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報われないことと、浮かばれないことは違う

副題

結果の未払いと、意味の未決済のあいだ

序章|似ているようで、違う二つの言葉


「これでは努力が報われない」

「これでは、あの人が浮かばれない」

この二つの言葉は、どこか似ている。

どちらも、苦労や犠牲に見合うものが返っていない状態を表している。

頑張ったのに、結果が出なかった。
尽くしたのに、認められなかった。
耐えたのに、その苦労さえ忘れられた。

そこには共通して、何かが足りていない。

しかし、「報われない」と「浮かばれない」は、同じことを言っているわけではない。

報われなさが問うのは、

差し出したものに、何が返ってきたのか

ということである。

一方、浮かばれなさが問うのは、

その人の存在や苦労が、後の世界でどのように扱われたのか

ということである。

つまり、報われなさは結果の問題であり、浮かばれなさは意味の問題である。

ここでは「浮かばれる」を、成仏するという宗教的意味だけでなく、その人の存在や苦労が後の世界で受け取られることとして考える。

報われなさは行為と結果のあいだに生まれ、浮かばれなさは存在と記憶のあいだに生まれる。

第一章|報われなさは、本人の内側に生まれる


報われなさは、多くの場合、本人の内側から生まれる。

これだけ頑張ったのに。
これだけ愛したのに。
これだけ耐えたのに。
これだけ時間を使ったのに。

そこには、自分が差し出したものと、返ってきたものを比べる視線がある。

努力と成果。
愛情と応答。
犠牲と評価。
忍耐と幸福。

本人は、自分が何を失い、何を差し出したのかを知っている。

だからこそ、返ってきたものがあまりにも少ないとき、

自分は報われなかった

と感じる。

報われなさとは、行為と結果の不均衡である。

それは、単に失敗したということではない。

失敗しても、納得できることはある。
結果が出なくても、意味を感じられることはある。

しかし、自分が差し出したものに対して、あまりにも何も返ってこなかったとき、人は報われなさを感じる。

だから、報われなさは一人称に近い。

その中心には、

私は、これだけやったのに

という声がある。


第二章|浮かばれなさは、第三者の中に生まれる


一方、浮かばれなさは、本人ではなく第三者が感じることが多い。

「あれだけ尽くした人が、こんな扱いでは浮かばれない」

「こんな結末では、亡くなった人も浮かばれない」

「せめて、あの人の苦労だけは忘れてはいけない」

ここで語っているのは、本人ではない。

本人はすでに亡くなっているかもしれない。
その場を去っているかもしれない。
声を上げられない立場にいるかもしれない。

だから、本人の声が届かなくなった場所で、残された誰かが未決着を感じる。

この人の人生を、こんな終わり方のままにしてよいのか。

この人の苦労を、なかったことにしてよいのか。

この人が差し出したものを、誰も覚えないままでよいのか。

浮かばれなさとは、第三者が見つける未決着である。

それは同情だけではない。

むしろ、

このままでは、その人の存在や苦労が、受け取られないまま沈んでしまう。

という感覚に近い。

だから浮かばれなさは、残された者の良心から生まれる。


第三章|二つの言葉には、時間の差がある


報われなさと浮かばれなさには、時間の差もある。

報われなさは、比較的、出来事に近いところで生まれる。

努力した。
結果が出なかった。
評価されなかった。
だから、報われなかったと感じる。

この時点では、まだ本人の声がある。

本人は、自分が何をしたのかを知っている。
自分が何を失ったのかを語ることができる。

しかし、時間が経つと状況は変わる。

本人が去る。
世代が変わる。
当時を知る人が減る。
出来事が忘れられていく。

すると、問題は単なる結果の不足ではなくなる。

その人の名前そのものが沈んでいく。

苦労が歴史の背景に消えていく。

犠牲が最初から存在しなかったかのように扱われる。

このとき、本人の報われなさは、残された者にとっての浮かばれなさとして現れることがある。

生きているあいだは、

私は報われなかった

という問題だったものが、

時間が経つにつれて、

このままでは、あの人が浮かばれない

という問題になる。

つまり、

報われなさは、行為と結果のあいだに残る未払いであり、
浮かばれなさは、存在と記憶のあいだに残る未決済である。

報われなさは本人によって感じられることが多く、
浮かばれなさは本人の声が届かなくなった場所で、第三者によって発見されることが多い。

二つは別の言葉でありながら、時間の中ではつながっている。

本人の報われなさは、時間の中に放置されると、残された者にとっての浮かばれなさとして発見されることがある。

第四章|浮かばれるとは、名前が残ることではない


では、名前さえ残れば、人は浮かばれるのだろうか。

必ずしもそうではない。

名前は記録されていても、その人の意図や苦労が歪められていることはある。

功績だけが利用される。
犠牲だけが美談に変えられる。
本人の迷いや痛みが消される。
都合のよい人物像だけが残される。

それでは、その人は本当に浮かばれたとは言えない。

反対に、名前は忘れられていても、その人が残したものが誰かに受け継がれていることもある。

無名の誰かが作った道具。
名も残らない人が守った習慣。
家族の中だけに残る言葉。
次の世代に渡された生き方。

その人の名前は沈んでいても、その人が世界に与えたものは残っている。

だから、浮かばれるとは、単に有名になることではない。

それは、

その人の存在が、後の世界の中に置き直されること

である。

何をした人だったのか。
何を耐えた人だったのか。
何を守ろうとした人だったのか。

それが誰かによって思い出され、受け取り直されたとき、その人は完全には沈まずに済む。


第五章|報われることと、浮かばれることの四つの組み合わせ

報われることと浮かばれることは別の軸であり、どちらか一方だけが成立することもある。

報われることと、浮かばれることは一致しない。

この二つを分けて考えると、人の生き方には少なくとも四つの状態があることがわかる。

第一は、報われ、浮かばれる人である。

努力が成果につながり、その人の存在や功績も正しく受け取られる。

本人も結果を受け取り、後の人もその意味を受け取る。

これは、結果と意味の両方が受け取られた状態である。

第二は、報われたが、浮かばれない人である。

生きているあいだには成果を得た。

評価も受けた。

生活も安定した。

本人自身も、自分の仕事が実ったと感じていた。

しかし、時間が経つにつれて、その人が何を考え、何を守ろうとしていたのかは失われていった。

作品や制度だけが残り、本人は都合のよい象徴へ変えられていった。

第三は、報われなかったが、浮かばれる人である。

生きているあいだには評価されなかった。
夢も叶わなかった。
本人が受け取るべき成果は返ってこなかった。

それでも、後の誰かがその人の試みを受け取る。

その人の言葉が別の時代に届く。
その失敗が、次の人の道を開く。
その生き方が、誰かの中に残る。

本人は報われなかった。

しかし、その存在は完全には沈まなかった。

第四は、報われず、浮かばれない人である。

結果も返らない。
意味も受け取られない。
名前も残らない。
誰にも思い出されない。

その人が何を差し出したのかさえ、世界の中から失われていく。

おそらく、人が最も恐れるのは単なる失敗ではない。

自分が差し出したものに何も返らず、さらに、その事実さえ誰にも知られないことである。

報われなさは、結果を失うことである。

浮かばれなさは、その喪失そのものまで失われることである。

報いは、結果が返ること。

浮かばれるとは、意味が受け取られること。


第六章|人は、自分の人生を一人では残しきれない


ここまで考えると、ひとつの厳しい事実が見えてくる。

人は、自分の人生に意味を与えることはできても、その意味を一人で後の世界に残しきることはできない。

どれほど努力しても、報われないことはある。

どれほど言葉を尽くしても、理解されないことはある。

どれほど誠実に生きても、その意味が届かないまま終わることはある。

本人は、自分の人生に自分なりの意味を与えることができる。

しかし、その意味が本人の死後や不在の後にも世界の中に残るかどうかは、本人だけでは決められない。

その人が何をしていたのか。
何を守ろうとしていたのか。
何を差し出していたのか。

その意味が本人の不在の後にも世界の中に残るためには、それを受け取る第三者が必要になる。

本人が受け取れなかった報いを、後から返すことはできない。

しかし、その人が何を差し出していたのか、その意味を後の誰かが受け取ることはできる。

このとき、報われなさそのものが消えるわけではない。

失われた時間は戻らない。

叶わなかった願いは叶わない。

本人が生前に受け取れなかったものを、完全に返すことはできない。

それでも、

あなたのしていたことは、何もなかったことにはならない

と誰かが言うことはできる。

その言葉によって、失われた結果が戻るわけではない。

しかし、沈みかけた存在が、再び意識の表面へ浮かび上がることはある。


第七章|「浮かばれない」と語る第三者の危うさ


ただし、ここには注意も必要である。

「これでは、あの人が浮かばれない」

この言葉は、残された者の良心から生まれる。

しかし同時に、第三者が本人の人生を勝手に解釈する言葉にもなりうる。

本人は、自分の人生に納得していたかもしれない。

結果は出なかったとしても、それでよかったと思っていたかもしれない。

誰にも評価されなくても、自分が守りたかったものを守れたと感じていたかもしれない。

それにもかかわらず、第三者が、

あの人はかわいそうだった。
あの人生は報われなかった。
あのままでは浮かばれない。

と語れば、本人の納得を後から奪うことになる。

浮かばせようとする行為が、別の意味で本人を沈めることもある。

本人の声よりも、残された者の正義が前に出てしまうからである。

だから、誰かを浮かばせるとは、本人に代わって意味を決めることではない。

本人が何を大切にしていたのか。
何を望んでいたのか。
何を失い、それでも何を選んだのか。

それを、できる限り本人の側から受け取り直すことである。

第三者にできるのは、その人の人生を完成させることではない。

まして、本人に代わって幸福や不幸を判定することでもない。

ただ、

この人は確かにここにいた。
この人には、この人なりの理由があった。
この人が差し出したものを、簡単になかったことにはしない。

と証言することである。

浮かばせるとは、他者の人生を所有することではない。

その人の人生を、自分の物語に回収せず、その人のものとして記憶することである。

他者をそのまま受け取ることはできない。

できるのは、理解しきれない部分を消さずに残すことだけなのかもしれない。

記憶することは、他者の人生を自分の物語へ取り込むことではない。他者を他者のまま残すことである。

終章|報いは返せなくても、意味は受け取れる

報われなさは、行為と結果のあいだに残る未払いである。

浮かばれなさは、存在と記憶のあいだに残る未決済である。

報われなさは、多くの場合、本人の痛みとして現れる。

浮かばれなさは、本人の声が届かなくなった場所で、第三者の良心によって発見されることが多い。

そして、本人の報われなさが時間の中に放置され、本人の声が届かなくなったとき、それは残された者にとっての浮かばれなさとして発見されることがある。

人は、生きているあいだにすべてを受け取れるわけではない。

努力も、愛情も、犠牲も、必ずしも本人へ返るとは限らない。

本人に返せなかったものを、後の誰かが代わりに受け取ることはできない。

けれど、その人が何を差し出していたのかを、後から受け取り直すことはできる。

結果として返すことはできなくても、その存在をなかったことにしないことはできる。

だから、誰かを浮かばせるとは、過去を美化することではない。

その人の人生を代わりに完成させることでもない。

その人を自分の都合のよい物語へ回収せず、その存在をなかったことにしないことである。


最終命題

報われなさは、行為と結果のあいだに残る未払いである。

浮かばれなさは、存在と記憶のあいだに残る未決済である。

報われなさは本人によって感じられることが多い。

浮かばれなさは、本人の声が届かなくなった場所で、第三者によって発見されることが多い。

ただし、他者を浮かばせるとは、その人の人生を代わりに完成させることではない。

その人が確かに存在したことを、自分の都合のよい物語へ回収せずに受け取ることである。


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