見出し画像

自由意志を担保に入れるということ

副題

結婚、仕事、家族、創作――人はなぜ、自らの未来を拘束するのか

序章|自由とは、可能性を残し続けることなのか


人は自由になりたいと言う。

誰にも縛られず、
どこにも縛られず、
自分の意思で生きたいと願う。

嫌な仕事を辞められる。

望まない関係から離れられる。

住む場所を変えられる。

誰と生きるかを選べる。

自由がなければ、人は自分の人生を選べない。

だから自由は大切である。

けれど、自由という言葉には、一つ見落とされやすい側面がある。

自由とは、本当に、いつまでも可能性を残し続けることなのだろうか。

結婚しない。

家を買わない。

子供を持たない。

一つの仕事に深く関わらない。

特定の土地に根を張らない。

誰にも生活を預けず、誰からも生活を預けられない。

そうすれば、多くの可能性を残すことができる。

いつでも辞められる。

いつでも移動できる。

いつでも関係を切れる。

いつでも別の人生を選び直せる。

それは、たしかに自由である。

しかし、可能性を残したまま何も選ばなければ、現実はどこにも生まれない。

一つの場所を選ぶとは、別の場所へ行く可能性を失うことである。

一人の人と生きるとは、他の関係の可能性を閉じることである。

一つの仕事を引き受けるとは、別の時間の使い方を失うことである。

何かを選ぶとは、選ばなかった未来を失うことでもある。

つまり選択とは、自由の使用である。

そして、ときに人は、自分の自由を使って、未来の自分を拘束する。

結婚する。

住宅ローンを組む。

子供を育てる。

仕事を引き受ける。

誰かとの約束を守る。

作品を世に出す。

そこでは現在の自分が、未来の自分に向かって命令を出している。

簡単には逃げるな。

自分だけで決めるな。

約束したことを忘れるな。

誰かの生活を、自分の気分だけで壊すな。

自由意志とは、自由を増やす力だけではない。

自分が何に拘束されるのかを選ぶ力でもある。

社会との接続とは、自由を奪われることではなく、自分の自由の一部を、守る価値があると思える何かに預けることなのかもしれない。

今回は、この構造について考えてみたい。

第一章|自由意志を担保に入れるとは何か


担保とは、何かを得る代わりに、別の何かを差し出すことである。

住宅ローンを組めば、現在の資金では買えない家を得られる。

その代わりに、未来の収入の一部を差し出す。

二十年後の自分。

三十年後の自分。

まだどこにいて、何を考えているのかも分からない未来の自分に対して、現在の自分が契約を結ぶ。

働け。

払い続けろ。

簡単には収入を失うな。

住む場所を変えたくなっても、残債を考えろ。

住宅ローンとは、家を得るための契約であると同時に、未来の移動可能性や労働選択を狭める契約でもある。

車のローンも似ている。

車は移動の自由を増やす。

しかし、ローンは金銭の自由を減らす。

自由を得るために、別の自由を差し出す。

この交換は、特別なことではない。

私たちは日常の中で、何度も自由を交換している。

仕事をすれば、収入を得る代わりに時間を差し出す。

友人と約束すれば、当日の気分だけで予定を変更する自由を差し出す。

誰かと暮らせば、自分だけの都合で生活を決める自由を差し出す。

作品を公開すれば、誰にも解釈されずに済む自由を差し出す。

人は自由を失っているのではない。

一つの自由を使って、別の価値を得ている。

だから、自由意志を担保に入れるとは、自由意志を放棄することではない。

自由意志によって、未来の自由の一部を差し出すことである。

ただし、担保に入れた自由は、いつでも簡単に回収できるとは限らない。

一度生まれた子供を、いなかったことにはできない。

一度深く関わった人の人生から、何の影響も残さずに消えることはできない。

一度公開した言葉を、完全に世界から回収することはできない。

自由意志は、現在を選ぶ力であると同時に、未来の自分へ責任を渡す力でもある。


第二章|自由意志は、自由を減らすことも選ぶ


自由意志という言葉から、多くの人は拒否する力を思い浮かべる。

嫌だと言えること。

逃げられること。

断れること。

従わないこと。

それらは、自由の重要な側面である。

しかし自由意志は、拒否する方向にだけ働くわけではない。

自ら規範を引き受けることも、自由意志である。

社会には多くの規範がある。

列に並ぶ。

約束を守る。

公共の場所で騒がない。

相手の同意なく踏み込まない。

自分の行為によって生じた結果を引き受ける。

これらに何も考えず従うだけなら、習慣や服従に近い。

だが、その規範がなぜ必要なのかを考え、

自分も他者も同じ空間で生きるために必要だと納得し、

自分の判断として採用するなら、それは個人規範になる。

外から与えられた規範が、自分の中を通過して、自分の生き方へ変わる。

社会規範に反抗することだけが自由ではない。

反抗できるにもかかわらず、なお納得して従うことも自由である。

むしろ自由意志とは、規範を持たないことではない。

どの規範を拒み、どの規範を引き受けるかを選ぶことである。

人は何にも拘束されずには生きられない。

欲望に拘束される。

恐怖に拘束される。

習慣に拘束される。

他者の評価に拘束される。

自分らしさに拘束される。

社会規範に従わないと決めた人も、従わない自分という規範に拘束される。

完全な無拘束は存在しない。

だから自由の本質は、鎖を持たないことではない。

どの鎖を自分に結ぶのかを選べることにある。


第三章|自由意志には段階がある


自由意志は、あるか、ないかだけでは語れない。

同じ行動でも、どの程度自分で引き受けているかによって意味は変わる。

第一の段階は、反応である。

怒ったから怒鳴る。

怖いから逃げる。

欲しいから奪う。

皆がしているから従う。

ここでは本人に選んだ感覚があっても、行動の多くは欲望、恐怖、習慣、同調圧力によって決まっている。

第二の段階は、選択である。

複数の選択肢を認識し、その中から一つを選ぶ。

ただし、その選択肢自体は、社会や環境から与えられていることが多い。

第三の段階は、吟味である。

なぜ自分はそれを選びたいのか。

その欲望はどこから来たのか。

何を恐れているのか。

この選択によって何を得て、何を失うのか。

自分の反応や欲望を、判断の対象として見られるようになる。

第四の段階は、引き受けである。

自分が選んだ結果を、未来の自分へ押しつけずに、自分の責任として持つ。

社会規範に従う場合でも、反抗する場合でも、その結果を自分のものとして受け取る。

第五の段階は、個人規範の形成である。

私はこうする。

私はここを踏み越えない。

私はこの責任を引き受ける。

その場その場の気分ではなく、自分の生き方を支える基準を作る。

そして第六の段階で、個人規範は倫理へ向かう。

自分が傷つきたくないから、他者も傷つけない。

自分の自由を奪われたくないから、相手の自由も奪わない。

自分の生活を軽く扱われたくないから、誰かの生活も軽く扱わない。

ここで初めて、個人の都合を超えて、他者が判断の内部に入る。

自由意志の成熟には、経験と知識が必要である。

選択肢を知らなければ、選ぶことはできない。

結果を想像できなければ、責任を引き受けることもできない。

知識は選択肢と因果関係を教える。

経験は、自分の判断が他者にどのような重さを与えるのかを教える。

そして倫理は、他者もまた自分と同じように、自由と生活を持つ存在だと教える。

幼い自由は、制約を嫌う。

成熟した自由は、守る価値のある制約を自分で選ぶ。


第四章|個人規範は、必ずしも倫理ではない


自分で規範を持つことは、成熟の一部である。

しかし、個人規範がそのまま倫理になるわけではない。

二度と傷つかないために、誰も信用しない。

利用されないために、先に相手を利用する。

損をしないために、自分だけ例外になる。

裏切られないために、相手の行動を管理する。

これらも本人の中では、一貫した個人規範になり得る。

しかし、そこには他者の自由が入っていない。

個人規範は、自分を守るための基準である。

倫理は、自分と他者が共に生きるための基準である。

この二つは重なることもあるが、必ずしも一致しない。

だから自由意志の成熟は、自分で決められるようになるだけでは足りない。

自分の決定が、他者の自由や生活をどのように拘束するのかまで理解する必要がある。

結婚したから、相手を管理してよいわけではない。

家族だから、無制限に介護を要求してよいわけではない。

親だから、子供の人生を所有してよいわけではない。

愛しているから、相手を自分の望む形に変えてよいわけでもない。

自分が自由意志によって何かを引き受けたとしても、相手の自由意志まで担保に取る権利は発生しない。

ここが、自己拘束と支配の境界になる。

自分を縛ることはできる。

しかし、自分が縛られたことを理由に、他人も同じように縛ることはできない。


第五章|結婚は、自己決定を共同決定へ移す


結婚は、愛の制度である。

だが同時に、自己決定権の一部を共同決定へ移す制度でもある。

どこに住むか。

どの程度働くか。

何に金を使うか。

休日をどう過ごすか。

誰と会うか。

親族とどう関わるか。

病気になったとき、誰が何を引き受けるか。

一人であれば自分だけで決められたことが、二人の生活では共同判断になる。

それは不自由である。

だが、その不自由によって、人は誰かの人生の中に深く存在する。

自分の予定が相手の予定になる。

自分の収入が相手の生活に影響する。

自分の健康が相手の未来を変える。

自分の気分だけでは、完全に自由に消えられなくなる。

結婚による接続とは、自由を完全に失うことではない。

自分だけで決める自由の一部を、共同生活へ預けることである。

ただし、良い結婚と悪い結婚は、自由が減るかどうかでは区別できない。

どちらも自由を減らす。

違うのは、その拘束に相互性と修正可能性があるかどうかである。

双方が自由を預けているか。

一方だけが我慢を引き受けていないか。

異議を言えるか。

生活条件を見直せるか。

離れる権利が現実に残されているか。

良い結婚は、不自由を含んでいる。

しかし、その不自由の意味を二人で問い直すことができる。

悪い結婚では、一度交わした約束が、現在の尊厳を奪うための永久契約に変わる。

愛によって結ばれた関係も、自由意志を問い直せなくなった瞬間、係留から鎖へ変わる。


第六章|子供は、未来の自分への不可逆な約束になる


子供は、契約書ではない。

だが、子供が生まれると、親の未来は強く拘束される。

食費。

教育。

病気。

住む場所。

安全。

学校。

時間。

感情。

仕事の選択。

親は、自分の人生だけを計算して生きることができなくなる。

子供は親の自由を減らす。

しかし同時に、親を社会へ深く接続する。

保育園。

学校。

病院。

地域。

行政。

職場。

親族。

子供を通じて、人は自分一人では接続しなかった社会の網の目へ入っていく。

ただし、子供を持つことを自由意志によって選んだとしても、子供の人生まで所有したことにはならない。

親は、自分の自由を子供のために預けることはできる。

しかし、その代償として子供の自由を要求することはできない。

これだけ育てたのだから、言うことを聞け。

これだけ金を使ったのだから、期待に応えろ。

これだけ犠牲になったのだから、老後を支えろ。

そこまで行けば、親の愛は請求書になる。

親が自由を差し出したことは事実である。

だが、それは親自身が引き受けた規範であって、子供の自由意志を担保に取る契約ではない。

自由意志の成熟とは、自分の選択の責任を、選ばなかった他者へ転嫁しないことでもある。


第七章|介護は、選ばなかった接続をどう引き受けるか


介護は、さらに難しい。

結婚や住宅ローンは、自分で選んだと言いやすい。

子供についても、完全ではないにせよ、一定の選択が存在する。

しかし親の介護は、自分が結んだ契約ではない。

自分は親を選んで生まれたわけではない。

それでも親が老い、生活できなくなれば、自由の一部を差し出すことを求められる。

時間。

金銭。

感情。

住む場所。

働き方。

将来設計。

介護とは、過去から届く自由の拘束である。

ここでは、自ら選んだ責任と、与えられた関係の責任が交差する。

親に育てられた。

支えてもらった。

迷惑をかけた。

愛された。

そうした記憶は、介護を引き受ける理由になり得る。

だが、過去に何かを受け取ったからといって、現在の人生を無制限に差し出す義務が生じるわけではない。

親孝行。

家族だから。

長男だから。

娘だから。

自分しかいないから。

そうした言葉は、関係を支えることもある。

しかし、個人の自由と生活を完全に消去するために使われることもある。

介護に必要なのは、愛情だけではない。

何を引き受けるのか。

何を行政や専門職へ渡すのか。

どこから先は自分の生活が壊れるのか。

親の尊厳と自分の尊厳を、どう同時に守るのか。

自由意志を担保に入れることと、自由意志そのものを明け渡すことは違う。

良い介護とは、すべてを背負うことではない。

関係を断絶せず、しかし自分も壊れない範囲を設計することなのだと思う。


第八章|社会的信用とは、本当に逃げられなさなのか


社会は、能力だけを見ているわけではない。

この人は優秀か。

誠実か。

稼げるか。

約束を守るか。

それと同時に、社会はこう見ている。

この人は簡単に消えないか。

住宅ローンがある。

家族がいる。

子供がいる。

地域に根を張っている。

長く同じ職場にいる。

これらは、その人が未来をすでに何かへ預けていることを示す。

だから社会は、そこに安定や信用を見る。

この人は簡単には逃げない。

この人は明日突然いなくなりにくい。

この人には守る生活がある。

社会的信用には、逃げられなさの証明という側面がある。

これは、かなり残酷な構造である。

何にも縛られていない人は、自由である。

しかし組織から見れば、いつでも離脱できる人でもある。

反対に、多くの責任を抱えている人は、自由が少ない。

だが、そこに居続ける理由を持っている。

ただし、逃げられないことと誠実であることは同じではない。

ローンがあるから働く人が、倫理的に成熟しているとは限らない。

家族がいるから辞められない人が、自分の仕事を支持しているとも限らない。

外的拘束によって残っているだけかもしれない。

本当の信用とは、逃げられないことではない。

逃げることも可能でありながら、なお自分の判断として関係を維持していることである。

拘束の強さではなく、拘束の意味を現在も引き受けているかどうか。

そこに、より成熟した信用がある。


第九章|独身者の自由が空虚なのではない


結婚しない。

子供を持たない。

住宅ローンを組まない。

車を持たない。

地域に深く入らない。

現代では、そうした選択が増えている。

これは必ずしも逃避ではない。

不確実な時代に、重い契約を避ける。

不安定な収入の中で、長期ローンを持たない。

壊れた家庭を見て、結婚を慎重に考える。

育児負担を理解したうえで、子供を持たない。

それらは現実的な判断であり、自由意志による選択でもある。

問題は、独身であることではない。

自由を何にも預けないまま、選択可能性だけを保存し続けることにある。

結婚していても、相手を生活装置として扱い、自分の自由をほとんど差し出していない人はいる。

独身でも、仕事、友人、地域、創作、介護、思想、技術へ深い責任を引き受けている人はいる。

社会との接続の深さは、婚姻状態では決まらない。

自分の未来を、何に対して差し出しているかで決まる。

孤独とは、誰にも縛られていないことではない。

自分の自由を預けてもよいと思える対象が見つからないことである。

仕事でもいい。

友人でもいい。

作品でもいい。

土地でもいい。

技術でもいい。

思想でもいい。

習慣でもいい。

誰かとの小さな約束でもいい。

自由をすべて差し出さなくても、接続は作れる。

柔らかな係留もある。

むしろ、いつでも見直せる関係だからこそ、長く維持できる接続もある。


第十章|係留には強度と回収可能性がある


自由を預けるといっても、その強さは同じではない。

子供や住宅ローンのように、簡単には回収できない自由がある。

仕事や地域活動のように、手続きを経れば回収できる自由がある。

趣味、学習、創作のように、自分の判断で離れやすい自由もある。

係留には強度がある。

そして同時に、回収可能性がある。

強い係留は、深い接続を生みやすい。

しかし失敗したときの損失も大きい。

柔らかな係留は、簡単に離れられる。

しかし、だから価値が低いわけではない。

文章を書く。

毎日学ぶ。

友人との関係を続ける。

誰かの話を聞く。

仕事の中で小さな責任を引き受ける。

これらも、自分の時間と注意を世界へ差し出す行為である。

人は、人生のすべてを一つのものへ預ける必要はない。

仕事へ少し預ける。

家族へ少し預ける。

創作へ少し預ける。

友人へ少し預ける。

資産形成によって、未来の自由を増やす。

休息によって、使い切った自由を回復する。

人生とは、自由を預けることと、回収することの繰り返しでもある。

重要なのは、自由を一切失わないことではない。

どの自由を預け、どの自由を残し、どの自由を未来へ送るのかを設計することである。


第十一章|良い係留と悪い鎖


すべての拘束が良いわけではない。

人を世界につなぐ拘束もあれば、人を世界から切り離す拘束もある。

良い係留と悪い鎖を分けるのは、単に苦しいかどうかではない。

子育ても介護も仕事も、苦しさを含む。

一時的に世界を狭めることもある。

それでも、引き受ける価値のある拘束は存在する。

重要なのは、少なくとも四つの条件である。

自分に選択可能性があったか。

現在もその拘束の意味に同意できるか。

負担に相互性があるか。

状況に応じて修正できるか。

良い係留とは、苦しみがない関係ではない。

苦しさを含んでいても、その意味を自分で問い直し、引き受け直せる関係である。

悪い鎖とは、過去に選んだという理由だけで、現在と未来を無条件に差し出し続けさせる拘束である。

自分で選んだのだから最後まで責任を持て。

家族なのだから我慢しろ。

親なのだから犠牲になれ。

夫婦なのだから別れてはいけない。

社会人なのだから耐えろ。

これらの言葉は、責任を支えることもある。

だが同時に、自由意志を過去の自分へ永久譲渡させる論理にもなる。

自由意志とは、一度決めたことを永遠に変えない力ではない。

かつて選んだ拘束が、現在も守る価値を持つのかを問い直す力でもある。


第十二章|自我は、自由を支えながら自由を縛る


人は、自分について物語を持っている。

私は責任感のある人間だ。

私は家族を見捨てない。

私は途中で投げ出さない。

私は弱音を吐かない。

私は一度決めたら最後までやる。

こうした自己像は、人を支える。

困難なときに踏みとどまる理由になる。

だが、自我は自由を支えるだけではない。

自由を拘束することもある。

責任感のある自分でなければならない。

家族を見捨てない自分でなければならない。

途中で逃げない自分でなければならない。

そうして過去に作られた自己像が、現在の判断を封じる。

自我とは、現在までに作られた自己のまとまりである。

自由意志とは、その自我に従うだけでなく、

この自己像は、今も必要なのか。

この規範は、誰を守っているのか。

この責任は、まだ意味を持っているのか。

と問い直す力である。

自由な自我とは、何にも縛られない自我ではない。

壊れずに変われる自我である。

自分の一貫性を守りながら、必要なら過去の自分を更新できる。

それが、自由意志の成熟なのだと思う。


第十三章|自由は、使わないまま保存するものではない


自由は大切である。

だが自由は、金庫に保存するためのものではない。

選択肢を残し続けることだけが自由なら、何も選ばない人が最も自由ということになる。

しかし、選ばれなかった可能性は、永遠には残らない。

時間が経てば、可能性は少しずつ閉じていく。

いつか結婚するかもしれない。

いつか家を買うかもしれない。

いつか仕事を変えるかもしれない。

いつか遠くへ行くかもしれない。

若い頃の可能性は、未来に向かって開いている。

しかし時間が経てば、

選べるはずだった未来は、

選ばれなかった過去へ変わる。

そのとき人には問いが残る。

自由だったかどうかではない。

その自由を、何に使ったのか。

自由とは、失わないことによって完成するものではない。

どこに使い、何を現実にしたかによって意味を持つ。

だから、自由を失うことは必ずしも敗北ではない。

守りたい人のために、別の可能性を閉じる。

作りたいもののために、時間を差し出す。

引き受けたい責任のために、身軽さを手放す。

そこには、不自由がある。

しかし同時に、自分が選んだ現実がある。


終章|自由意志は、未来の自分に何を託すのか


社会との接続とは、自由意志の一部を担保に入れることで成立する。

だが、それは自由を社会へ売り渡すことではない。

現在の自分が、

何を守るためなら、

未来の自由を差し出してもよいかを決めることである。

人は自由を使って、約束を作る。

自由を使って、関係を作る。

自由を使って、居場所を作る。

自由を使って、自分の規範を作る。

そして、その規範の中に他者の自由を含めたとき、個人規範は倫理へ変わる。

ただし、一度選んだものを永遠に守ることだけが責任ではない。

守る意味を失った契約。

尊厳を奪う関係。

一方だけが沈んでいく家族構造。

誰も救わない自己犠牲。

そうした拘束を問い直し、必要なら回収することも、自由意志の働きである。

完全な自由は軽い。

完全な拘束は苦しい。

人間が生きる場所は、その間にある。

自分の自由を少しだけ差し出し、その代わりに居場所を得る。

自分の未来を少しだけ預け、その代わりに誰かの現在へ存在する。

自分の可能性を少しだけ閉じ、その代わりに現実の厚みを得る。

自由とは、どこにも縛られないことではない。

自分が何に縛られるのかを選ぶ力である。

自由意志の成熟とは、その拘束を自分の規範として引き受けながら、なお必要なら問い直せることである。

そして倫理とは、自分が選んだ拘束の中へ、他者の自由も迎え入れることである。

だから最後に残る問いは、

私は自由でいたいのか、

ではない。

私は、自分の自由を何に使いたいのか。

何を守るためなら、未来の自分を拘束してもよいのか。

そして、その拘束は自分だけでなく、誰かの自由も守っているのか。

自由意志を担保に入れるとは、

未来の自分を現在の自分に服従させることではない。

未来の自分へ、守る価値のあるものを託すことなのだと思う。


最終命題


自由意志を担保に入れるとは、自分の自由を放棄することではない。何を守るためなら未来の自由を差し出してもよいかを、現在の自分が選ぶことである。


関連記事

『余白が削られる時代に人は何を守るべきか』

『人生はリソース管理である』

いいなと思ったら応援しよう!

谷博貴の哲学【フォロバ100】 応援よろしくお願いします!いただいたチップは研究費用に回します。