原体験食とは何か
副題:個人の絶滅危惧食について
はじめに|もう食べられない味がある
世の中には、もう食べられない味がある。
それは高級料理の話ではない。
幻の食材の話でもない。
歴史上の宮廷料理や、古代ローマの食事のような、遠い過去の話だけでもない。
もっと身近なところにある。
幼い頃から食べていた店の味。
祖母が作ってくれた握り飯。
母が何気なく作っていた料理。
学校帰りに買っていたパン。
休日に家族で食べに行った定食。
いつもの店で、いつもの人が焼いていた焼き鳥。
それらは、ただの食べ物ではなかった。
自分が育った土地の空気。
家族との時間。
店の匂い。
通っていた道。
幼い頃の身体。
当時の生活のリズム。
そうしたものが、ひとつの味の中に折り畳まれていた。
だから、その店が閉店したとき。
作り手が代替わりしたとき。
味が変わったとき。
もうその人が料理を作らなくなったとき。
失われるのは、料理だけではない。
自分がかつて生きていた世界への通路が、ひとつ閉じる。
私は、そういう食べ物を原体験食と呼んでみたい。
第1章|原体験食とは何か
原体験食とは、幼少期や生活の初期に身体へ刻まれた、自己形成に関わる味である。
単に「好きだった食べ物」ではない。
単に「懐かしい味」でもない。
それは、自分がまだ世界を作っている途中に、何度も触れた味である。
人は、言葉だけで世界を覚えるわけではない。
匂いで覚える。
温度で覚える。
食感で覚える。
店の照明で覚える。
皿の重さで覚える。
誰と食べたかで覚える。
そのときの自分の年齢で覚える。
だから原体験食は、料理名だけでは説明できない。
「焼肉定食」と言っても、それは一般的な焼肉定食ではない。
「餃子」と言っても、どこにでもある餃子ではない。
「パン」と言っても、ただのパンではない。
「うどん」と言っても、うどん一般ではない。
それは、あの店で、あの時期に、あの人が作っていた、あの味である。
つまり原体験食とは、料理そのものではなく、
作り手、場所、時間、食べ手の身体が交差したところに生まれた一回性の味なのだと思う。
第2章|地元の味は、個人史の地層になる
私には、幼少期から食べていた地元の味がある。
ささやの焼肉定食。
蘇州の餃子。
パリスのパン。
天狗屋のうどん。
いこいのフライ。
鳥末の焼き鳥。
それらは、地元にあった普通の食べ物だった。
だが、今振り返ると、それらは普通ではなかったのだと思う。
ささやは閉店した。
蘇州は代替わりして、味が変わってしまった。
パリスのパンは、もはや知らない人が作っていた。
天狗屋のうどんも代替わりした。
いこいのフライは閉店した。
鳥末の焼き鳥は、当時から同じ人が焼いている。
こうして並べてみると、食べ物にはいくつもの失われ方があることがわかる。
店そのものがなくなる場合。
店は残っていても、作り手が変わる場合。
名前は残っていても、味が変わる場合。
まだ食べられるが、作り手の有限性によって危うくなっている場合。
つまり、味は店が閉じたときだけ死ぬのではない。
店が残っていても、味が断絶することがある。
これは、食べ物の保存を考えるうえでかなり重要だと思う。
看板が残っている。
メニューも残っている。
場所も同じ。
けれど、味が違う。
このとき、その食は残っているのか。
それとも失われたのか。
答えは簡単ではない。
社会的には残っている。
店としては続いている。
商品としても売られている。
だが、原体験食としては、すでに失われていることがある。
なぜなら原体験食は、料理名ではなく、身体に刻まれた味だからだ。
第3章|家庭の味という絶滅危惧食
原体験食は、店の味だけではない。
祖母の作った味噌握り。
母の作った料理。
こうした家庭の味もまた、原体験食である。
むしろ、家庭の味の方が、より強く個人に結びついているかもしれない。
家庭料理は、レシピだけでは成り立っていない。
火加減。
握り方。
味噌の量。
焼き具合。
切り方。
盛り方。
台所の匂い。
作っている人の手の癖。
そういうものが、味の中に入っている。
だから、あとから分量を聞いても同じにはならない。
「だいたい」
「これくらい」
「匂いでわかる」
「少し焦げるくらい」
「味を見ながら」
こういう曖昧な言葉の中に、本当の技術がある。
家庭の味とは、数値化されたレシピではなく、身体に宿った手続きである。
だから、その人が作らなくなると、味は消える。
人が死ぬと、その人の中にあった味も死ぬ。
これは冷たい言い方かもしれない。
けれど、食の記憶を考えるなら避けられない事実だと思う。
もちろん完全に消えるわけではない。
食べた人の中には残る。
匂いとして、感触として、記憶として、身体のどこかに残る。
けれど、それはもう再提供できる味ではない。
思い出すことはできる。
似たものを作ることもできる。
だが、同じ時間には戻れない。
だから家庭の原体験食は、最も小さく、最も個人的な絶滅危惧食なのだと思う。
第4章|原体験食は、再現できても回帰できない
古代ローマの食事を再現する人がいる。
江戸時代の食事を再現する人もいる。
それは、食の考古学のようなものだと思う。
文献、料理書、献立、絵、器、道具、記録をもとに、失われた食をもう一度立ち上げる。
しかし、どれほど丁寧に再現しても、それは当時の食そのものではない。
当時の水。
当時の火。
当時の空腹感。
当時の身分制度。
当時の季節感。
当時の身体労働量。
当時の台所の空気。
それらまでは完全には戻らない。
復元食とは、過去そのものではなく、現代人が過去に向かって作る橋である。
これは原体験食にも当てはまる。
閉店した店の味を、誰かが再現することはできるかもしれない。
祖母の味噌握りを、記憶を頼りに作ることもできるかもしれない。
母の料理を、レシピ化することもできるかもしれない。
だが、それは完全な回帰ではない。
なぜなら、味とは料理だけでできていないからである。
当時の自分。
当時の家族。
当時の店。
当時の土地。
当時の時間。
当時の身体。
それらがもう戻らない以上、原体験食は再現できても、そこへ帰ることはできない。
ここに、原体験食の切なさがある。
原体験食は、再現できても回帰できない。
第5章|個人の絶滅危惧食
絶滅危惧食という言葉を使うと、多くの人は郷土料理や伝統食を思い浮かべるかもしれない。
地方野菜。
保存食。
祭礼食。
発酵食。
昔ながらの家庭料理。
もちろん、それらも絶滅危惧食である。
だが、それだけではない。
ひとりの人間の人生の中にも、絶滅危惧食はある。
もうすぐ閉店しそうな店。
高齢の作り手が守っている味。
代替わりによって変わりつつある味。
家族の誰かしか作れない料理。
記憶の中にしか残っていない味。
それらは、社会全体から見れば小さなものかもしれない。
文化財にはならない。
本にも載らない。
観光資源にもならない。
新聞記事にもならない。
けれど、その人にとっては、かけがえのない味である。
むしろ、そこにこそ食の本質があるのではないか。
食とは、大きな歴史だけでできているのではない。
無数の個人の身体記憶によって支えられている。
誰かにとっての普通の昼飯。
誰かにとっての祖母の味。
誰かにとっての学校帰りのパン。
誰かにとっての地元の焼き鳥。
そういう小さな味の集積が、人の生活を作っている。
だから、個人の絶滅危惧食とは、単なる懐古ではない。
それは、個人史の中で失われつつある生活世界の記録である。
おわりに|味は、人生のどこに保存されるのか
味は、どこに保存されるのだろうか。
店に保存されるのか。
レシピに保存されるのか。
写真に保存されるのか。
口コミに保存されるのか。
地域の記録に保存されるのか。
もちろん、それらにも残る。
だが、原体験食はもっと深い場所に残っている。
身体に残る。
匂いの記憶に残る。
舌の奥に残る。
帰り道の感覚に残る。
その店に入る前の気分に残る。
一緒に食べた人の声に残る。
もう戻れない時間の中に残る。
だから、もう食べられない味は、完全には消えない。
けれど、現実の世界からは消えていく。
この矛盾が、原体験食の痛みなのだと思う。
原体験食とは、幼少期や生活の初期に身体へ刻まれた、自己形成の味である。
それが失われるとき、消えるのは料理ではない。
自分が生きていた世界への通路が、ひとつ閉じるのである。
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