二客の皿は、不在の誰かの席である
前回記事
人生とは、回収された力の再配置である
一人暮らしなのに、なぜ私は二人用にこだわっていたのだろう。
来客用と言えば聞こえはいい。
実用だと言うこともできる。
けれど今にして思えば、本当はそんなに単純な話ではなかった。
あの二客は、皿ではなかったのだと思う。
不在の誰かのために、部屋の中へ残していた席だった。
子供を失った親が、子供部屋をすぐには片づけられないことがある。
いつ帰ってきてもよいように。
あるいは、もう帰ってこないと頭では分かっていても、部屋だけはそのままにしておきたいことがある。
それは物への執着だけではない。
家具への未練でもない。
部屋を片づけることが、ただの掃除ではなく、何かの終わりを引き受けることになってしまうからだ。
私は最近、その感覚に少し似たものが、二客の皿にも宿っていたのではないかと思うようになった。
私は長いあいだ、食器は二客あった方がよいと考えていた。一客だけではどこか落ち着かない。
どうせ集めるなら二つ。
そうしておけば、景色になる。
食卓になる。
生活になる。
そんなふうに思っていた。
当時の私は、その理由を美意識や実用の言葉で説明していた。たしかにそれも間違ってはいない。
二客あれば対になる。
対になれば空間は安定する。
揃っているものには、それだけで一つの完成感がある。
けれど、それだけではなかった。
本当は私は、誰かが戻ってくる可能性のために席を残していたのだと思う。
それは露骨な待機ではない。
今でも待っていると自覚していたわけでもない。
むしろ頭では、もう終わったことだと理解していた。
戻ってこないことも受け入れていたつもりだった。
だが人間は、理解したことをそのまま生活に変換できるとは限らない。
理性は終わったと言っていても、手はまだ二客を選んでいることがある。
心の奥で閉じていないものがあるとき、人はそれを言葉ではなく配置で表現する。
席を残す。
部屋を残す。
皿を二枚そろえる。
そうやって不在を形式に変える。
私は皿を集めていたつもりだった。
けれど実際には、来るかもしれなかった未来のために、世界の中へ空席を保存していたのかもしれない。
こう書くと少し大げさに見えるかもしれない。
だが人間は案外、こういう非合理な形式を通してしか喪失を扱えない。
人は不在をそのまま抱えることができない。だから場所にする。
部屋にする。
席にする。
器にする。
帰ってこないかもしれない人のために、空間の一部だけはまだ閉じないでおく。
そこにいてもよい余地を残しておく。
それは信仰にも似ている。
だが、帰ってくると本気で信じているわけでもない。
むしろその中間にある。戻らないかもしれない。
それでも、今すぐ片づけることはできない。
その曖昧な時間を生きるために、人は形式を必要とする。
私にとって二客の皿は、その形式だった。
一人暮らしの部屋に、二つのカップを置く。
二つの皿をそろえる。二つのセットで考える。
それは単に二人分の準備をしているのではない。
まだ完全には終わっていない未来を、棚の中へ保存しているのだ。
だから私は一客では終われなかったのだと思う。
不足が気になったわけではない。
半端だから嫌だったのでもない。
本当に嫌だったのは、最初から一人分だけで世界を閉じてしまうことだったのだろう。
一客で満足するということは、誰もいない現在をそのまま現在として認めることでもある。
二客にこだわることで、私はどこかでその認定を先延ばしにしていた。
だが最近になって、ようやく分かってきた。
片づけるとは、理解することではなく、引き受けることなのだ。
頭では前から分かっていた。
戻ってこない可能性も、もう別の人生が進んでいることも、十分に理解していた。
誰かを悪者にしたいわけでもない。自分のした判断を間違いだとも思っていない。
だから理屈の上では、ずっと受け入れていたはずだった。
それでも二客をやめられなかったのは、理解が足りなかったからではない。
理解していても、空席を片づける準備ができていなかったからだ。
この違いは大きいと思う。
人はよく、分かっているのに切り替えられない自分を弱さだと考える。
だが実際には、分かることと片づけることは別だ。
分かるとは認識の問題であり、片づけるとは時間の問題だからだ。
心には、事実を理解したあとで、それを生活へ落とし込むまでの遅れがある。
その遅れの中で、人は席を残す。
だから私は二客の皿を責める気になれない。
あれは未練の証拠というより、喪失をすぐに現実へ変換できなかった私の時間差そのものだったのだろう。
むしろ最近は、一客へ移ることの意味の方をよく考える。
一客にするとは、孤独に負けることなのだろうか。
前ならそう感じていたかもしれない。
一客しか持たないのは寂しいことだ。
諦めたみたいだ。
世界を縮めたみたいだ。
そう思っていた。
けれど今は少し違う。
一客にするとは、不在の誰かのために残していた席を、現在の自分の生活へ返還することなのだと思う。
それは敗北ではない。
忘却でもない。
冷たさでもない。
ただ、帰ってこない未来を、帰ってこないものとして静かに引き受けることだ。
いつまでも残していた空席を、自分のための席に戻すことだ。
このとき初めて、器は誰かを待つためのものではなく、自分の今を支えるものへ変わる。
それはかなり大きな転換だと思う。
二客をやめるというのは、数の問題ではない。蒐集方針の変更でもない。
もっと深いところでは、誰かの帰還に結びついていた世界の構えを、ようやく自分の現在に合わせ直すことなのだ。
私は最近、そのことに気づいた。
だからこれから先、もし一客しか持たない器が増えたとしても、それを未完成だとは思わないだろう。
むしろ、一人の生活に合わせて選び抜かれた形として見たいと思う。
誰かが来るかもしれないから二つ、ではなく、自分がここで生きるから一つ。
その一つが十分に立つなら、それでよいのだと思う。
もちろん、それでもまだ少し寂しい。
空席を片づけることは、きれいごとだけでは済まない。
人は、誰かの不在に慣れるより先に、誰かの不在のための形式に慣れてしまうことがある。
だから席を戻すには時間がかかる。
それでも、いつかはやらなければいけない。
子供部屋を片づけることが、子供を忘れることではないように。
二客をやめることも、誰かを否定することではない。
あの時間があったことも、その人を好きだったことも、その未来を一度は信じたことも、それ自体は消えない。
ただ、その席をずっと保存しておく必要はなくなるだけだ。
だから私は二客を手放していく。
足りないもう一客を諦めるのではない。
戻ってこない誰かの席を、ようやく片づけるのだ。
そうして初めて、器は過去の残像ではなく、現在の生活の道具になる。
二客の皿は、不在の誰かの席だった。
今はそう思っている。
そして、その席を片づけることもまた、ひとつの弔いなのだろう。
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