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大星百貨店跡地❺ 余燼【創作大賞2026・ミステリー小説部門】


【第四部 URL】


【第五部】 余燼ヨジン


第十九章 猛煙


 地下三階は、一瞬で赤く染まった。

 白い幕の裾が、ふわりと赤く透けた。

 次の瞬間、炎は布の内側を走り、天井へ向かって一気にめくれ上がった。

「花瓶だ!! 水をかけろ!!」

 誰かが叫んだ。

 だが、その声はすぐに咳に変わった。

 ガソリンを吸った床は、まるで息をするように燃え広がっていく。

 白い服に火が移り、逃げようとした信者たちが互いの袖を掴み、引き倒し合う。

 祈りの声は、もうどこにもなかった。

 さっきまで琴音の写真を踏んでいた足が、今度は逃げ場を探して床を滑る。

 誰かが壁を叩く。

 花瓶が割れる。

 エレベーター付近は炎に囲まれて、誰にも近付くことは出来なかった。

 黒煙は、天井に溜まるだけではなかった。

 まるで、部屋そのものが闇へと沈んでいくように、少しずつ、確実に、人の顔の高さまで降りてきた。

「熱い……熱い……」

「息が……」

「誰か……」

 ひとり、またひとりと、白い服の人影が崩れ落ちていく。

 その中で、静江は薄れゆく意識の中、黒煙の向こうを見つめていた。

「……ご……めん……なさい……」

 それが、静江の最期の言葉だった。


 その頃、葉月はA7エレベーターの中で膝を抱えていた。

 身体の震えが止まらない。

 手には、まだマッチを擦った感触が残っている。

 白い部屋が赤く染まる瞬間。

 静江と目が合った瞬間。

 すべてが、何度も何度も頭の中で繰り返される。

「……琴音……」

 葉月は小さく呟いた。

 返さなきゃ。

 琴音を、ちゃんと返さなきゃ。

 そのために来たのに。

 そのために、ここまで来たのに。

 エレベーターは上昇を続ける。

 地下二階。

 地下一階。

 一階。

 扉が開いた。

 葉月は、這うようにして外へ出た。

 エレベーター前の床に倒れ込む。



ーーどのくらい経過したか分からない。

 隣で誰かが叫んだ。

「大丈夫ですか!!」

 強い力で肩を叩かれる。

ーーここはどこだろう……息が苦しい……

 葉月は目を開けようとした。

 けれど、もう瞼を持ち上げる力がなかった。

ーーはっ…琴音…

 「……こ……とね……」

 葉月は、今にも消えそうな細い声でそう呟いた後、救急隊の担架の上で気を失った。



第二十章 灼熱


 地下二階、電気室。

 煙は、もう壁の色が分からないほど濃くなっていた。

「見えない……っ」

 電気係の若い男が咳き込んだ。

 喉が焼ける。

 目が痛い。

 姿勢を低くしても、煙が顔にまとわりついてくる。

「火元どこだ!!」

 上司の怒鳴り声も、煙に吸われるみたいに遠かった。

 換気口から、ごう、ごう、と異様な音がしている。

 まるで建物そのものが呼吸しているみたいだった。


 それと時を同じくして、

 ボッーー

 東階段脇に積まれていた包装紙材へ、火が走った。

 一瞬だった。

 乾いた紙は爆ぜるように燃え上がり、炎が天井へ這い上がる。

 黒煙が誰も居ない階段を駆け上がっていく。


 *

 七階。

「押さないでください!!」
「階段はこちらです!!」

 柏木や警察官による、避難誘導の声が飛び交っていた。

 だが、客たちはまだ半信半疑だった。

 エレベーター前には人だかりができている。

 停止中の扉を、誰かが何度も叩いた。

「なんで開かないの!?」
「早くして!!」

 その頭上。

 換気口から、ゆっくり黒煙が漏れ始めていた。

 店員が顔色を変える。

「……え。」

 煙は、秒ごとに濃くなる。

 天井照明が黒く滲み始めた。

 誰かが咳き込んだ。

 また一人。

 また一人。

 人の流れが、少しずつ速くなる。

 その時だった。


 ーーバチン!!!


 突然だった。

 館内の照明が、一斉に落ちた。

 眩しいほど明るかった百貨店が、一瞬のうちに闇へ沈んだ。

「ーーきゃああああっ!!」

 誰かの悲鳴が、暗闇を切り裂いた。

 次の瞬間、あちこちで連鎖する。

「うわっ!!」
「押すな!!」
「子どもが!! 子どもがいる!!」

 館内は完全な混乱に呑まれた。

 窓の少ない大星百貨店は、停電と同時に真っ暗になった。

 非常灯だけが、赤黒く床を照らしている。

 だが、その光すら煙に喰われ始めていた。

 黒煙が、天井からゆっくり降りてくる。

 まるで巨大な生き物みたいに。

「ゲホッ!!」
「煙……っ」
「息できない……!」

 人々は口元を押さえながら階段へ殺到した。

 下へ。

 とにかく下へ。

 だが、階段には、逆に煙が登ってきている。

「待って!! こっち煙が!!」
「戻れ!!」
「押すなって言ってるだろ!!」

 誰かが転んだ。

 その上に、次の人間が倒れる。

「痛い!!」
「助けて!!」
「足!! 足が!!」

 泣き叫ぶ子どもの声。

「ママー!!!」

「みゆちゃん!? みゆちゃんどこ!?!?」

 母親の絶叫。

 煙の中で、人影同士がぶつかり合う。

 誰が誰なのかもう分からない。

 誰かの肘。

 誰かの肩。

 汗。

 咳。

 熱気。

 泣き声。

 怒鳴り声。

 館内放送はまだ流れていた。

『お客様は落ち着いてーー』

 そこで音声が途切れる。

 ーーザザッ。

 ノイズ。

 再び沈黙。

 その沈黙が、余計に人々を怯えさせた。

 五階。

 煙は、もう床近くまで降り始めていた。

 非常灯の赤い光の中を、大勢の人間が折り重なるように逃げ惑っている。

 店員が叫ぶ。

「姿勢を低くして!! ハンカチで口を押さえて!!」

 だが、誰も聞いていない。

 聞こえていない。

 煙で視界は数メートル先すら見えなかった。

 エスカレーター前では、人の流れが完全に止まっていた。

「進んで!!」
「前が詰まってるんだよ!!」

 怒号。

 悲鳴。

 咳。

 その時。

 六階の階段付近で、赤い光が揺れた。

「火……」

 誰かが呟いた。

 次の瞬間。

「火だああああああ!!!」

 絶叫が響く。

 群衆が、一斉に崩れた。

 逃げる方向も分からないまま、人が人を押し潰す。

 紙袋が飛び散る。

 靴が脱げる。

 転んだ子どもが泣き叫ぶ。

 その上を、大人たちの足が雪崩みたいに通り過ぎていった。



『中央隊より本部!! 煙急激に拡大!! 避難追いつきません!!』

『南階段、煙侵入!! 上階に逃げ遅れ多数!!』

『救急隊追加要請!! 追加要請!!』

 無線が怒鳴り声みたいに飛び交う。

 消防隊員たちは、黒煙の中へ次々に突入していく。

 だが。

 火元が分からない。

 煙だけが、異常な速度で建物を喰っていく。

「なんなんだこの煙……」

 隊長は顔を上げた。

 七階天井付近。

 換気口から、真っ黒な煙が滝みたいに噴き出していた。

 その瞬間。

 どこか遠くで。

 ガラスが爆ぜるような音が響いた。



第二十一章 赤い光


 遠くから、何台ものサイレンの音が聞こえてきた。

 ーーウゥゥゥゥゥン……

 琴音は、布団の中でゆっくり目を開けた。

 窓の外が、赤く点滅している。

 最初は、救急車かと思った。

 だが、音は遠ざからない。

 むしろ、どんどん増えていく。

 ーーウゥゥゥゥゥン!!

 ーーカンカンカンカン!!

 狭いアパートの窓ガラスが、微かに震えていた。

「……なに……?」

 琴音は身体を起こした。

 机の上には、葉月が用意してくれた朝ごはんの皿が残っている。

 畳の上には、昨日もらったギンガムチェックのワンピースが、丁寧に畳んで置かれていた。

 葉月お姉さん。

 まだ帰ってきてない。

 琴音は胸の奥がざわざわするのを感じた。

 外から、大人たちの声が聞こえる。

「煙!! 煙見えとる!!」

「やばいぞ!! 大星だ!!」

 琴音は玄関に走った。

 外側の南京錠は、かかっていなかった。

 扉を開けると、冷たい風が頬に当たった。

 近所の人たちが、皆同じ方向を見上げている。

 赤色灯が、陽の落ちかけた街を何度も染めていた。

 琴音もつられるように顔を上げる。

 遠く。

 冬の空へ向かって、真っ黒な煙が立ち昇っていた。

 その中心にあったのは、大星百貨店だった。

「……葉月お姉さん……」

 琴音は、裸足のまま革靴を履いた。

 上着も持たずに、階段を駆け下りた。



第二十二章 余光


 はっ、はっ、はっーー。

 琴音は走った。

 冷たい空気が喉に刺さる。

 肩で息をしながら、それでも足を止めなかった。

 横断歩道を渡る。

 赤信号になりかけた道路を、車のクラクションに驚きながらも駆け抜ける。

 息が苦しい。

 胸が痛い。

 でも走る。

 転びそうになりながら、何度も前へ踏み出す。

 白い息が、後ろへ千切れていく。

 街はもう夕方だった。

 クリスマス前の天神。

 イルミネーションが灯り始め、人々は笑いながらすれ違っていく。

 紙袋を抱えた恋人たち。

 仕事帰りの会社員。

 誰も、少女が、泣きながら走っている理由なんて知らない。

「葉月お姉さん……」

 呼んでも、返事はない。

 それでも琴音は走った。

 あの人を、一人にしてはいけない気がした。

 置いて行ったら、もう二度と会えない気がした。

 大星百貨店の赤い看板が見えた瞬間、琴音はさらに速度を上げた。

 足がもつれそうになる。

 視界が滲む。

 それでも。

 それでも、走った。

 大星百貨店の前は、人で溢れていた。

 消防車。

 救急車。

 赤色灯。

 泣いている子ども。

 口元にハンカチを当てたまま咳き込む客。

 館内から避難してきた人々が、歩道の上に固まっていた。

「押さないでください!」
「こちらへ離れて!」
「まだ中に人がいます!」

 琴音は人混みの隙間を縫って走り続けた。

 大星百貨店の上の方から、黒い煙が流れている。

 葉月お姉さんは。

 葉月お姉さんは、どこ。

 その時、担架に乗せられた女性が、救急隊員に運ばれてきた。

 痩せた身体。

 青白い顔。

 黒く煤けた服。

 琴音は息を呑んだ。

「葉月お姉さん!!」

 叫んだ声は、サイレンにかき消された。

 琴音は担架へ駆け寄ろうとした。

 だが、人の波に押されて近づけない。

「危ないから下がって!」

「君、ひとり? お父さんかお母さんは?」

 近くの店員が琴音の肩を掴んだ。

 その時、葉月の手が、担架の端から力なく落ちた。

「葉月お姉さん……!」

 その時だった。

 女性の顔がわずかにこちらを向いた。

 知らない人だった。

 年齢も違う。

 葉月ではない。

 琴音は一瞬だけ立ち尽くした。

 胸の奥が、ひゅんと冷たくなる。

 もしかして……。

 琴音は煙がゴウゴウと立つ大星百貨店に顔を向けた。 

 11歳の子どもに分かるはずがなかった。

 火事がどれだけ危険か。

 煙がどれだけ速く命を奪うか。

 大人たちの怒鳴り声も、消防車のサイレンも、琴音には遠く聞こえていた。

「葉月お姉さんが……」

 琴音は小さく呟いた。

「葉月お姉さんが、まだ……」

 その時、

 避難誘導を終えた柏木が、正面玄関から外へ出てきた。

 スーツは煤で汚れ、喉は煙で焼けるように痛む。

 柏木は激しく咳き込みながら、沢山の人で埋め尽くされた歩道へ目を向けた。

 人混みの中を、すり抜けるように小柄な少女が走っていく。

 誰かを探しているようだった。

 だがその直後、担架を運ぶ救急隊員が視界を遮る。

「道を開けてください!」

 柏木は反射的に、そちらに目を向けた。

 もう一度歩道を見た時、少女の姿はもうなかった。

 その代わり、先ほど別れたばかりの高瀬夫婦と目が合った。

「た、高瀬さん、ご無事でしたか!」

「柏木さん! 大丈夫ですか、服が真っ黒ですよ。」

「ええ、なんとか。」

 その会話の向こう、

 少女が遠ざかっていくことに、誰も気づかなかった。

「え、子ども!?」

 店員が振り返った一瞬。

 琴音はその手をすり抜けた。

「ちょっと! 待ちなさい!」

 声が背中に飛んできた。

 琴音は振り返らなかった。

 人の流れに逆らうように、正面玄関へ走った。



第二十三章 六階


 中は、この間来た時とは別の建物みたいだった。

 非常灯だけが、赤く床を照らしている。

 館内放送が、途中で途切れながら流れていた。

『お客様は……係員の指示に……従い……』

 煙の匂いがした。

 琴音は咳き込んだ。

 ハンカチなんて持っていない。

 袖で口元を押さえながら、いつものエスカレーターを探した。

 葉月お姉さんは、あの服屋さんにいるかもしれない。

 そう思った。

 あの日、初めて会った場所。

 葉月が笑ってくれた場所。

 琴音が、少しだけ大人になれた気がした場所。

 六階。

 子ども服売り場。

 エスカレーターは停電のせいで停止していた。

 上の階に行くにつれ、煙は濃くなった。

 足が重い。

 胸が苦しい。

 それでも琴音は上へ向かった。

 六階のフロアに着くと、そこには誰もいなかった。

 床には、落ちたハンガー。

 倒れたマネキン。

 焦げたクリスマスリボン。

 ついさっきまで明るかった売り場は、灰色の煙に包まれていた。

「葉月お姉さん……?」

 声は小さく掠れた。

 返事はない。

 琴音は、あの日の店へ向かった。

 試着室のカーテンが、半分だけ開いている。

 鏡は煙で曇っていた。

 床には、白いカーディガンが落ちていた。

 琴音はそれを拾おうとして、膝をついた。

 息が苦しい。

 目が痛い。

 喉が焼けるみたいだった。

 もう一歩だけ。

 もう少しだけ。

 葉月お姉さんに、ありがとうって言わなきゃ。

 葉月お姉さんは、悪い人じゃないって言わなきゃ。

 お母さんにも、お父さんにも、ちゃんと話さなきゃ。

 琴音は床に手をついた。

 遠くで、誰かが自分の名前を呼んだ気がした。

 香苗の声だったのか。

 葉月の声だったのか。

 分からなかった。

「……お母さん……」

 琴音はそう呟いた。

 その声は、煙の中に溶けて消えた。



第二十四章 確認


 火は、夜になってようやく鎮圧された。

 大星百貨店の前には、まだ何台もの消防車が並んでいた。

 赤色灯が濡れた路面を赤く染めている。

 香苗と真一郎は、規制線の外で立ち尽くしていた。

 琴音の情報が入るかもしれない。

 そう思って、朝からずっとここにいた。

 結局、琴音が結び付く情報は得られないまま帰宅することにした。

 二人の脳裏には、燃え盛る大星百貨店が、いまだに鮮明に残っていた。

 次の日は、朝から火災のニュースで持ちきりだった。

 けれども、やはり琴音に関する情報が入ってくることはなかった。

 深夜を回った頃だった。

 家のインターホンが鳴った。

 モニターには、二人の警察官が立っていた。

 玄関の扉を開け、その顔を見た瞬間、真一郎の胸が嫌な音を立てた。

「高瀬さん……少しお話が。」

 香苗は首を傾げた。

「琴音ですか?」

 警察官はすぐには答えなかった。

 代わりに、静かに言った。

「本日、火災現場から発見された身元不明者がおります。」

 真一郎は眉をひそめた。

 意味が分からなかった。

「それが、琴音と何か関係あるんですか。」

 警察官は苦しそうに目を伏せた。

「確認をお願いしたいんです。」

 香苗は笑った。

 乾いた笑いだった。

「違いますよ。」

 警察官は何も言わない。

「だって琴音は行方不明なんです。」

 香苗は続けた。

「火事になったデパートに居る訳ないじゃないですか。」

 誰も答えなかった。

 その沈黙だけで、真一郎の身体から血の気が引いていく。

 案内された部屋は白かった。

 静かで。

 やけに明るかった。

 係員が布を持つ。

 香苗は何度も首を横に振っていた。

「違います。」

 布が少し上がる。

「違います。」

 さらに上がる。

「違います。」

 香苗の声が震えた。

「違います。」

 布が最後までめくられた。

 その瞬間。

 香苗の口から、小さな悲鳴が漏れた。

 真一郎は何も言えなかった。

 目の前にある顔は確かに琴音だった。

 けれど、それを理解することができなかった。

 どうして。

 なぜ。

 六日間どこにいた。

 なぜ火事の現場にいた。

 誰が連れて行った。

 何があった。

 何一つ分からない。

 分かるのは。

 もう帰って来ないということだけだった。

「……琴音。」

 真一郎はようやく声を絞り出した。

 香苗は崩れ落ちた。

「違う……」

 涙が止まらなかった。

「だって昨日まで……」

 香苗は泣きながら首を振った。

「まだ生きてると思ってた……」

 その言葉を聞いた瞬間、

 真一郎も立っていられなくなった。

 六日間。

 二人は琴音が生きていることだけを信じていた。

 だから探せた。

 だから耐えられた。

 その希望だけが、

 音を立てて崩れた。

「帰っておいでって……言ったのに……」

 誰にも聞こえないくらい小さな声だった。

「最後は帰っておいでって……約束したのに……」

 真一郎は香苗を抱きしめた。

 けれど、二人とももう、どこにも立っていなかった。



第二十五章 残影


 火は、発生から約八時間後の深夜、ようやく鎮圧された。

 大星百貨店は、正面玄関の華やかな電飾を残したまま、上層階の窓から黒い煙を吐き続けていた。

 当初、火元は地下二階の電気室と見られていた。

 しかし、現場検証が進むにつれ、電気室に火元らしき痕跡は見つからず、階段に置かれていた荷物やA7エレベーターシャフト、換気ダクトを伝って煙や炎が上階へ広がった可能性が高いことが分かっていった。

 そして数日後。

 焼け跡の奥から、図面に存在しない地下三階の空間が発見された。

 そこには、白く焼け残った壁。

 半分ほど炭化した幕。

 石製の台。

 身元の分からない複数の遺体。

 そして、焼けてしまってはいたが、おそらく写真とみられる紙類が奥の部屋に大量に保管されていた。

 大星百貨店は営業停止となった。

 消防の発表によれば、この火災で死亡したのは、地下三階にいた信者たち、そして六階で発見された高瀬琴音を含む二十数名。

 負傷者は百名を超えた。

 多くは煙を吸い込んだことによる一酸化炭素中毒や、避難時の転倒、火傷だった。

 大星百貨店の前には、しばらくの間、花束が絶えることはなかった。

 連日、遺族や関係者が訪れた。

 報道陣のカメラもまた、途切れることはなかった。

 焼け跡から発見された遺体の一部は損傷が激しく、身元確認には長い時間を要した。

 誰が帰ってきて、誰が帰ってこなかったのか。

 地下に存在した謎の宗教施設。

 見逃され続けた違法区画。

 遅れた避難指示。

 消えた少女。

 世間は、怒りと好奇心でこの話を繰り返した。

 けれど、その中心にいたはずの琴音が、なぜ六階へ戻ったのか。

 葉月が本当は、琴音を返そうとしていたこと。

 あの六日間に、二人がどんな時間を過ごしたのか。

 それを知る者は、誰もいなかった。



第二十六章 手記


 一ノ瀬葉月は、火災現場から救助された後、市内の病院へ搬送された。

 煙を吸い込んでいたことに加え、持病の進行により、身体はすでに限界に近かった。

 警察が事情を聞けるようになったのは、数日後のことだった。

 葉月は、地下三階に火を放ったことを認めた。

 高瀬琴音を自宅に連れ帰っていたことも。

 ただし、琴音を傷つけるつもりはなかったと、何度も繰り返した。

「返すつもりでした」

 葉月は、かすれた声でそう言った。

「あの子を、ちゃんと、お父さんとお母さんのところに返すつもりでした」

 その言葉が、どこまで信じられたのかは分からない。

 葉月は回復を待って逮捕された。

 けれど、裁判が開かれることは二度となかった。

 拘置中に病状が悪化し、医療刑務所内の病室へ移された葉月は、そこで一通の手紙を書き残した。

 宛名は、琴音。

 だが、その手紙が高瀬家に届くことはなかった。

 捜査資料の一部として保管されたまま、葉月の本当の言葉は、長い間誰にも読まれなかった。



 琴音へ

 これをあなたが読むことはないのかも知れない。

 でもこの手が動くうちに残しておきたかった。

 1982年12月8日。

 あなたが産まれた日。

 私の人生で一番辛かった日。

 世界一かわいいあなたを、初めて胸に抱き、そして、奪われた日。

 あなたの命が私のお腹に宿ったのは、私が17歳の時でした。

 たしかに、早すぎたのかも知れない。

 だけど、本当は一緒に居たかった。

 同い年のあなたの父親も、私とお腹の中のあなたのために、高校を辞めて働くと言ってくれた。

 彼は、私との結婚を許してくれと、何度も何度も、おばあちゃんに頭を下げた。

 だけど、おばあちゃんは猛反対だった。

 おばあちゃんは、私の言葉より、あの教団の言うことを信じていた。

 あの六日間、あなたと過ごして、よく分かった。

 私は、あの教団とおばあちゃんに、とんでもないものを奪われたんだと。

 お腹の中のあなたと一緒に、あなたが産まれた病院に行ったはずなのに、退院する時は、ひとりぼっちだった。

 最愛のあなたがどこで何をしているのか、元気なのか、あなたの名前すら、知ることができなかった。

 せめて、偶然出会えはしないかと、私は子ども服売り場で働きながら、ずっとあなたを探していた。

 毎年12月8日が近付くと、どこかにあなたが居る気がして、あなたくらいの歳の子を見ると、つい目で追っていた。

 ずっとあなたが心の中に居て、私は前に進めずにいた。

 私は去年、28歳のとき、おじいちゃんと同じ病気になってしまい、日に日にできることが減ってきていた。

 このまま、すべて奪われたまま死ぬんだと思っていた。

 そんな時、あなたが目の前に現れた。

 誕生日を聞いて、ああ、この子だって確信した。

 あの時、一度抱きしめた子だ。

 なぜか分かった。

 神様がいるのなら、私の願いを最後に一度だけ聞いてくれたんだと思った。

 あなたは、まっすぐで、優しくて、すてきな子に育っていた。

 きっと他人の気持ちのわかる、すてきな大人になるんでしょう。

 あの六日間は、私の宝です。

 最後に私を母親にしてくれてありがとう。

 私の子に産まれてきてくれて、本当にありがとう。

 今のお父さんとお母さんにも、本当に感謝しています。

 最後に身勝手をごめんなさい。

 どうか、

 幸せに。

 1994年1月15日

 一ノ瀬葉月



終章 雨


ーー2026年・秋

 大星百貨店は、あの日から何度も改装を繰り返した。

 焼けた壁はなくなった。

 人も入れ替わった。

 屋上遊園地はもうない。

 エレベーターガールもいない。

 六階の子ども服売り場も、今は別の売り場になっている。

 それでも、柏木には、この場所がずっと跡地に見えていた。

 定年退職の日。

 誰もいない平日の夕方。

 柏木は窓の外へ目を向けた。

 雨に濡れた街が滲んでいる。

 窓の外には、細い雨が降っていた。

 柏木は、かつて子ども服売り場があった場所に立ち尽くす。

 あの日。

 オレンジ色のワンピースの少女が、視界の端を横切った。

 声をかけていれば。

 その思いは、30年以上経っても消えなかった。

『お客様にご案内申し上げます』

 遠くで館内放送が流れた。

『迷子のお知らせです』

 柏木は顔を上げた。

 一瞬だけ、胸の奥が強く痛んだ。

 どこかで、子どもの笑い声がした。

 雨の匂い。

 磨かれた床。

 柏木は静かに目を閉じた。

 そして、深く頭を下げた。

 誰に向けたものなのか、自分でも分からなかった。

 ただ、長い長い時間をかけて、ようやく言えた気がした。

「……ごめんね」

 館内放送は、何事もなかったかのように続いていた。

 大星百貨店の灯りは、雨の夕方に、あの日と同じように静かに滲んでいた。


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