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寂しさの置き場所


副題
孤独 感謝 愛の余力 そして二客の皿について

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はじめに


一人でいることが寂しいのだと思っていた

誰もいない部屋
誰からも連絡が来ない夜
食卓に一つだけ置かれたカップ
返事のないスマホ
静かすぎる部屋

そういうものが寂しさなのだと思っていた

けれど最近になって
少し違うのではないかと思うようになった

寂しさとは
誰もいないことそのものではない

寂しさとは
行き場を失った愛が
自分の中に戻ってきてしまった状態なのではないか

愛は本来
どこかへ向かう力である

誰かを気にかける
誰かを待つ
誰かのために整える
誰かに出すために器を選ぶ
誰かの好きなものを覚えておく
誰かが来てもよいように席を残す

そういう力である

だが
向かう先を失ったとき
その力は消えない

自分の中へ戻ってくる

そして
戻ってきた愛が置き場所を失うと
それは寂しさになる

私は最近
このことを皿から考えるようになった

一人暮らしなら
カップアンドソーサーは一客で足りる

飲むのは一人
洗うのも一人
収納するのも一人

それなのに
なぜ私は二客を集めていたのか

来客用と言えば聞こえはいい

実用だとも言える

対になっていた方が美しい
二つある方が景色になる
食卓として安定する

それも間違いではない

けれど
本当はそれだけではなかったのだと思う

二客目は
余分な器ではなかった

不在の誰かの席だった


第一章
孤独には種類がある


孤独には
少なくとも二種類ある

ひとつは
近くに誰もいない孤独

これは身体の孤独である

部屋に一人でいる
食事を一人でとる
休日に誰とも会わない
誰とも会話しないまま一日が終わる

これは分かりやすい孤独である

もうひとつは
誰もわかってくれない孤独

これは心の孤独である

人の中にいても孤独なことがある
笑っていても孤独なことがある
会話していても
自分の奥までは届いていないと感じることがある

近くに人がいるのに
自分がどこにもいないように感じる

これは身体の孤独よりも深いことがある

けれど
今の私は
もう一つの孤独を考えている

それは
配置できない孤独である

誰もいない孤独でもない
誰にもわかってもらえない孤独でもない

自分の中に戻ってきた愛を
どこに置けばいいのかわからない孤独である

誰かへ向かっていた力がある

待つ力
気にかける力
整える力
喜ばせたい力
守りたい力
一緒に時間を過ごしたい力

その力が
対象を失って戻ってくる

けれど
すぐには別の場所へ流せない

だから内側に滞留する

この滞留が寂しさになる

寂しさとは
愛がないことではない

むしろ逆である

愛が余っているのに
向ける先がないこと

愛する力があるのに
それを受け止める器が見つからないこと

それが寂しさなのだと思う


第二章
寂しさとは 行き場のない愛である


以前
私は寂しさを
行き場のない愛が滞留し
腐敗した姿だと考えた

今でも
この考えは間違っていないと思う

愛は流れるとき
世話になる
贈与になる
感謝になる
祈りになる
手入れになる
言葉になる

けれど
流れを失うと
愛は濁る

寂しさになる
未練になる
執着になる
支配になる
怒りになる
自己憐憫になる

だから寂しさを単に悪いものとして扱うと
少し違う

寂しさは
愛の失敗作ではない

愛がまだ残っている証拠である

ただし
その愛はまだ置き場所を見つけていない

だから苦しい

感謝は
その滞留した愛に流路を与える技法だった

すでに受け取ってきたものを思い出す
与えられてきたものを数える
まだ自分の中に残っている温度に気づく

感謝とは
失ったものではなく
受け取ったものの側から世界を見直すことだ

だから
寂しさが強いとき
感謝を書くことには意味がある

誰にも渡せない愛を
いったん言葉に移すことができるからだ

直接伝える相手がいなくても
紙に書くことはできる

メモアプリに残すことはできる

それは
愛に出口を与える行為である

しかし
今の私は
感謝だけでは足りないとも思う

寂しさは
ただ流せばよいものではない

どこから戻ってきた愛なのか
どこへ置き直すべき愛なのか
それを見なければならない

愛は
適当に流せばよいわけではない

置き場所を誤ると
人を傷つける

自分も傷つける

寂しさから誰かに近づくと
相手を愛しているのではなく
自分の空白を埋めさせているだけになることがある

寂しさから物を買うと
生活を整えるのではなく
空白を物で塞いでいるだけになることがある

寂しさから文章を書くと
思想ではなく
ただの叫びになることもある

だから必要なのは
愛の出口だけではない

愛の器である


第三章
人生とは 回収された力の再配置である


人は何かを失う

若さを失う
時間を失う
関係を失う
役割を失う
居場所を失う
誰かを失う
かつての自分を失う

だが
失ったものへ向かっていた力は
完全には消えない

それは自分の中へ戻ってくる

この戻ってきた力を
どこへ置くのか

そこに人生が現れる

喪失とは
対象が消えることだけではない

対象へ向かっていた力が
自己へ回収されることでもある

愛していたものを失うと
愛する力が戻ってくる

世話していたものを失うと
世話したい力が戻ってくる

怒りを向けていた相手を失うと
怒る力が戻ってくる

期待していた未来を失うと
期待する力が戻ってくる

だから喪失のあと
人は重くなる

空白ができたからではない

戻ってきた力が内側に溜まるからだ

その力を
どこへ置くのか

皿に置くのか
言葉に置くのか
仕事に置くのか
動物に置くのか
植物に置くのか
街を歩くことに置くのか
沈黙に置くのか
空白のまま抱えるのか

その配置に
人間が出る

再配置に成功した力は
生活になる
作品になる
責任になる
やさしさになる
美学になる
思想になる
静かな強さになる

再配置に失敗した力は
依存になる
浪費になる
支配になる
未練になる
怒りになる
停滞になる
他人への要求になる

だから
人生とは
回収された力の再配置である


第四章
愛には余力がある


愛には
人それぞれ総量のようなものがあるのだと思う

もちろん
それは数値で測れるものではない

けれど
人によって
愛する力の水量が違う

気にかけずにはいられない人がいる
世話せずにはいられない人がいる
覚えておかずにはいられない人がいる
何かを整えずにはいられない人がいる
誰かのための余白を作らずにはいられない人がいる

その人たちは
愛が多い

ただし
愛が多いことは
必ずしも楽なことではない

愛は対象を必要とするからだ

向ける先があるとき
愛はあたたかい

だが
向ける先を失ったとき
愛は自分の中で余る

この余りが
寂しさになる

人が人を愛せなくなったとき
物を愛することがある

動物を愛することがある

植物を育てることがある

墓を掃除することがある

部屋を整えることがある

皿を磨くことがある

街を歩くことがある

文章を書くことがある

これは
代替ではある

けれど
格下げではない

犬は人間の代わりではない

皿は恋人の代わりではない

花は子供の代わりではない

文章は会話の代わりではない

それぞれが
別の形式で愛を受け止める器になる

人間への愛は
返答を求めやすい

動物への愛は
世話と共在になりやすい

物への愛は
手入れと審美になりやすい

植物への愛は
待つことと観察になりやすい

街への愛は
歩行と記憶になりやすい

文章への愛は
意味の再配置になりやすい

つまり
対象によって愛の形は変わる

愛は一種類ではない

愛は
置かれる器によって
姿を変える


第五章
二客目とは 愛の余白である


一人暮らしなら
カップアンドソーサーは一客で足りる

それなのに
二客そろえたくなる

その二客目は何なのか

実用だけで考えれば
二客目は余分である

だが
生活は実用だけでできていない

一客目は
現在の自分のためにある

二客目は
可能性のためにある

誰かが来るかもしれない

誰かと同じ器で飲むかもしれない

誰かに出すかもしれない

誰かと同じ時間を分け合うかもしれない

その未来を
棚の中へ保存している

だから二客目は
単なる食器ではない

世界を一人分だけで閉じないための形式である

それは希望でもある

祈りでもある

未練でもある

寂しさでもある

まだ閉じたくないという保留でもある

この全部が
二客目に宿っている

二客の皿は
不在の誰かの席である

それは
今ここにいない誰かのために
部屋の中へ残された余白である

私は皿を集めていたつもりだった

けれど本当は
来るかもしれなかった未来のために
空席を保存していたのかもしれない

人は不在を
そのまま抱えることができない

だから場所にする

部屋にする
席にする
器にする
棚にする
写真にする
文章にする

そうやって
不在を形式に変える

二客のC&Sも
その形式だったのだと思う


第六章
分かることと 片づけることは別である


人は
頭では分かっていることを
すぐに生活へ変換できるわけではない

もう戻らないと分かっている

別の人生が進んでいることも分かっている

自分の判断が間違いではなかったことも分かっている

誰かを悪者にする必要がないことも分かっている

それでも
手は二客を選ぶことがある

理性は終わったと言っているのに
棚はまだ席を残していることがある

ここに人間の遅れがある

分かることと
片づけることは違う

分かるとは
認識の問題である

片づけるとは
時間の問題である

喪失は
頭の中だけに残るのではない

部屋に残る

棚に残る

皿の数に残る

使わないカップに残る

空けたままの席に残る

だから
片づけることは
ただの整理ではない

終わりを生活の中で引き受けることになる

二客をやめることは
蒐集方針の変更ではない

戻ってこない誰かの席を
現在の自分の生活へ返還することだ

一客へ移ることは
孤独に負けることではない

一人分の世界へ縮むことでもない

むしろ
不在の誰かのために残していた席を
今ここで生きている自分の席へ戻すことだ

それは忘却ではない

否定でもない

冷たさでもない

弔いである


第七章
一客とは 現在へ戻された愛である


二客は
愛を外へ開いておく器だった

一客は
愛を現在へ戻す器である

この対比は
かなり大きい

二客を持っていた頃
私は世界を一人分だけで閉じたくなかったのだと思う

誰かが来てもよいように

誰かと飲めるように

誰かの席があるように

そうやって
未来を完全には閉じないでいた

それは悪いことではない

むしろ
その時期には必要な形式だったのだと思う

喪失をすぐに現実へ変換できないとき
人は形式を必要とする

席を残す
部屋を残す
皿を二客そろえる

それは弱さだけではない

壊れないための時間稼ぎでもある

けれど
いつか
その席を片づける時が来る

誰かを忘れるためではない

その人がいた時間を消すためでもない

自分の生活を
現在へ戻すためである

一客とは
寂しい形ではない

一客とは
選び抜かれた現在の形である

誰かが来るかもしれないから二つ
ではなく

自分がここで生きるから一つ

この一つが
十分に立つなら
それでよい

もちろん
それでも少し寂しい

空席を片づけることは
きれいごとだけでは済まない

人は
誰かの不在に慣れるより先に
誰かの不在のための形式に慣れてしまうことがある

だから
その形式を手放すには時間がかかる

けれど
二客をやめることは
誰かを否定することではない

あの時間があったこと
好きだったこと
一度は未来を信じたこと

それは消えない

ただ
その席をずっと保存しておく必要がなくなるだけだ


第八章
感謝とは 愛を過去から受け取り直すことである


ここで
感謝の話に戻る

寂しさが
行き場のない愛だとするなら

感謝とは
その愛を過去から受け取り直すことである

失ったものだけを見ると
愛は欠如になる

だが
受け取ったものを見ると
愛は贈与になる

同じ過去でも
見る角度によって
寂しさにも感謝にもなる

これは
無理に前向きになることではない

失ったものを
なかったことにすることでもない

感謝とは
失われた関係の中にも
確かに受け取ったものがあったと認めることである

そして
それを今の自分の生活へ戻すことである

誰かと過ごした時間がある

誰かに教えられた感覚がある

誰かのために整えた生活がある

誰かを迎えるために選んだ器がある

そのすべては
たとえ関係が終わっても
完全には消えない

それは自分の中に残る

だから感謝とは
戻ってきた愛を
過去への執着ではなく
現在の生活の素材として受け取り直すことなのだと思う

感謝は
寂しさをすぐに消す魔法ではない

けれど
寂しさを腐らせないための換気口にはなる

愛を
未練ではなく
記憶へ

記憶を
停滞ではなく
生活へ

生活を
ただの反復ではなく
自分の形へ

そのための技法が
感謝なのだと思う


第九章
皿は 愛の証拠物件である


皿は
料理を置くものだ

けれど
それだけではない

皿には
生活の構えが出る

どんな皿を持つか
何客そろえるか
どれを残すか
どれを手放すか
どれを使うか
どれを飾るか

そこには
その人が世界をどう迎えたいかが出る

一客でよいのか

二客そろえたいのか

六客そろえて客を迎えたいのか

一枚の皿を大事に使いたいのか

シリーズで集めて秩序を作りたいのか

それは
単なる趣味ではない

生活の中で
愛や欲や寂しさや美意識を
どこに置くかの問題である

私にとって
二客の皿は
愛の余力が生活配置として現れたものだった

一客で足りるはずなのに
二客を持つ

それは
自分の生活を一人分だけで閉じないための形式だった

だが
今は少し変わってきた

一客でもよいと思えるようになった

それは
愛が減ったからではない

むしろ
二客目に預けていた愛を
現在の自分へ戻せるようになったからだと思う

一客とは
愛の縮小ではない

一客とは
回収された愛の再配置である


補章
愛を向ける相手にも速度がある


ここまで、寂しさを、行き場を失った愛として考えてきた

そして、その愛は、皿、文章、部屋、動物、植物、街、記憶へと再配置されることがある

だが、もう一つだけ考えておかなければならないことがある

それは、愛を再び人へ向けるとき、その相手は誰でもよいわけではない、ということだ

寂しさがあると、人は誰かを求める

愛が余っていると、人はその愛を誰かへ向けたくなる

けれど、余った愛をそのまま他者へ向けると、相手にとっては重さになることがある

こちらに悪意がなくても、相手の速度と合わなければ、その愛は接続ではなく圧になる

だから、愛には量だけでなく、接続作法が必要になる

誰かを愛せることと、誰かと共に生きられることは同じではない

誰かを大切に思うことと、その人の速度を壊さずに隣を歩けることも同じではない

ここで必要になるのが、共に歩ける速度という考え方である

孤独とは、一人でいることではない

共に歩ける速度の人間がいないことである

人に囲まれていても、速度が合わなければ孤独になる

逆に、一人でいても、自分の速度を失っていなければ、孤独ではないこともある

共に歩ける人とは、すぐに理解してくれる人ではない

むしろ、分かる前の時間を共有できる人である

まだ言葉にならないものを、急いで結論にしない人

違和感を、面倒くささとして潰さない人

沈黙を、失敗として埋めようとしない人

相手の問いを、自分の言葉で雑に回収しない人

そういう人である

愛を向ける相手に必要なのは、こちらの寂しさを埋めてくれることではない

こちらの余った愛を受け止めてくれることでもない

こちらの速度を壊さず、同時にこちらも相手の速度を壊さないことだ

ここで、二客の皿の意味も少し変わってくる

二客目は、不在の誰かの席だった

だが、その席に座れるのは、ただ誰かであればよいわけではない

本当は、共に歩ける速度の人間のための席だったのだと思う

ただ寂しいから誰かに座ってほしかったのではない

ただ一人が嫌だから二客を置いていたのでもない

自分の問いを壊さず、同じ時間の深さを共有できる誰かのために、席を残していたのだ

だから、一客へ移ることは、誰かを拒むことではない

誰でも座れる空席を保存するのをやめることである

そして、もし本当に共に歩ける速度の人間が現れたなら、そのときまた二客目を迎えればいい

過去の不在のための二客ではなく、未来の接続のための二客として

未練としての二客ではなく、礼節としての二客として

空白を埋めるための二客ではなく、共に歩ける速度が現れたときの二客として

愛には余力がある

けれど、その余力を誰にでも向けてよいわけではない

愛には、置き場所が必要である

そして、人へ向ける愛には、速度が必要である

孤独とは、愛の不在ではない

愛の置き場所と、共に歩ける速度の不在である


終わりに


寂しさとは
誰もいないことだけではない

誰にもわかってもらえないことだけでもない

自分の中に戻ってきた愛を
どこに置けばいいかわからないことでもある

愛は
向かう先があると
世話になる
感謝になる
手入れになる
言葉になる
生活になる

けれど
向かう先を失うと
寂しさになる

だから寂しさは
愛の不在ではない

愛がまだ残っている証拠である

問題は
その愛をどこへ置くかだ

人へ向けるのか
物へ向けるのか
動物へ向けるのか
植物へ向けるのか
街へ向けるのか
文章へ向けるのか
沈黙の中に置くのか
空白のまま抱えるのか

人生とは
回収された力の再配置である

そして
その中でも愛は
もっとも扱いが難しい力である

愛は
余る

余った愛は
寂しさになる

寂しさは
器を探す

その器が
皿になることがある

C&Sになることがある

二客目になることがある

不在の誰かの席になることがある

そしていつか
その席を片づける日が来る

それは
愛を捨てることではない

誰かを忘れることでもない

ただ
戻ってこない未来のために残していた席を
現在の自分の生活へ返すことだ

二客の皿は
不在の誰かの席だった

一客の皿は
今ここにいる自分の席である

その一客を
未完成とは思わなくていい

それは
孤独の記号ではない

回収された愛を
ようやく自分の生活へ戻した形なのだから


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