見出し画像

見なくてよかった差まで、見えるようになった

副題  
村社会からSNS社会へ、比較可能性が人間を苦しめるまで


関連記事
『差がなければ、世界は起きない』

はじめに



現代人は、比較しすぎだと言われる。

他人と比べるから苦しい。  
SNSを見るから落ち込む。  
承認欲求が強いから疲れる。  
自己肯定感が低いから揺らぐ。

たしかに、そういう面はある。

けれど、それだけで片づけてしまうと、少し雑だと思う。

現代人は本当に、昔の人より弱くなったのだろうか。

それとも、人間の心が処理できる範囲を超えて、あまりにも多くの差が見えるようになってしまったのだろうか。

人は差に苦しむ。

自分と他人の差。  
理想と現実の差。  
若さと老いの差。  
持っている者と持っていない者の差。  
選ばれた者と選ばれなかった者の差。  
言えたことと、言えなかったことの差。  
届いた世界と、届かなかった世界の差。

しかし、すべての差が同じ重さを持つわけではない。

近くにある差と、遠くから流れ込んでくる差は違う。  
顔の見える差と、数字だけで届く差は違う。  
生活の中で触れられる差と、画面の中で切り取られた差は違う。

かつて人間が見ていた差は、もっと狭かった。

村の中。  
町の中。  
職場の中。  
親戚の中。  
近所の中。

比較対象は、ある程度限られていた。

しかし今は違う。

スマホを開けば、世界中の富、美貌、才能、成功、幸福、若さ、自由、知性、生活様式が一気に流れ込んでくる。

しかも、それは人生全体ではない。

切り取られた一瞬である。  
編集された成功である。  
加工された美しさである。  
数字になった評価である。  
背景を失った幸福である。

人間は、自分の日常の疲労や停滞や未完成な部分を、誰かの人生のハイライトと比べるようになった。

だから現代人が苦しいのは、単に弱くなったからではない。

見なくてよかった差まで、見えるようになったからである。

第1章|村社会にも差はあった



昔の社会を美化するつもりはない。

村社会にも差はあった。

土地を持つ者と持たない者。  
力の強い者と弱い者。  
家柄のよい者とそうでない者。  
美しい者とそうでない者。  
器用な者と不器用な者。  
声の大きい者と黙っている者。  
共同体から好かれる者と、どこか浮いてしまう者。

差は、昔からあった。

人間が複数いれば、必ず差は生まれる。

能力にも差がある。  
容姿にも差がある。  
体力にも差がある。  
性格にも差がある。  
運にも差がある。  
親にも差がある。  
生まれた場所にも差がある。

だから、昔は平等だったという話ではない。

むしろ村社会の差は、ときに現代よりも逃げ場がなかったかもしれない。

狭い共同体の中では、一度ついた評判が残り続ける。  
家の事情も、失敗も、噂も、簡単には消えない。  
距離を置きたくても、置けないことがある。

ただし、そこにはひとつの特徴があった。

村社会の差には、顔があった。

あの人は裕福だが、家の中では苦労している。  
あの人は器用だが、性格に難がある。  
あの人は美しいが、いつも孤独そうだ。  
あの人はよく働くが、身体を壊している。  
あの家は立派だが、内部には問題を抱えている。

近い距離では、差だけを見ることが難しい。

人間としての全体が見えてしまうからだ。

富だけではなく、疲れも見える。  
美しさだけではなく、弱さも見える。  
成功だけではなく、犠牲も見える。  
強さだけではなく、歪みも見える。

だから、差はあっても、その差は物語の中で中和されていた。

完全に救われるわけではない。  
嫉妬もあった。  
劣等感もあった。  
不公平もあった。  
怨みもあった。

それでも、相手が一人の人間として見えている限り、差は少しだけ丸くなる。

顔のある差は、鋭さだけでは終わらない。

そこには背景があり、事情があり、生活があり、弱さがある。

差は、文脈の中に置かれていた。


第2章|現代社会の差は、脱文脈化されて届く



現代社会の差は違う。

差だけが届く。

誰かの成功。  
誰かの美しさ。  
誰かの収入。  
誰かの旅行。  
誰かの結婚。  
誰かの出産。  
誰かの昇進。  
誰かの才能。  
誰かのフォロワー数。  
誰かの称賛。

それらが、背景を削ぎ落とされた状態で画面に並ぶ。

その人がどれだけ疲れているのか。  
何を失ったのか。  
どんな偶然に支えられたのか。  
どれだけ演出されているのか。  
どこまで本当なのか。  
その幸福がどれだけ持続するのか。

そういうものは、見えにくい。

見えるのは結果である。  
見えるのは表面である。  
見えるのは差である。

人間全体ではなく、差だけが切り出される。

ここに現代の残酷さがある。

村社会の差は、顔のある差だった。  
現代社会の差は、脱文脈化された差である。

脱文脈化された差は、鋭い。

なぜなら、そこには中和する情報がないからだ。

相手の苦労が見えない。  
弱さが見えない。  
退屈が見えない。  
不安が見えない。  
犠牲が見えない。  
失敗が見えない。

だから、その差は純度の高い刺激としてこちらに届く。

あの人は持っている。  
自分は持っていない。

あの人は進んでいる。  
自分は止まっている。

あの人は選ばれている。  
自分は選ばれていない。

あの人は輝いている。  
自分はくすんでいる。

このとき、人は相手を見ているようで、実際には差だけを浴びている。

そして、差だけを浴び続けると、人間は自分の位置を見失う。


第3章|比較対象が、村から世界へ拡張された



かつて人間の比較対象は、ある程度限られていた。

村の中。  
町の中。  
学校の中。  
職場の中。  
親戚の中。  
近所の中。

もちろん、それでも苦しかった。

けれど、その比較には範囲があった。

今は違う。

世界中の成功者と比べられる。  
世界中の美しい人と比べられる。  
世界中の才能ある人と比べられる。  
世界中の豊かな人と比べられる。  
世界中の幸せそうな人と比べられる。

しかも、それが同じ画面の上で起きる。

自分の疲れた部屋と、誰かの美しいホテル。  
自分のいつもの食事と、誰かの整った食卓。  
自分の鈍った身体と、誰かの鍛えられた身体。  
自分の停滞と、誰かの達成報告。  
自分の孤独と、誰かの祝福された関係。  
自分の老いと、誰かの若さ。  
自分の生活費の不安と、誰かの余裕ある暮らし。

本来なら交わらなかった人生同士が、比較可能になってしまった。

これは大きい。

人間の心は、世界規模の比較に耐えるようにはできていない。

近くの数十人、数百人の中で自分の位置を測ることはできるかもしれない。

だが、世界中から選ばれた成功、容姿、才能、幸福の断片を毎日浴び続けながら、自分の価値を安定させるのは難しい。

現代人は、現実の生活だけを生きているのではない。

可能だったかもしれない無数の人生との差も生きている。

もっと稼げたかもしれない自分。  
もっと愛されたかもしれない自分。  
もっと美しかったかもしれない自分。  

もっと早く始めていれば違ったかもしれない自分。  

違う場所に生まれていれば変わったかもしれない自分。  

違う選択をしていれば届いたかもしれない未来。

現代社会は、ありえたかもしれない人生を大量に見せてくる。

だから苦しい。

人は現実だけに傷つくのではない。

届かなかった可能性にも傷つく。


第4章|現代の苦しみは、比較可能性の過剰である



現代の苦しみは、単なる格差ではない。

格差は昔からあった。

問題は、格差が可視化され続けることだ。

見なくてよかった差
知らなくてよかった生活
欲しなくてよかった未来
比べなくてよかった相手
考えなくてよかった可能性

それらが、毎日こちらに流れ込んでくる。

しかも、こちらが積極的に探しに行かなくても、向こうから届く。

通知として届く。  
おすすめとして届く。  
広告として届く。  
タイムラインとして届く。  
数字として届く。  
誰かの何気ない投稿として届く。

この社会では、差が勝手に侵入してくる。

かつて他人の生活は、こちらから訪ねなければ見えなかった。

今は、他人の生活の断片が自分の部屋まで入ってくる。

これは、距離の消滅である。

けれど、距離が消えたからといって、心の処理能力まで拡張されたわけではない。

人の心には速度がある。  
人の心には容量がある。  
人の心には消化の時間がある。

しかし現代の情報は、その時間を待たない。

差は次々に届く。  
意味化する前に、次の差が来る。  
整理する前に、次の比較が始まる。  
傷が閉じる前に、次の刺激が入る。

だから人は疲れる。

現代の疲れは、労働だけから来るのではない。

比較可能性の過剰からも来る。

見える世界が広がるほど、人は自由になる。

それは確かだ。

しかし同時に、見える世界が広がるほど、人は自分の欠如も発見してしまう。

知ることは、自由である。  
だが、知ることは、欲望の始まりでもある。  
欲望は、未来を開く。  
しかし同時に、現在の不足を照らしてしまう。

文明は視界を広げた。

その結果、人間は自分の人生を、あまりにも多くの人生と比べるようになった。


第5章|差は、自己価値へ流入する



差は、ただ見えるだけなら情報である。

あの人は収入が高い。  
あの人は美しい。  
あの人は若い。  
あの人は評価されている。  
あの人は楽しそうに生きている。

それは、本来ならただの事実に過ぎない。

しかし人間は、そこで止まれない。

その差を、自分の価値に接続してしまう。

あの人は収入が高い。  
だから自分は劣っている。

あの人は美しい。  
だから自分は見劣りする。

あの人は若い。  
だから自分はもう遅い。

あの人は評価されている。  
だから自分は選ばれていない。

あの人は楽しそうに生きている。  
だから自分の人生は薄い。

この接続が、苦しみを生む。

差そのものが苦しみなのではない。

差が自己価値へ流入したとき、人は苦しむ。

外部の差が、内部の勾配になる。

そしてその勾配が、焦りになる。  
嫉妬になる。  
劣等感になる。  
欲望になる。  
無力感になる。  
怒りになる。  
諦めになる。

ここで大切なのは、差を見ること自体を否定しないことだ。

差を見る能力は、人間の知性でもある。

違いに気づくから、学べる。  
足りなさに気づくから、工夫できる。  
他人の優れた点を見るから、自分も変われる。  
現実と理想の差を見るから、行動できる。

問題は、すべての差を自分の価値に直結させてしまうことだ。

他人の成功は、自分の敗北ではない。  
他人の美しさは、自分の醜さの証明ではない。  
他人の若さは、自分の価値の減少ではない。  
他人の豊かさは、自分の人生の否定ではない。  
他人の幸福は、自分が不幸である証拠ではない。

差はある。

だが、差の意味はひとつではない。

差を見た瞬間に、自分の価値まで差し出してしまう必要はない。


第6章|文脈を取り戻す



では、どうすればいいのか。

差を見ないようにすればいいのか。

それもひとつの方法ではある。

距離を置く。  
画面を閉じる。  
通知を減らす。  
比べる場所から離れる。

そういう判断は必要だ。

人間の心には限界がある。  
浴び続ければ、誰でも疲れる。  
処理できない差を浴び続けることを、強さとは呼ばない。

けれど、ただ見ないだけでは足りないこともある。

必要なのは、文脈を取り戻すことだと思う。

画面に流れてくる差は、文脈を失っている。

だから、その差をそのまま受け取ると、鋭すぎる。

あの人にも生活がある。  
あの人にも疲労がある。  
あの人にも不安がある。  
あの人にも見せていない失敗がある。  
あの人にも、誰かと比べて苦しむ時間があるかもしれない。

そう考えることは、相手を下げることではない。

相手を人間に戻すことである。

差だけで見ない。  
数字だけで見ない。  
表面だけで見ない。  
結果だけで見ない。

相手を物語の中へ戻す。

それだけで、差の鋭さは少し変わる。

村社会の差には、顔があった。

現代社会の差は、顔を失いやすい。

だからこそ、こちら側で顔を取り戻さなければならない。

そして同時に、自分自身にも文脈を戻す必要がある。

自分は遅れているのかもしれない。  
だが、何から遅れているのか。

自分は持っていないのかもしれない。  
だが、本当にそれを欲していたのか。

自分は選ばれていないのかもしれない。  
だが、その場所に本当に立ちたかったのか。

自分の人生は薄いのかもしれない。  
だが、誰の尺度で薄いと判断しているのか。

差を見るとき、人は自分を単純化してしまう。

だから問い直す必要がある。

自分の生活には、自分の文脈がある。

他人の画面に映った一瞬と、自分の人生全体を比べてはいけない。


第7章|見えることは、必ずしも幸福ではない



文明は、人間の視界を広げてきた。

遠くへ行けるようになった。  
遠くの人と話せるようになった。  
遠くの暮らしを知れるようになった。  
遠くの才能を見られるようになった。  
遠くの成功に触れられるようになった。

それは素晴らしいことでもある。

閉じた社会の中では、自分の可能性に気づけないことがある。  

狭い共同体の価値観だけで、自分を決めつけられることもある。  

外の世界を見ることで、救われる人もいる。  

違う生き方を知ることで、息ができる人もいる。

だから、見える世界が広がったことを、単純に悪とは言えない。

問題は、広がった視界に対して、心の処理が追いつかないことだ。

見えることは、自由である。  

しかし、見えることは、負荷でもある。

知ることは、可能性である。  

しかし、知ることは、欠如の発見でもある。

世界が広がるほど、人は希望を得る。

同時に、世界が広がるほど、自分の届かなさも知ってしまう。

ここに現代人の矛盾がある。

見えるようになったから、救われた。  
見えるようになったから、苦しくなった。

その両方がある。

だから必要なのは、視界をただ広げることではない。

どの差を見るのか。  
どの差を見ないのか。  
どの差を自分に入れるのか。  
どの差をただ通過させるのか。  
どの差を欲望に変えるのか。  
どの差を手放すのか。

その選択である。

現代人に必要なのは、情報を増やす力だけではない。

見える差との距離を選ぶ力である。


終章|見なくてよかった差まで、見えるようになった



差がなければ、世界は起きない。

差があるから、現象が生まれる。  
差があるから、欲望が生まれる。  
差があるから、苦しみが生まれる。  
差があるから、文明が生まれる。

けれど現代社会では、その差があまりにも速く、広く、鋭く届くようになった。

村社会の差は、生活圏の中にあった。

現代社会の差は、世界規模で流れ込んでくる。

村社会の差には、顔があった。

現代社会の差は、顔を失い、数字や画像や結果として届く。

村社会の差は、物語の中にあった。

現代社会の差は、文脈を削がれたまま、刺激として届く。

だから現代人は苦しい。

弱くなったからではない。

人間の心が処理できる以上の差を、毎日浴びるようになったからである。

見なくてよかった差まで、見えるようになった。

知らなくてよかった生活まで、知るようになった。

欲しなくてよかった未来まで、欲するようになった。

比べなくてよかった相手と、比べるようになった。

けれど、それでも見えることを完全には否定できない。

見えることで救われる人もいる。  
外の世界を知ることで、生き延びる人もいる。  
自分のいる場所だけが世界ではないと知ることで、呼吸できる人もいる。

だから問題は、見ることではない。

見えた差を、どう扱うかである。

差をそのまま自己価値に接続しないこと。  
差だけで相手を見ないこと。  
差だけで自分を裁かないこと。  
文脈を取り戻すこと。  
距離を選ぶこと。  
見ない自由を持つこと。  
そして、見えた差のすべてに反応しなくていいと知ること。

現代社会は、差を無限に可視化する。

だからこそ人間には、差を見つめる技術だけでなく、差から身を守る技術も必要になる。

世界は広がった。

けれど、心は無限には広がらない。

人間には、人間の速度がある。  
人間には、人間の容量がある。  
人間には、人間の距離がある。

その限界を恥じる必要はない。

むしろ、その限界の中にこそ、人間らしさがある。

見なくてよかった差まで、見えるようになった時代に、私たちは生きている。

だからこそ、すべてを見る必要はない。

すべてと比べる必要もない。

差が世界を起こすのだとしても、すべての差を自分の中で起こし続ける必要はない。

自分の生活に戻ること。

自分の文脈に戻ること。

自分の速度に戻ること。

そこからもう一度、見える世界との距離を選び直すこと。

それが、比較可能性の過剰な時代を生きるための、ひとつの静かな抵抗なのだと思う。


関連記事

『人と比較することに苦しむ全ての人へ』

この記事では、比較を単なる劣等感や承認欲求としてではなく、意識が成熟していく螺旋として捉えた。

他者と比べる段階。  
過去の自分と比べる段階。  
価値観と比べる段階。  
他者と共鳴する段階。  
そして、比較を優劣ではなく観照として扱える段階。

比較は、人を苦しめる。  
けれど同時に、比較があるから人は自分の位置を知り、価値観を持ち、世界との距離を測り直すこともできる。

本稿が「見える差が増えすぎた現代社会」の話だとすれば、関連記事では「その差を人間の内側でどう変換していくか」を書いている。

『「当たり前」が更新されるたび、人は不幸になる』

『知らないでいられる人ほど、幸福が近い』

『「SNSが変えたつながりのかたちとその影響』

『知の救済論 知の彼岸における幸福の哲学』

いいなと思ったら応援しよう!

谷博貴の哲学【フォロバ100】 応援よろしくお願いします!いただいたチップは研究費用に回します。