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黒の、まだ知らない顔


黒を、普通には着ない。


布の揺らぎ、動き、形。



そこにこだわって初めて、
私にとっての黒になる。

ある一着をまとった瞬間、
身体全体が引き締まって見えた。


肩パッドのない、
一枚仕立ての柔らかなラインのロングジャケット。

それが、私の体幹の存在を浮き彫りにする。


肌の色の冴え。

マットな黒とのコントラスト。


肌が発光するように白く浮き、
今まで知らなかった透明感が引き出される。

余分な装飾を削ぎ落としたライン。

首筋からデコルテにかけての重心がすっと上がる。

それは、無理に背筋を伸ばすのとは違う。

肺に深く空気が入り、
自分の中心が正しい位置に収まるような、
心地よい緊張感。

佇まいそのものが静かに締まっていく。

派手なことは何もしていない。
ただ、黒を正しく着ただけなのに。

最初は、物足りなかった。

何かが足りない気がして、
アクセサリーに手が伸びた。

でも、そこで止まった。

その一着の素材は、
驚くほど柔らかい。

動くたびに揺れて、
でもシワが一切入らない。

肌の上で滑らかに、
静かに、ただそこにある。

かつてのレザーブルゾンが、
私を外側から型にはめたのなら、
この一着は私を内側から解き放つ。

触れて初めて、
そこに布があることに気づくほどの軽やかさ。

素材がマットに光を吸い込み、
黒に深みを与える。

布そのものが私の体温を吸って、
第二の肌へと変わっていく。

重くない。
主張しない。
それなのに、存在している。

そのとき気づいた。

黒は、足し算の色じゃない。


何かを加えるのではなく、
余分なものを消していく色。

だから誤魔化しが利かない。

着る人間の在り方が、
そのまま表面に出てくる。

若い頃の黒は、武装だった。


強く見せるための黒。
存在感を補強するための黒。

でも今は違う。

黒をまとうとき、
私は静かになろうとしている。

騒がない、主張もしない。
それでも、ここにいる。

黒は、態度だと思っている。

黒は謙虚で、傲慢。
怠惰で、神秘的。

矛盾しているのに、
成立している。


語らないのに、雄弁な黒。

その在り方に惹かれてきたのは、
たぶん自分もそうありたかったからだと、
今は思っている。

同じ黒でも、
布が違えば、別の顔をする。

光を吸う黒。
光をまとう黒。
動くたびに揺らぐ黒。

どれが正解ということはない。
ただ、今の自分に響くものが、
確かに変わってきた。

黒の、まだ知らない顔がある。

絶対的な静寂を知った今なら、
いつか手に取る色も、
今までとは違う表情を見せてくれる気がする。


そう気づいたのは、
鏡の前で少し驚いた、
あの瞬間からだった。




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