えるところまで
読者が進んでくれたなら
その記事は十分に役目を果たしたのかもしれない


第7章

空に近い文章


この書き方は
仏教でいう空に少し近いのかもしれない

ただし
私は仏教そのものを書いているわけではない

空を説明したいわけでもない

それでも
私の文章がしていることは
意味を固定しないことに近い

これは愛である

これは執着である

これは善である

これは悪である

これは正しい

これは間違っている

そうやって
ひとつの意味に固定しない

愛にも執着が混ざる

優しさにも支配が混ざる

孤独にも自由が混ざる

成熟にも諦めが混ざる

正しさにも暴力が混ざる

救いにも依存が混ざる

言葉は
ひとつの意味だけでできていない

人間も
ひとつの理由だけで動いていない

だから
私は断定したくなる場所で
少し立ち止まる

これはこうだ
と言い切りたくなる場所で
本当にそうかと考える

その結果
文章はときどき矛盾する

読者は思うかもしれない

結局
何が言いたかったのか

ここは矛盾していないか

肯定しているのか
否定しているのか

正解はどこにあるのか

けれど
その反応こそ
大事なのかもしれない

矛盾に見える場所で
読者自身の固定観念が揺れる

傷に触れる場所で
読者自身の未整理の感情が出てくる

納得できない場所で
読者自身の価値観が顔を出す

つまり
文章は答えではなく
鏡になる

読者は
私の文章を読んでいるようで
自分自身の反応を見ている

その意味で
この記事に
ひとつの正解はない

ただし
何もないわけではない

読んでいて引っかかった場所

痛かった場所

矛盾していると感じた場所

なぜか読み飛ばせなかった一文

そこに
今のあなたの現在地が出る


第8章

明鏡止水ではなく
濁りを濁りとして見ること


私は
完全に澄み切った心を渡したいわけではない

明鏡止水という言葉は美しい

けれど
私の記事が渡せるものは
そこまで澄んだものではないと思う

むしろ
濁りを消すのではなく
濁りを濁りとして見られる心

それに近い

怒りがある

寂しさがある

執着がある

未練がある

嫉妬がある

欲望がある

正しさに酔いたい気持ちがある

誰かを悪者にしたい気持ちがある

それらを
すぐに消さなくていい

消したふりをしなくていい

ただ
あるものとして見る

私は怒っている

私は寂しい

私はまだ手放せていない

私は許したいのではなく
許せない自分のまま生きるのが苦しいのかもしれない

そうやって
濁りを濁りとして見られたとき
人は少しだけ落ち着く

濁りが消えたからではない

濁りに飲まれなくなったからだ

私の記事ができることは
たぶん
その程度である

でも
その程度のことが
人には必要なときがある

答えを出す前に
解決する前に
行動する前に

まず
自分の中に何があるのかを見る

そのための
静かな水面を
文章として置いておきたい


第9章

書くことの責任


それでも
書くことには責任がある

正解ではありません

仮の視座です

必要なら使ってください

そう言えば
何を書いてもいいわけではない

言葉は
人の中に入る

誰かの判断に触れる

誰かの苦しみに触れる

誰かの生活に入り込む

だから
書く側は
自分の言葉を疑わなければならない

これは相手のためなのか

それとも
自分を正当化するためなのか

この言葉には
支配が混ざっていないか

読者の逃げ道を塞いでいないか

自分の正しさに酔っていないか

読者を救うふりをして
読者を自分の思想に縛ろうとしていないか

そこは
何度でも疑う必要がある

私は完璧な人間ではない

これまでも間違えてきた

これからも間違えると思う

感情に負けることもある

言い方を誤ることもある

自分の正しさに酔いかけることもある

それでも
書く

なぜなら
私にとって考えることは
ただの知的遊びではなかったからだ

悪者を作らないため

憎しみだけで終わらせないため

自分の中に残った力を
怒りや支配ではなく
言葉や思想へ再配置するため

私は書いてきた

だからこそ
私の文章は
正解であってはいけない

正解として人を縛るのではなく
必要な時期を越えるための
仮の足場であってほしい


終章

いつか少し違うと思われるために


私は
異なる視座を置くことで
あなたがあなた自身の人生を
少しだけ見つめ直せるようにと思って書いている

この記事は
正解ではない

いわば
試食のようなものだ

口に合えば
少し持っていけばいい

今の自分には違うと思えば
置いていけばいい

それでいい

むしろ
いつかこの記事を読み返して
少し違うな
と思える日が来たなら
それは悪いことではない

あなたの視界が変わったということだからだ

かつて救われた言葉を
今の自分の目で見直せること

あのときは必要だった
でも
今は少し違う

そう思えること

そこに
哲学は始まる

私は
自分の記事を
永遠の正解として残したいわけではない

あなたの中に
小さな価値観の種を置きたい

その種が
今すぐ芽を出さなくてもいい

十年後に
別の形で芽を出してもいい

あるいは
私の言葉とは違う形で
あなた自身の思想になってもいい

それでいい

ここに置いた言葉に
あなたの中の何かが反応したなら
その反応を見てもいい

今まで考えたことがなかった視点を得られたなら
より良い視点に出会うまでの
仮の正解にしてもいい

そして
もっと良い視点に出会ったなら
遠慮なく置いていけばいい

私は
そのために書いている

今日のあなたに届かなくてもいい

十年前のあなたに届けばいい

十年後のあなたに
少し違うと思われてもいい

そのときまた
別の言葉が
別の視座が
あなたの心を少し軽くできるなら

私は
そのために
これからも書き続けたい


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