テクニウム テクノロジーはどこに向かうのか? / ケヴィン・ケリー / 雑誌WIREDのケヴィン・ケリーさんの代表作 / テクノロジーの進化論 /人生最後の本棚
Amazonアソシエイトに参加しています。
【人生最後の本棚】
まずはこの本に出会えたことに感謝です。筆者の方のご迷惑になりませんように。
おじさんがnoteを始めるに当たってメンズファッションのことを書こうと思い、ファッション関連の本を読んでみました。しかし、ファッション本を読むだけではカッコよくなれないといつも思います。中身が空っぽではカッコよくないのです。結局、いつも中身からカッコよくなるにはそれなりに本をきちんと読んでおかなければという結論に達します。昔からのものも含め、おじさんのお気に入りの本です。
テクニウム テクノロジーはどこに向かうのか? / ケヴィン・ケリー
ケヴィン・ケリーさんの本は2冊目です。前回の「〈インターネット〉の次に来るもの」が2016年刊でしたが、その2年前の2014年刊です(本国では2010年)。あまりに「〈インターネット〉の次に来るもの」が面白かったため過去に遡るかたちになりました。
「テクニウム」とは
今回は「テクニウム」という本です。聞いたことのない言葉です。テクニウムとはケヴィンさんの造語で、あらゆるテクノロジーの総称としています。
テクノロジーを体系的に捉え、テクニウムの振る舞いが生物の進化の振る舞いと似ていることを示しています。そしてそれがどういうものなのかを考えています。
テクニウムと生物の違いは絶滅の有無ということです。テクニウムは当たり前ですが絶滅しません。活版印刷も蒸気機関も電気もモーターも僕たちを取り巻くテクノロジーはすべてテクニウムのひとつです。
テクニウムは自己強化、生成をしていくのでコントロールすることは難しく進化を止められません。なのでテクニウムがどのように進化していくのかも予想は難しいということです。しかも進化による進化をするので最近は進化の速度が加速度をつけて早まっているようです。テクニウムに対して僕たちがどのように対処するべきなのかを考えています。
説明足らずですみません
「テクニウム」の言葉の説明は、僕以外の方々のご説明がお見事なので他の本の紹介のウェブのページやnoteを含む記事を見ていただいた方がいいかと思います。お話が大き過ぎて一言では解説出来ません。
ウルトラセブンのビデオシーバー
テクノロジーの一例です。僕たちが子供の頃夢見ていたウルトラセブンのウルトラ警備隊のビデオシーバー(テレビ電話)がいつのまにか実現しているとどこかで書きましたが、ケヴィンさんに言わせると、みんなが夢のアイテムだと期待していたこの腕時計型テレビ電話は、世界を席巻したとは言えず、僕たちがスカイプやFACE TIMEを決して常用しないように、テレビ電話のテクノロジーの進化は頭打ちになっているということです。つまりこのテレビ電話のテクノロジーの進化は行き詰まっているということです。
技術やデバイスは十分に整っていても普及するかどうかは別問題ということです。確かにそうですし、なぜ使わないのかと聞かれても「なんとなく」としか答えられません。個々のテクノロジーはそういう僕たちの想像がつかない進化の過程を辿って今の状況になっているということだと思います。
テクニウムの行方
爆発的に普及して世界を席巻したものにに「スマホ」や「インターネット」が挙げられます。もう誰にもその進化と広がりは止められない状況だと思います。とはいっても、これらのテクノロジーも将来にはいつか落ち着き始め、進化の勢いは落ちて行くものだということです。
ケヴィンさんによるとテクノロジーは最終的には進化の最終形として無形のものに進むとのことで、テクニウムの行方は、例えば産業では第一次産業から第三次産業に向かって、サービスという無形のものに向かって進んで行き、最後は無形のものとなるそうです。自然の法則の通りにあらゆるものは無に帰するというお話でした。
最近のAIのお話もそれに含まれますが僕たち人間が現在身体を使って運転したり、仕事したりという物事でも、いつかはAIとロボットによる自動化が進んでいくのだと思います。
僕たちには今やモーターというものが見えていないという例があります。あらゆる機械や車、スマホの中で動いているモーターを僕たちはあまり意識しておらず、直接見ることも少ないと思います。(車のエンジンもほぼブラックボックスですし…。)現実的には無形化した訳ではありませんし色々なデバイスの中で中心的役割を果たしていますが僕たちが直接見たり触ったりという機会はほとんど限られていると思います。
スマホやビデオシーバーもいつかは極小になり、イヤホンのようになって行くかもしれません。サイズも最小化して僕たちの身体の中に埋め込まれて、喋らずとも直接脳内の信号で会話するものになる可能性すらあります。それとも危険視され、規制され、人間が扱えるサイズに留まるのかもしれません。誰にも決められない進化の道のりです。
僕たちが最後まで手に持って行く道具やテクノロジーとは一体なんなのだろうと思います。ケヴィンさんはアートなども結局はテクニウムに含まれると言っています。
「愛情」とか「善意」など人間の心の内面はいつも本能に従っているのか、それとも環境に左右されるのかといった「人間の心」がどう振る舞うのかという人類の最大のテーマもいつかはテクノロジーに取り込まれるようになるのでしょうか、今は想像もつきません。
真実も結局は僕たちが定義している
僕自身、最後の方は残念ながら僕の脳みそがオーバーヒート気味で読みきれない部分もありました。
最後の部分に、真実とは何かを考える文章があり、真実であることさえ人間たちが決めたルールに従って定義されているということです。科学的な真実も実は人類の知識の集積であり、実は移ろって行くものであるなんて驚きです。
『テクニウム』を超えて
前回も書きましたがケヴィン・ケリーさんはどちらかというと文系目線であり今回の本でも内容はガチガチのら理論書というわけでもありません。数式で世の中を示している部分もわずかです。相変わらず自由な60年代の西海岸のヒッピー然としているところがとても興味深い方だと思います。
ケヴィンさんの持っている「自由な精神」というものか考え方を受け取れた気がします。
世界の謎を解く科学は本来ジャンルはないのではと思います。
読んでいただきありがとうございます。
