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無意識の信頼


副題
当たり前の中に沈んでいる
世界への小さな賭けについて

はじめに


人は
信頼しているものほど
意識しない

毎朝
床に足を置く

椅子に座る

道を歩く

電車に乗る

誰かに挨拶をする

蛇口をひねる

眠る

そのたびに人は
本当は無数のものを信じている

床は抜けないだろう

椅子は壊れないだろう

道は続いているだろう

電車は目的地へ向かうだろう

相手は急に襲ってこないだろう

水は出るだろう

眠っても
明日は来るだろう

けれど
私たちはそれをいちいち信頼とは呼ばない

なぜなら
それはすでに当たり前になっているからだ

無意識の信頼が目に見えないのは
信頼がないからではない

信頼が深く沈み込み
生活の前提になっているからである


第一章
当たり前とは高度な前提である


当たり前とは
単純なものではない

むしろ
当たり前ほど
多くの条件を要求している

歩くことを考えてみる

人は歩くとき
いちいち確認しない

重力は今日も存在しているか

地面は平らか

右と左は区別できるか

身体は次の一歩まで持つか

進むべき方向はあるか

そんなことを
毎回考えていたら
人は歩けない

歩けるということは
それらをすでに信じているということだ

重力が突然消えないこと

地面が足を受け止めること

身体が完全には裏切らないこと

世界が次の一歩ぶんだけは
まだ続いていること

それらが背景に沈んでいるから
人は歩ける

だから
当たり前とは
低いものではない

当たり前とは
高度な前提が安定している状態である


第二章
歩くことは世界への信頼である


歩くとは
ただ足を前に出すことではない

歩くとは
世界に倒れかかることである

そして
倒れ切る前に
世界に支えられることである

人は自分の力で歩いていると思っている

もちろん
筋肉も使う

骨も使う

神経も使う

呼吸も使う

しかし
それだけでは歩けない

地面がなければ
足は置けない

重力がなければ
身体は歩行の形を取れない

方向がなければ
一歩はただの揺れになる

世界があるから
人は歩ける

つまり歩行とは
自立の姿をした依存である

私は自分の足で歩いている

けれど
その足を置く場所は
世界が用意している

私は自分の意思で進んでいる

けれど
進むという行為は
空間が続いていることを前提にしている

ここに
人間の生の構造がある

人は自立しているようで
徹底的に世界へ依存している

そして
その依存をいちいち意識しないほど
世界を信じている


第三章
信頼は壊れたときに見える


無意識の信頼は
普段は見えない

見えないからこそ
生活は滑らかに流れる

けれど
その信頼は
壊れたときに突然見える

いつも返信が来ると思っていた人から
返信が来ない

いつもそこにあると思っていた場所が
なくなる

当たり前に続くと思っていた仕事が
終わる

帰れると思っていた家が
もう帰れる場所ではなくなる

身体が当然動くと思っていたのに
思うように動かない

そのとき人は気づく

自分はこれを
当たり前だと思っていたのだと

つまり
信頼とは
失われたときに輪郭を持つ

毎日あったもの

毎回してくれたこと

何も言わずに支えていたもの

疑わずに済んでいた関係

それらは
あるうちは見えにくい

なぜなら
信頼されているものほど
背景に回るからだ


第四章
信頼されすぎるものは見えなくなる


ここに
無意識の信頼の残酷さがある

人は
信頼していないものには注意を向ける

壊れそうな椅子には慎重に座る

信用できない人には警戒する

不安な道では足元を見る

けれど
信頼しているものには
注意を向けない

そこにあると思っているから

壊れないと思っているから

裏切らないと思っているから

いつも通りだと思っているから

だから
深く信頼されたものほど
感謝されにくくなる

毎日支えてくれる人

いつも待っていてくれる場所

何も言わずに整えられている環境

当然のように続いている身体

それらは
信頼されすぎることで
見えなくなる

見えないものは
軽んじられやすい

軽んじられたものは
いつか傷つく

だから
無意識の信頼は
安心の土台であると同時に
関係の盲点でもある


第五章
不安とは信頼が前景化した状態である


不安とは
信頼がない状態とは限らない

むしろ
信頼が壊れかけて
意識に上がってきた状態であることが多い

この道でいいのか

この人は大丈夫なのか

自分の身体は持つのか

明日は来るのか

世界は自分を受け止めるのか

そう問い始めるとき
人は信頼を失ったのではなく
信頼を確認しなければならなくなっている

無意識だった前提が
意識の場所へ上がってくる

すると
歩行はぎこちなくなる

会話もぎこちなくなる

生活もぎこちなくなる

人間関係もぎこちなくなる

信頼とは
意識されないとき
もっともよく働いている

反対に
信頼を確認し続けなければならない関係は
すでに少し疲れている

本当に大丈夫か

本当に裏切らないか

本当に続くのか

その確認が増えるほど
信頼は信頼ではなく
点検になる


第六章
無意識の信頼と未遂性


ここで
未遂性の哲学ともつながる

人が動けないとき
そこには信頼の問題がある

世界が次の一歩を受け止めてくれると信じられない

相手に言葉が届くと信じられない

選んだあとも関係が壊れないと信じられない

自分の身体が最後まで持つと信じられない

だから
手が出ない

足が出ない

言葉が出ない

涙も出ない

人間が行為できるのは
意思があるからだけではない

行為できるほどには
世界を信じているからである

逆に言えば
未遂とは
欲望や倫理だけでなく
信頼の不足や崩れによっても生まれる

買いたい

けれど
買ったあとの自分を信じられない

会いたい

けれど
会ったあとの関係を信じられない

言いたい

けれど
言葉が受け止められることを信じられない

進みたい

けれど
その先に地面があることを信じられない

未遂とは
世界への信頼が一歩ぶん足りなくなった場所でもある


第七章
信頼とは世界に預けることである


信頼とは
相手を完全に知ることではない

完全に知った上で信じるのなら
それは信頼というより確認である

信頼とは
わからない部分を残したまま
それでも預けることである

この椅子は壊れないだろう

この道は続いているだろう

この人は私を雑には扱わないだろう

この身体は次の一歩まで持つだろう

この世界は
今日くらいは私を受け止めるだろう

信頼には
いつも小さな賭けが含まれている

完全な保証はない

それでも
人は歩く

話す

眠る

誰かを待つ

帰る

また出かける

つまり人間は
保証によって生きているのではない

無数の小さな信頼によって
どうにか生きている


第八章
当たり前を見直すということ


無意識の信頼は
壊れてから見えることが多い

けれど
壊れるまで見えないままでいいわけではない

ときどき
当たり前を見直す必要がある

今日も地面があったこと

身体が動いたこと

道が続いていたこと

誰かが返事をくれたこと

帰れる場所があること

何も起きなかったこと

世界が昨日とほぼ同じ顔で
今日もそこにあったこと

それは
退屈なことではない

奇跡というほど
大げさにする必要もない

ただ
高度な前提が今日も崩れなかったということである

当たり前とは
何もないことではない

多くのものが
静かに支え合っている状態である


終章
次の一歩ぶんだけ信じる


人は
世界全体を信じられなくてもいい

未来全部を信じられなくてもいい

人生の意味を
完全に信じられなくてもいい

ただ
次の一歩ぶんだけ
地面があると信じられれば
人は歩ける

歩くことは
世界への大きな肯定ではない

それは
次の一歩ぶんの小さな肯定である

この足を出しても
世界は私を受け止めるだろう

この身体は
もう一歩だけ持つだろう

この方向には
まだ少しだけ余地があるだろう

そうした無意識の信頼によって
人は今日も歩いている

歩行とは
世界への信頼である

そして
無意識の信頼とは
当たり前の中に沈んでいる
もっとも静かな愛である

それは目立たない

語られない

感謝されにくい

けれど
それがあるから
人は倒れ切らずに
次の一歩へ進める

世界は
完全には信じられない

それでも
一歩ぶんだけなら
信じられることがある

その一歩が
生きるということの
最小単位なのかもしれない


余談

無意識の信頼とは、

本能なのかもしれない。

あるいは、

長い時間をかけて身体に沈んだ経験なのかもしれない。

私たちは、

次の呼吸を確認しない。

次の一秒を毎回疑わない。

その確かめなさこそが、

無意識の信頼なのである。


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