東京百鬼夜行 第百二十一話 『ぬりかべ 』
深夜一時。
新宿の雑踏がようやく静まりはじめ、
ネオンの光が、まるで色褪せた夢のかけらのように街路へ落ちていた。
終電を逃した会社員たちが、ため息混じりにタクシーを探している。
その中に、一人の女性がいた。
彼女の表情は、疲労というより“心の迷子”の色をしていた。
故郷の母が倒れ、介護の負担は自分ひとり。
会社も休めない。
同僚には言えない。
強がるたびに、胸の奥で何かが崩れていく。
「どうしたらいいんだろう……」
呟いた声は、夜の街に吸い込まれる。
その瞬間だった。
彼女の前に——
ぬりかべが、ふいに“現れた”。
だがそれは、昔話に語られるような恐ろしい壁ではない。
まるで“夜の空気がゆっくり硬くなって形を取った”ような、
やわらかく光る半透明の壁だった。
行く手をふさぐように立ちはだかっているのに、
なぜか不思議な温かさがあった。
「……通れない、ってこと?」
女性がため息をつくと、
ぬりかべは静かに光を濃くした。
まるで——
『その道は今、進まなくていい』
と言っているかのように。
彼女は足を止める。
その瞬間、背後から酔った男たちの笑い声が近づいた。
フラフラした足取りで歩いていた彼らは、
通路をまっすぐこちらへ向かってきていた。
女性がそのまま歩いていたら、
ぶつかられていたかもしれない。
だが、ぬりかべのおかげで、
彼女はわずかに位置をずらし、
危険を避けることができた。
男たちは気づかぬまま通りすぎる。
ぬりかべの身体がほんのりと光り、
それはまるで
「よかったな」
と微笑むようにも見えた。
女性は思わず壁に触れたが、
その手はすり抜けた。
けれど、不思議と温度だけが指先に残る。
冷たさではない。
——“大丈夫だ”という、静かなぬくもり。
「ありがとう……」
そう呟いた瞬間、
ぬりかべはゆっくりと薄まり、
ビルの影に溶けるように消えていった。
そこに残ったのは、
都会の夜に似つかわしくないほどの、
ほっとする余韻だけ。
彼女は深呼吸をひとつし、
タクシー乗り場へ歩き出す。
さっきまで誰にも届かなかった弱さが、
ほんの少しだけ軽くなっていた。
⸻
行き止まりに見える場所で、
足を止めさせてくれる存在がいる。
その一瞬の“立ち止まり”が、
迷いをほどき、命を守ることもある。
東京には今日も、
見えない壁が静かに寄り添っている。
