やりがいだけでは腹は膨れない
副題:苦労する自分を少し誇らしくするもの
序章|やりがいだけでは腹は膨れない
やりがいだけでは、人の腹は膨れない。
やりがいがあるからといって、家賃が払えるわけではない。
疲れが消えるわけでもない。
将来の不安がなくなるわけでもない。
それでも人は、やりがいを求める。
なぜなら、やりがいは金銭とは別の形で、人を社会につなぎとめるからだ。
これをやっていれば、自分はまだ社会と接続できている。
この苦労には、どこか意味がある。
自分はまだ、完全には孤立していない。
そう感じさせてくれるものが、やりがいなのだと思う。
ただし、ここで間違えてはいけないことがある。
やりがいとは、必ずしも「本当に意味があること」ではない。
あくまでも本人に、意味があると強く感じさせるものである。
だからこそ、やりがいは人を支える。
同時に、人を縛ることもある。
第1章|仕事の終わりに残るもの
今の仕事にも、やりがいを感じている。
それは、若い人と触れ合う時間があるからかもしれない。
正直、身体はしんどい。
10年前と比べれば、自分でも鈍臭くなったと感じる。
昔ならもっと動けた。
もっと早く反応できた。
もっと無理がきいた。
昔の身体がゴムとバネだとしたら、
今の身体はマシュマロとグミかもしれない。
そう思う瞬間はある。
自分はもう終わりかけなのかもしれない。
けれど、まだ終わってはいない。
その狭間にいる。
だから苦しい。
若い人と同じ速度で走れるとは思っていない。
勝ち負けでいえば、もう負けてもいいのだと思う。
けれど、置いていかれないように頑張ることはできる。
それは、自分にとっての挑戦でもある。
仕事が終われば、身体は疲れている。
しんどいものはしんどい。
それでも、どこかに達成感がある。
今日もなんとかやれた。
まだこの場所で、自分は機能している。
そう感じられることは、それなりに幸福でもある。
やりがいとは、社会の中でまだ自分が機能していると感じられることでもある。
第2章|少しの挑戦が、苦労を誇りに変える
やりがいには、少しの挑戦が必要なのかもしれない。
簡単すぎることには安心はある。
だが、そこに濃い意味は生まれにくい。
難しすぎることは、達成感に変わる前に不安や無力感になる。
だから、やりがいはおそらく、今の自分で届くか届かないか、その境界に生まれる。
ただし、その挑戦は自己評価によって歪む。
自分を低く見すぎれば脅威になり、高く見すぎれば退屈になる。
他人に預けすぎれば承認待ちになり、自分の中に閉じすぎれば独りよがりになる。
苦労しているだけなら、それはただの消耗である。
だが、その苦労が誰かに届いていると感じられたとき。
自分がまだ社会の中で役割を果たしていると感じられたとき。
人は、苦労している自分のことを、どこか少し誇らしく感じられるようになる。
ここに、やりがいがある。
やりがいとは、苦労の正当化ではない。
苦労している自分を、まだ嫌いにならずに済むための接続なのだと思う。
もう少し言えば、やりがいとは、苦労している自分を、ただ惨めな存在ではなく、少しだけ誇れる存在に変えてくれる接続のことである。
第3章|それでも、俺は書いている
俺が本格的にnoteに記事を書き始めて、1年と3ヶ月が経つ。
書いた記事は1395本。
下書きには460本を超える記事がある。
フォロワーさんの人数は1000人を超えた。
けれど、稼いだ金額は、チップとしていただいた100ポイントだけである。
もちろん、それは本当にありがたい。
自分の文章に対して、誰かが何かを返してくれた。
その事実は、金額以上に大きい。
だが、それで生活が変わるわけではない。
記事を書いている時間を、別の稼ぐ手段に使っていれば、それなりの金額は稼げていたかもしれない。
資格の一つでも取得していれば、人生の選択肢は増えていたかもしれない。
それでも、俺は書いている。
では、それはなぜか。
ひとつには、ときおり感謝のコメントをいただけるからだと思う。
自分の書いたものが、誰かの中で何かに触れた。
その人の考えを少し整理した。
あるいは、しんどい時間の中で、ほんの少しだけ息をしやすくした。
そう感じられる瞬間がある。
金にはならない。
生活を変えるほどの報酬にもならない。
それでも、自分の苦労が誰かに届いていると感じられるなら、そこにはやりがいが生まれる。
仕事のやりがいが、世界から置いていかれないためのやりがいだとすれば、noteを書くやりがいは、世界に何かを置いていくやりがいなのだと思う。
自分が考えたこと。
苦しんだこと。
引っかかった問い。
誰かに届くかもしれない言葉。
それらを、記事として置いておく。
届くかどうかはわからない。
拾われるかどうかもわからない。
それでも、置いておく。
第4章|守りたい笑顔と、生きる責任
根本的に、俺の価値観の上位には、守りたい笑顔があるのだと思う。
それは、全人類を対象にできるような大きな善意ではない。
俺は、世界中のすべての人を救えるとは思っていない。
けれど、自分の影響が届く範囲にいる人には、できれば笑っていてほしいと思う。
ただし、それは病気の人や苦しんでいる人に向かって、
笑え。
と命令することではない。
そんなものは優しさではなく、こちら側の安心を相手に押しつけているだけだ。
そうではなく、
また、いつか前みたいに笑えるようになってくれたらいいな。
それくらいでいい。
綺麗事だと思われてもいい。
偽善だと思われてもいい。
俺は、俺の生きる責任を果たした後の余暇で、やりたいようにやっているだけだ。
それを読むか読まないかは、読者の判断に委ねる。
俺は誰かに、自分の考えを押しつけたいわけではない。
正しいから読めと言いたいわけでもない。
これで救われろと言いたいわけでもない。
ただ、俺の考えたことは、ここに記事として置いておく。
今の俺に残っている生きる責任は、多くない。
親に迷惑をかけないこと。
甥の成長を見届けること。
これくらいしか残っていないのかもしれない。
けれど同時に、この二つだけは、最後まで捨てることができないものでもある。
だから俺は、まずその責任を果たす。
そのうえで、残った時間で書く。
世界を救えるとは思っていない。
誰かの笑顔に直接つながると信じ切っているわけでもない。
ただ、どうせ考えてしまうなら。
どうせ苦しいなら。
どうせ生きるなら。
その途中で拾ったものを、誰かが拾える場所に置いておきたい。
それが俺にとっての、やりがいなのだと思う。
第5章|社会的な記号を持たない幸福
俺は、社会的な記号をほとんど所持していない。
子供はいない。
車も持ち家もない。
時計もない。
彼女もいない。
金持ちでもない。
死別や離婚や解雇が、立て続けに起きた。
世間的に見れば、俺は40歳の中年派遣社員である。
履歴書の上で強く見える記号は少ない。
誰かに誇れるような肩書きも、資産も、分かりやすい成功もない。
けれど、それなりに幸福である。
ここは、間違えてはいけない。
幸福とは、社会的な記号をどれだけ所有しているかだけで決まるものではない。
もちろん、金は大事だ。
安定も大事だ。
家族も、仕事も、社会的信用も、あった方がいいに決まっている。
それらを軽んじるつもりはない。
ただ、それらを持っていないからといって、人生が完全に失敗したことになるわけでもない。
自分にはまだ、親に迷惑をかけないという責任がある。
甥の成長を見届けたいという願いがある。
若い人と同じ場所で働きながら、置いていかれまいと踏ん張る時間がある。
考えたことを記事として置いておく余暇がある。
それだけで十分だ、とは言わない。
けれど、それでもまだ終わりではない。
社会的な記号を多く持っていなくても、自分が何に責任を感じ、何に接続され、何を残したいと思っているのか。
そこに、やりがいは生まれる。
だから俺は、何も持っていない人間ではない。
少なくとも、まだ手放せない責任がある。
まだ書いておきたい言葉がある。
まだ見届けたい成長がある。
まだ置いていかれないように踏ん張る現場がある。
それなりに幸福である、というのは、そういうことなのだと思う。
第6章|やりがいは意味そのものではない
やりがいとは、意味そのものではない。
やりがいがあるからといって、その行為に客観的な意味があるとは限らない。
あくまでも、本人に意味があると強く感じさせるものが、やりがいである。
だから、やりがいは人を生かすことがある。
苦労を意味に変えることがある。
孤独を、孤立ではない感覚へ変えることがある。
だが同時に、やりがいは錯覚にもなる。
鎖にもなる。
搾取にもなる。
苦労している自分を少し誇らしく感じられることは、大切だ。
けれど、その誇らしさが報酬や尊重の不足を隠すために使われたとき、やりがいは危ういものになる。
外から与えられたやりがいは、搾取に傾きやすい。
君にしかできない。
お金では測れない価値がある。
人の役に立つ仕事だ。
好きでやっているんでしょう。
そうした言葉が、報酬や待遇の不足を覆い隠すことがある。
本来、やりがいは報酬の代わりではない。
報酬があったうえで、それでもなお残る意味の濃度がやりがいである。
だが、搾取構造では順番が逆になる。
報酬が足りない。
待遇が悪い。
尊重されていない。
それでも、やりがいがあるでしょう、と言われる。
この瞬間、やりがいは意味ではなく、不足を覆い隠す布になる。
やりがいは、金の代わりに渡された瞬間に腐り始める。
第7章|納得と諦観の境界線
外から与えられたやりがいは、他者の都合を美しく見せることがある。
一方で、内から湧いたやりがいには、本人の納得がある。
自分はこれを選んでいる。
この苦労を引き受ける理由がある。
まだ報われていなくても、自分の中で筋が通っている。
そこには、主体が残っている。
ただし、ここも簡単ではない。
納得と諦観は、外から見るとよく似ている。
どちらも、黙って続けているように見える。
どちらも、文句を言わずに引き受けているように見える。
だが、内側ではまったく違う。
納得とは、自分で引き受けている状態である。
諦観とは、他に選択肢がないと思い込んでいる状態である。
納得には、主体が残っている。
諦観には、主体の摩耗がある。
やりがいが自己犠牲に変わる瞬間とは、自分で選んでいると思っていたものが、いつの間にか、選ばない理由を失っただけの状態になることなのだと思う。
やりがいがあるから続けているのではない。
やりがいがあると思わなければ、続けられない。
そうなったとき、やりがいは救いではなくなる。
自分を騙し続けるための意味装置になる。
だから大切なのは、やりがいの有無ではない。
そのやりがいが、誰のために機能しているのかである。
本人を生かしているのか。
それとも、本人を使い続けるために機能しているのか。
この差は大きい。
補章|それでも残るもの
それでも、残るものはある。
貯金は、少しずつ増えてきた。
仕事も、少しずつ上達している手応えがある。
書いた記事に、評価がつくことも増えた。
大きく人生が変わったわけではない。
劇的に報われたわけでもない。
何かを勝ち取ったと言えるほど、分かりやすい成果があるわけでもない。
けれど、何も残っていないわけではない。
少しずつ積み上がっているものはある。
諦めることは、いつでもできる。
けれど、いつでもできることには、あまり興味がない。
どうせなら、まだ続けられるところまで続けてみたい。
まだ置いておける言葉があるなら、置いておきたい。
まだ少しでも上達できるなら、上達してみたい。
そう思えるうちは、まだ終わりではないのだと思う。
そして、人を笑顔にするということは、まず俺自身が笑っていなければならない。
これは義務ではない。
綺麗事でもない。
継続性の問題である。
俺自身が笑っていないのに、他の人の笑顔を守れるはずがない。
自分を削り続けながら、誰かの笑顔を守ろうとすることは、優しさではなく、ただの自己犠牲に過ぎない。
もちろん、笑えないときもある。
書けないときもある。
何もかも嫌になるときもある。
それでも、それでいいと思っている。
笑えない日があるからといって、笑顔を願ってはいけないわけではない。
書けない日があるからといって、書くことを諦めたことにはならない。
立ち止まる日があるからといって、続いてきたものが消えるわけではない。
大切なのは、ずっと笑い続けることではない。
また笑える場所まで、自分を連れていくことなのだと思う。
そのためにも、やりがいは自分を壊すものであってはならない。
やりがいとは、自分を削って誰かに差し出すものではない。
自分が生き続けるための接続であり、
その余白から、誰かの笑顔にも少しだけ届くものなのだと思う。
終章|どうせ苦しいなら、せめて笑おう
世界は、美しいものばかりではない。
むしろ、世界は多くの汚れを含んでいる。
生きることは苦しみの連続でもある。
努力は報われないことがある。
誠実さは利用されることがある。
優しさは踏みにじられることがある。
正しさだけでは、人は立っていられないこともある。
それでも、どうせ何をしても苦しいのなら、せめて笑おうと言いたいのかもしれない。
それは、苦しんでいる人に笑顔を命令することではない。
また、いつか前みたいに笑えるようになってくれたらいいな。
それくらいの距離でいい。
俺の言葉が誰かに届くかどうかはわからない。
俺の記事が誰かの人生を変えるとも思っていない。
世界を救えるとも思っていない。
けれど、考えたことはここに置いておく。
読むか読まないかは、読者の自由である。
拾うか拾わないかも、読者の自由である。
それでも、置いておく。
やりがいとは、腹を膨らませるものではない。
けれど、自分の苦労が誰かの笑顔や社会との接続に変換されたとき、人はその苦労を、ただの消耗ではなく意味として引き受けることができる。
やりがいとは、意味そのものではなく、意味があると感じさせる力である。
そしてもう少し言えば、
やりがいとは、苦労している自分を、どこか少し誇らしく感じられるようにしてくれる接続のことである。
関連記事
『視座は仮の正解であっていい。救われた言葉を、いつか疑えるようになること』
この記事では、「なぜ書くのか」ではなく、「書いた言葉をどのように読者へ渡すのか」について考えた。
正解を押しつけるのではなく、必要なときに拾える仮の視座として文章を置くこと。
そして、いつかその言葉を疑えるようになることまで含めて、文章の役割なのかもしれない。
『止まっていた時間にも哲学はある』
この記事では、「なぜ今も書き続けるのか」よりさらに手前にある、私自身の人生の地層について書いた。
不登校、働かなかった時間、家族との距離、祖父から受け取った愛、結婚と離婚、動けなかった愛、壊れた生活、倫理の声、死者への弔い、甥へ渡したい未来。
うまく生きられなかった時間を、ただの失敗として終わらせず、自分の言葉で引き受け直すための記録である。
「やりがい」が現在の接続だとすれば、この記事は、その接続がどこから生まれてきたのかを辿る自伝的な文章である。
『人は正しさだけでは立てない』
いいなと思ったら応援しよう!
応援よろしくお願いします!いただいたチップは研究費用に回します。