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共同体はどこで崩壊するのか

副題
禁忌、倫理、制度から考える
人間を人間として扱うための境界

前回記事
可食と不可食の哲学に続く思考として

はじめに

共同体は犯罪で壊れるのではない

共同体は
犯罪が起きた瞬間に初めて壊れるのではない

多くの場合
犯罪になる前から
すでに壊れ始めている

誰かが殴られたとき
そこに突然暴力が生まれたわけではない

その前に
言葉の荒れがあったかもしれない

その前に
態度の荒れがあったかもしれない

その前に
相手を軽く見る認識があったかもしれない

さらにその前には
他者を一人の人間としてではなく
処理すべき対象として見るまなざしが
生まれていたのかもしれない

共同体が崩壊する地点は
思っているよりも深い

殺人は犯罪である

暴力も犯罪である

暴言も
内容や文脈によっては犯罪になりうる

しかし
法が介入できる段階まで来たとき
共同体の内部では
すでに何かが破れている

では
共同体はどこで崩壊するのか

どこまでは倫理で保てるのか

どこから制度で吸収しなければならないのか

そして
制度で吸収できないものは
どこに残るのか

この記事では
禁忌
倫理
制度

この三つの層から
人間を人間として扱うための境界について考えてみたい


第一章
禁忌とは共同体の最深部にある境界である


共同体には
法律よりも深い場所にある境界がある

それが禁忌である

禁忌とは
単なるルールではない

破れば罰せられるから守る
というものでもない

むしろ
それを破った時点で
共同体が共同体でいられなくなるような境界である

たとえば
人間を食べてはならない

これは
人間が人間を食べられないから禁じられているのではない

むしろ逆である

人間は
人間を食べられてしまう

身体的には可能である

だからこそ
強い禁忌が必要になる

人間は肉である

しかし
肉として扱ってはならない

この矛盾を抱えるために
文化がある

葬儀がある

墓がある

名前がある

弔いがある

死者への礼がある

人間をただの有機物に戻さないために
共同体は形式を作る

ここに禁忌の役割がある

禁忌は
不可能なことを禁じるのではない

可能だが
それを許すと共同体の前提が壊れることを禁じる

もし人間が
他の人間を食料として見てよい世界になれば
隣人も
家族も
子どもも
老人も
病人も
死者も

すべてが食料になりうる存在として見えてしまう

その瞬間
同じ場所で眠ることはできなくなる

背中を向けることもできなくなる

弱った姿を見せることもできなくなる

死者を預けることもできなくなる

共同体とは
互いを食料として見ないという
深い前提のうえに成り立っている

これは極端な話ではない

むしろ
極端な例だからこそ
共同体の根本条件がよく見える

人間は
人間を物質に戻してはならない

人間は
人間を肉として扱ってはならない

この最深部の境界が
禁忌である


第二章
倫理とは他者を処理対象にしないための内的制止である


禁忌は
共同体の深層にある

では倫理とは何か

倫理とは
法に止められる前に
自分の内側で働く制止である

殴れるけれど殴らない

奪えるけれど奪わない

言えるけれど言わない

利用できるけれど利用しきらない

相手が弱っているからといって
そこにつけ込まない

相手に落ち度があるからといって
人格ごと壊してよいとは考えない

倫理とは
他者を処理可能な対象にしないための感覚である

ここで重要なのは
倫理は善人であるための飾りではないということだ

倫理は
共同体の維持装置である

人間は
他者を傷つけることができる

相手の弱点を突くことができる

相手の恐怖を利用することができる

言葉で追い詰めることができる

立場を使って従わせることができる

無視によって消耗させることもできる

つまり人間は
他者を壊す能力を持っている

だからこそ
その能力を使わないための内的な形式が必要になる

それが倫理である

倫理とは
人間が人間を壊せる存在であることを知ったうえで
それでも壊さないための技術である

ここで
可能であることと
許されることの違いが生まれる

食べられるが
食べてはいけないものがある

殺せるが
殺してはいけない

殴れるが
殴ってはいけない

言えるが
言ってはいけないことがある

できることと
してよいことは違う

倫理とは
この違いを内側に持つことである


第三章
制度とは倫理が破れた後の二次防壁である


倫理が働いているうちは
共同体はまだ内側から保たれている

しかし
倫理だけでは保てない場面がある

怒りが強すぎる

利害が大きすぎる

力の差がありすぎる

弱者が守られない

加害が繰り返される

内的な制止が壊れている

このとき
制度が必要になる

制度とは
信頼が壊れた場所でも
最低限の共存を成立させるための外的な境界である

殺人は犯罪になる

暴力は傷害や暴行として扱われる

脅迫は犯罪になる

名誉を傷つける言葉は
名誉毀損や侮辱として扱われることがある

職場での暴言や威圧は
ハラスメントとして問題になることがある

制度は
人間を善くするためにあるのではない

制度は
壊れた関係を元に戻すためだけにあるのでもない

制度は
これ以上壊れないようにするための止血である

ここを間違えてはいけない

制度が介入したからといって
共同体が回復したわけではない

裁かれたからといって
傷が消えるわけではない

謝罪があったからといって
信頼が戻るとは限らない

賠償があったからといって
人間関係が元通りになるわけではない

制度は
破れた倫理の代わりに
最低限の線を引く

それは必要である

だが
制度は倫理の完全な代替にはならない

なぜなら
制度が扱えるのは
多くの場合
行為として確定できるものだからである

殴った

脅した

盗んだ

殺した

契約を破った

名誉を毀損した

こうしたものは
制度が扱いやすい

しかし
共同体を壊すものは
いつも明確な行為として現れるわけではない


第四章
制度で吸収できるものとできないもの


制度は強い

けれど
万能ではない

制度で吸収しやすいのは
行為として記録できるもの
被害として説明できるもの
証拠として示せるもの
因果関係をある程度たどれるもの

である

しかし
共同体の崩壊は
もっと曖昧なところから始まる

軽視

冷笑

無視

見捨て

空気による排除

小さな侮り

言葉にならない序列

助けられるのに助けないこと

相手の尊厳を少しずつ削る態度

人を機能としてしか見ないこと

これらは
制度で扱いにくい

なぜなら
一つひとつは小さいからである

一つひとつは
犯罪とは言い切れないことが多い

一つひとつは
偶然や性格や相性の問題として片づけられてしまう

しかし
それが積み重なると
共同体の空気は確実に荒れていく

人は
殴られる前に
すでに居場所を失っていることがある

罵倒される前に
すでに尊厳を削られていることがある

排除される前に
すでにそこにいてよい感覚を奪われていることがある

制度は
最後の線を引くことはできる

しかし
その前に進行していた関係の腐食を
すべて救い上げることはできない

だからこそ
共同体には倫理が必要になる

制度が扱えない曖昧な領域を
倫理が支えているからである


第五章
共同体は他者を人間として見なくなったところから崩壊する


共同体が本当に崩れ始めるのは
犯罪が起きた瞬間ではない

他者を
一人の人間として見なくなった瞬間からである

相手を
邪魔なものとして見る

相手を
使えるものとして見る

相手を
黙らせるべきものとして見る

相手を
壊してもよいものとして見る

相手を
いてもいなくてもよいものとして見る

この認識の変化が
共同体の崩壊を始める

暴力は
その後に出てくることが多い

暴言も
その後に出てくることが多い

制度が介入するのは
さらにその後である

つまり
崩壊の順番はこうである

まず
相手が人間として見えなくなる

次に
相手が役割や機能として見える

次に
相手が邪魔なものとして見える

次に
相手が処理対象になる

そこから
言葉が荒れる

態度が荒れる

暴力が出る

制度が介入する

制度が現れるころには
共同体の内部では
すでに深い破れが生じている

だから
共同体を守るとは
犯罪を防ぐことだけではない

他者が処理対象に落ちる前に
人間として見える形式を保つことである


第六章
暴言はなぜ軽く見られやすいのか


暴力はわかりやすい

身体に傷が残る

痛みがある

出血がある

診断書がある

壊れた物がある

だから
制度に乗りやすい

しかし暴言は
軽く見られやすい

ただの言葉だと言われる

気にしすぎだと言われる

冗談だったと言われる

怒らせた方も悪いと言われる

それくらいで傷つくなと言われる

だが
言葉はただの音ではない

言葉は
相手の自己理解に入り込む

言葉は
相手の社会的な位置を揺さぶる

言葉は
相手が自分をどう扱うかに影響する

言葉は
人間の輪郭を削ることがある

だから暴言は
身体に直接触れない暴力である場合がある

もちろん
すべての強い言葉が暴力になるわけではない

批判は必要である

叱責が必要な場面もある

厳しい言葉が
相手を守ることもある

問題は
言葉の強さそのものではない

その言葉が
相手を人間として扱っているかどうかである

相手の行為を問う言葉と
相手の存在を否定する言葉は違う

行為への批判と
人格の破壊は違う

共同体が守るべきなのは
誰も傷つかない空間ではない

それは不可能である

守るべきなのは
傷ついたとしても
相手が人間であることまでは剥がされない空間である


第七章
倫理と制度のあいだにあるもの


では
どこまで倫理で保てるのか

どこから制度で吸収すべきなのか

その境界は簡単ではない

人は怒る

人を嫌う

距離を置く

信用できなくなる

失望する

不満を抱く

ここまでは
共同体の中に残りうる

なぜなら
相手を嫌っていても
まだ相手を人間として扱っているからである

嫌いであることは
倫理の崩壊ではない

怒ることも
ただちに倫理の崩壊ではない

距離を置くことも
共同体の破壊ではない

むしろ
距離を置くことで
相手を壊さずに済むこともある

問題は
相手を壊してもよいと思い始めたときである

相手が苦しめばいいと思い始めたときである

相手の尊厳を削ってもよいと思い始めたときである

相手を黙らせることが目的になったときである

ここから先は
倫理だけでは危うい

そこで制度が必要になる

制度とは
信頼がなくても
最低限の共存を可能にする枠である

倫理は
相手を人間として見る力である

制度は
相手を人間として見られない場合でも
最低限そこを踏み越えさせない枠である

だから制度は
冷たいものではない

制度は
倫理が破れた後にも
人間を完全に壊さないための
二次防壁である


第八章
法だけでは共同体は作れない


ここで一つの問題がある

制度があれば
共同体は守られるのか

答えは
半分だけ肯定であり
半分は否定である

制度は必要である

制度がなければ
力の強い者が弱い者を支配する

声の大きい者が場を奪う

証拠を残さない加害が放置される

泣き寝入りが増える

だから制度は必要である

しかし
法だけでは共同体は作れない

なぜなら
法は最低限の禁止線だからである

法に触れなければ何をしてもよい

そう考え始めたとき
共同体はすでに痩せている

人間関係は
違法か合法かだけで成り立っていない

家族も
職場も
友人関係も
地域も
恋愛も
共同作業も

すべて
法の手前にある細い礼節によって支えられている

挨拶する

相手の話を最後まで聞く

困っているときに少し助ける

弱っている相手に過剰な追撃をしない

相手の逃げ道を残す

勝てる場面で勝ちすぎない

相手の面目を完全には潰さない

こうしたものは
多くの場合
法律に書かれていない

しかし
これがなくなると
共同体はかなり早く荒れる

法は
破局を止める

倫理は
破局に向かわないようにする

禁忌は
共同体の根を守る

この三つは
それぞれ役割が違う


第九章
人間を人間として扱うとは何か


人間を人間として扱うとは
相手を美化することではない

相手を好きになることでもない

相手を無条件に許すことでもない

相手に傷つけられても
耐え続けることでもない

むしろ
相手から離れることが
倫理になる場合もある

拒絶することが
共同体を守る場合もある

関係を終わらせることが
人間を人間として扱うことになる場合もある

重要なのは
相手を処理対象にしないことである

嫌いなら嫌いでよい

怒るなら怒ってよい

距離を置くなら置いてよい

しかし
相手を肉にしてはならない

相手を物にしてはならない

相手を壊してよい対象にしてはならない

相手の人格を丸ごと消してはならない

相手が人間であることまで
奪ってはならない

ここに倫理の最後の線がある

人間は
完全には清らかではない

怒る

憎む

嫉妬する

支配したくなる

見下したくなる

罵りたくなる

逃げたくなる

そのすべてを消すことはできない

だから倫理とは
汚れのない善意ではない

倫理とは
自分の中にある破壊衝動を知ったうえで
それをそのまま他者にぶつけないための形式である


終章
共同体は人間を物にしたところから崩壊する


共同体は
犯罪が起きた瞬間にだけ壊れるのではない

その前に
相手が人間として見えなくなる

その前に
相手が役割になる

その前に
相手が機能になる

その前に
相手が邪魔なものになる

その前に
相手が処理対象になる

そして
言葉が荒れる

態度が荒れる

暴力が出る

制度が介入する

制度は必要である

しかし
制度は共同体を完全に治すものではない

制度は
破れた場所から血が流れ続けないようにする
止血の装置である

その前に必要なのは
倫理である

そして
倫理よりさらに深い場所には
禁忌がある

人間を食べてはならない

人間を殺してはならない

人間を殴ってはならない

人間を言葉で壊してはならない

ここには
程度の違いはある

法的な扱いも違う

社会的な重さも違う

しかし
一本の線は通っている

人間を
ただの物質に戻してはならない

人間を
処理可能な対象にしてはならない

人間を
壊してよいものとして見てはならない

共同体とは
その線を共有することで成り立つ

そして
その線が失われたとき
人はまだ同じ場所に集まっていても
共同体ではなくなる

そこにあるのは
ただの集合である

共同体とは
人間が人間を
人間として扱うための形式である

それは
法だけでは作れない

倫理だけでも足りない

禁忌だけでも現実を処理しきれない

だから私たちは
禁忌で根を守り
倫理で日常を保ち
制度で破れを止血する

その三つの層を持つことで
ようやく人間は
人間として共に暮らすことができる

共同体は
他者を物にしたところから崩壊する

そして倫理とは
その崩壊の手前で
自分の手を止めるための
最後の内的な形式なのだと思う


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